東海道線には四人掛けのボックスシートがある車両がいくつか連結されている。ボックスシートの窓側に座ると外の風景がよく見える。電車から見る風景のいいところは動いているところで、それは近いほどはやく、遠くはゆっくりと、いくつもの段階に分けられて行き過ぎてゆく。そのズレにより空間のスケールをよく感じることができる。視線は時に高い位置に、時に低い位置になる。午後のやや遅い時間で斜めからの少し暖色の強い光が傾斜地の緑や家々の全面に当たっている。横浜までの三十分くらいの間、ずっと外の景色に魅了されていた。
●『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』、最終話。うーん。途中までの展開が素晴らしかっただけに、終盤(10話以降)の失速がとても残念に思われる。いかにも最終回っぽい前回で終わらせず、あえてもう一話つけくわえてくることから、きれいには終わらせない意思を感じて期待していたのだけど、むしろさらにきれいごとをとってつけたような感じになってしまったと思う(「俺たちの戦いはつづく」エンドだし)。
「キャラは、ただ同一性のみを再帰的に伝達する記号である」という斎藤環のキャラ論(『キャラクターの精神分析』)はそれとしてとても面白いのだけど、しかし、実際のアニメのキャラは、キャラであると同時に物語の登場人物でもあるから、成長したり変質したり関係が変わったりする。特に最近のアニメの多くは、コンパクトに12〜13話で高い密度の物語を語ることが多く、一シリーズのなかに三回くらい起承転結が仕込まれていることも多い。つまり、シリーズ中に三回くらいは、作品の行方や基盤を根本的にひっくり返してしまうようなどんでん返しが仕込まれることも多い。この時、「実は仮想世界でした」みたいに設定そのものを卓袱台返しするという手もあるが、それはやり過ぎるとたんに安易な手法になってしまう。そこで、作品の世界観さえ揺るがすような変化をつくるためには、登場人物を(登場人物の世界に対する認識を)変化させたり、登場人物間の関係を大きく変えたりする必要性がどうしても出てくる。だから最近のアニメのキャラはかなり変化するし成長もする(性格や認識、関係性などが大きく変化したとしても――作品内文脈が変化しても――なお同一性を保つものがキャラの――幽霊的な――「キャラ性」なのだ、というのが斎藤環の主張であるだろうけど)。
「下セカ」でも、アンナの性質の根本的な変化、轟力の狸吉に対する態度の変化、乙女、鼓修理などの新キャラの登場、SOXの啓蒙活動による知的状況の変化(それは、SOXと「生徒たち」との関係の変化でもある)などによって、作品世界を構成する関係(知と権力の優劣関係)、登場人物が行動する地となる世界のあり様が、展開のなかでダイナミックに変化しつづけていた。物語の展開が関係の変化につながり、関係の変化が世界(地)の変化につながっている。「下セカ」という作品のテンションの高さは、おそらくそのことに依っていたと思われる。しかし、9話までのところで「世界観」が完成してフィックスしてしまって、10話以降は、既に安定した世界観、すでに定まったキャラの性質や関係(分かり易い敵/味方関係)のなかで、展開のバリエーションが探られるという形になってしまったように思う(アンナなど、たんに利用されるだけの存在になってしまったし)。登場人物が、作品内人物としてもキャラ化してしまった。そうなると、この作品にあったダイナミックでポリティカルな性格が消えてしまう(ここで言うポリティカルとは、政治的な主張がなされているという意味でも、現実的な政治や世界の反映や批判があるということでもなく、立場や思想や知り得る知識や欲望が異なる人々が、それぞれのあり方で存在することによって、必然的にある抗争状態が生じ、その抗争を通じて互いが変化し、世界が変化してゆく様が、構造的に捉えられているという程度の意味です)。もともとかなり無理があり、貧しく限定された設定のなかで展開されてきた物語だけに、それにより急激に世界が単調になってしまったのではないだろうか。15日の日記にも書いたけど、「蒸れた布地(頂の白)」というわかりやすい悪を設定してしまったということも、関係の固定化につながったように思われる。
いい作品をつくるのはつくづく難しいことだなあ、と思う。本当にちょっとした違いなんだよなあ、と。