笠井潔『群集の悪魔』/風俗/革命/ラカン/ジジェク(だらだらつづく話)

(一昨日から、何かダラダラと続いている)ポーによる探偵小説『盗まれた手紙』を特権的なテクストとしているのだから、ラカン派の精神分析もまた同様に、探偵=分析医であってみれば、「複数の差異による闘争の場としての法廷」という次元を欠いている、と言う鎌田氏の批判があてはまってしまうのではないだろうか。例えばジジェクは『汝の症候を楽しめ』の、デリダを批判している一章『「手紙はかならず宛先に届く」のはなぜか』の註の部分で、例外的に手紙が届かない可能性のある例として、精神病的な主体を挙げている。《「手紙が宛先に届く」ためには、主体がコミュニケーションの回路に入らなければならない。すなわち主体に、真理の所在地としての〈他者〉との弁証法的関係を引き受ける能力がなければならない。》つまりそのような能力に欠ける精神病=分裂病者に限っては、手紙は届かないこともあり得ると言っているのだ。手紙は主体間の象徴的ネットワークによって配達される。そして、たまたま偶然にその手紙を受け取った(呼び掛けに応えた)者こそが、手紙の目的地=宛先なのだ、と。(手紙か偶然着いた場所こそが、手紙の宛先だと言うのだ。)だから手紙は必ず届くのだが、他者の呼び掛けに応えようとしない精神病者(つまりそれは、主体間の象徴的ネットワークに参入することなく、ただひたすら「現実界」のみと関わっている、という意味だ。)には、手紙を受け取ることが出来ない。しかしこれだと、「手紙が宛先に届く」ためには、他者との関係があらかじめ内面化されている場合(つまり神経症者)に限る、と言うことになってしまう。ジジェクによれば、ある主体が他者からの呼び掛けに応える、というのは、その主体の象徴的幻想空間に開いた空無である場所に、たまたま何か(手紙)がスッポリはまってしまった、と言うことであり、だから象徴的幻想空間に空位があることによってしか、ある主体は、主体間の象徴的なネットワークに参入することができないと言うことなのだ。これでは、あらかじめ差異を消去した、ある程度同質化され関係が内面化されている範囲に限り、手紙は必ず宛先に届く、言い換えれば、手紙が必ず届く範囲においては、手紙は必ず届く、と言っているだけなのではないだろうか。つまりこれは、1人の特権的な主体によって解明(あるいは表象)できる範囲に限っては、世界の秘密は解明される、という探偵小説的な知とかわらないのではないか。

ジジェクは、デリダへの批判として、手紙は届いた瞬間に手紙になるのであって、手紙が届く前に、ある目的地へと向けて投函される訳ではない、と述べている。だから、到着に先立って、手紙が何処かを彷徨っているような状態などありえない、と。つまりそれは、無意識が実体として何処かにある訳ではなくて、ある痕跡があって、そこから遡行すること(読み取ること)によってはじめて無意識の存在が露わになるのと同じである。届いた瞬間に手紙となり、届いたその場所こそが宛先であるような手紙が、何故、誤配されたりするのか、という訳だ。しかしデリダによって問題とされているのも、宛先に既に届いている手紙に、かつてあったはずの誤配可能性、ということだったのではないか。例えばそれは、アウシュヴィッツにおいてハンス少年が殺された、という事実があった時に、《ハンスが殺されたことが悲劇なのではない、むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかもしれないことこそが悲劇なのだ(東浩紀)》、と言うような意味での誤配可能性のことなのだ。すでに「そのように」あってしまったことが、「そうでなかったかもしれない」可能性を想定することが出来る、ということが誤配の可能性であり、届かなかったかもしれない、というその可能性によって、主体は「幽霊」に憑かれるのだ。(だから、どのような特権的な主体によっても、「幽霊」を解消すること=世界を解明することは、できないのだ。)それは、手紙が届いてしまったことを主体の「運命」だと速やかに受け入れるジジェクとは根本的に違っている訳なのだ。