●引っ越し後の本の整理はだいたいついた。ただ、本の収納のことを考えるのが精いっぱいで、それなりに量のあるCDやDVDのことまで考えていなかった。引っ越しの時、かなり悩んで本の数は五分の三くらいにまで減らしたのだが、CDやDVDまでは吟味している余裕がなく、粗よりはしたけど、あるものをほぼそのまま段ボールに突っ込んで持ってきてしまった感じだ。音楽には疎遠だとはいえ、蓄積されたCDは600枚以上はあって、少なくはない場所をとる。DVDも加えると小さめの本棚がもう一つ必要なくらいだが、置く場所はない。いや、なくはないのだが狭くなるので置きたくない。そこで思い切って、ケースは全部廃棄して、中味のディスクだけをディスク用の袋にいれて保存することにした。そうすると嵩は三分の一以下に、いやもっと小さくなるはず。
それで600枚分のプラスティックケースを廃棄するのだが、これで面倒なのは、表側のジャケットはすぐに取り外せるけど、裏側のジャケットは板と板の「間に挟まって」いるので、ぴったり密着している二枚のプラスティック板をひき剥がして中の紙を取り出さないと不燃ごみに出せないことだ。10枚や20枚ならなんていうこともないが、これを600枚分やるのはけっこう面倒だ。一枚の裏表で二つポケットがついているディスク袋を買ってきて、ケースからとりだしたディスクを片側に、もう片側に表ジャケットを入れて、その後、ケースの後ろ側の密着した二枚のプラスティック板をひき剥がして裏ジャケットを取り出し、不燃物のプラスティックケースと可燃物の裏ジャケットを分けてごみ袋に入れる。これを600枚分、もくもくとやっていた。
この作業にうんざりした理由の一つに、CDを入れるプラスティックケースというものが、「物」としてまったく面白味がないということもある。ジャケットがいくらいいデザインであっても、それを取り除いた後のケースのあまりにつまんない姿をみると、なんだお前うわべだけじゃんか、というがっかりな気持ちになってくる。お前、実はそんなだったのか、見なければよかったな的な。ピンクとか赤とか青とか、色をちょっと変えたくらいではその「物」としての面白くなさをまったく少しも誤魔化せない。たまに紙ジャケットとかがあると、デザインが駄目でも紙で出来ているというだけで全然感触が違う。紙であることに癒される。プラスティックの質感がつまらないだけでなく、この大きさに対するこの厚さという比も、絶妙にかっこ悪いような気がしてくる(実際、普通のサイズより「薄め」のケースは、プラスティックでも規格サイズほどは嫌じゃない)。CDが普及しはじめた時に、なぜこんなものを規格サイズにしてしまったのだろうかと、今さらだけど感じた。
CDの普及とグラフィックなものの地位の低下がパラレルだという話はよくあるかもしれないけど(印刷媒体としてのグラフィックはどうしたって音楽と結びつかなければポピュラーな力は得られないということは否定できない事実だろう)、それはCDのサイズの小ささや、アナログレコードとちがってCDがデータであるから「物」としてのジャケットがどうでもよくなりがち等の理由もあるだろうけど、それだけではなく、このプラスティックケースの規格が、どうしようもなくかっこ悪いので、これ以上どうしようもない感じで、やる気が出なかった、ということもあるのではないだろうか、などと思いながら作業した。
●実際、ケースから出てディスク用の袋に納まったCDはすっきりしていて、それこそコンパクトでいい感じだ。
●地元の図書館に『解明、M.セールの世界 B.ラトゥールとの対話』があって驚いた(「ラトゥール」で検索してもヒットしなかったけど、「ミシェル・セール」で検索したらこれが出てきた)。弟子のラトゥールが師匠のセールにいろいろと話を聞いている本。この本は、前からネットの古本屋で探していたのだがなかなか見つからなかった(セールはいきなり読むとかなり手強いので、このあたりが入口になってくれるのではないかと期待して)。まさか地元の図書館に置いてあるとは思わなかった(でも、セールの「主著」みたいなのは全然置いてないのだが)。借りてきた。
冒頭の部分。
《ブリュノ・ラトゥール----ミッシェル・セールには何か分からないところがあります。あなたはたいへんよく知られていますが、同時にまた、よく理解されていません。あなたの同僚の哲学者たちは、あなたの書くものをほとんど読んでいません。
ミッシェル・セール「そうですか。」》
●図書館の近くには中学がある。全校集会のようなものが開かれていて、生徒が校庭に集まっていた。教師が話しをしていた。それを聞いて、中学生の頃の嫌な感じを久しぶりに思い出した。
「三年生はいつまで喋ってるつもりですか。喋っていてもいいんですか。一年生や二年生はあなた方が静かになるのをさっきからずっーと待っているんですよ。待たせとけばいいんですか。それでいいと思っているんですか。三年生はそんなに偉いんですか。いつからそんなに偉くなったんですか。去年から不思議に思っていたんですが、普通は一年生は三年生の姿をみて、ああ自分たちもきちんとしなければと思うはずでしよう。それがどうですか。まったく逆になっているじゃないですか。三年生はそれでなんとも思わないんですか。恥ずかしくはないですか。ここまで言ってもまだ喋っている人がいる。ふう。そこの○組の先頭。お前のことを……」
驚くべきことに、三十年以上前から教師のする話はまったく変わっていないのだった。変わっていたのは、校庭にいる生徒の数がすごく少なくなったことだ。こんな話を、こんな口調を、中学の時に何度聞かされたことか。逆に言えば、中学を出て以来一度もこんな話し方をする人に出会ったことがない(いや、「問いかけ口調で相手を追いつめる」人はいるかもしれないが)。おそるべき教師口調。それにしてもこの教師は、話を聞いているが中学生だけだと思ってナメているのかもしれないが、この恥ずかしい特殊教師口調はマイクを通して市役所や図書館が集まる人通りの多いこの一帯に響いているのだ。声が聞こえてしまうこちらの方が恥ずかしくていたたまれなくなる。せめてそれは教室のなかだけにしてくれと思う。