●一息ついたので小説を読んだ。古川真人「四時過ぎの船」(「新潮」2017年6月号)。新潮新人賞後の第一作。受賞から半年とちょっとで第二作というのはいいペース。あまりにも素晴らし過ぎる「縫わんばならん」に比べるとやや弛緩した感じだし、上手くいっていないのではないかと思うところもあるけど、でも、ぼくはやはりこの作家がすごく好きだと思った。出だしのイメージとかほんとに素晴らしい。
「縫わんばならん」で作者は、自己を主張するのではなく、他者-過去の声に耳を傾け、それを聴き、それをもとに言葉を編んでいく(縫っていく)媒介に徹していたけど、この小説では、他者(ここでは家族、特に亡くなった祖母)の声を聴き、その言葉を編むことと、これから《やぜらしか》この世界をまだ当分生きてゆかなければならない若い男(作者に近いと思われる)の事情とが、同じくらいの重要性をもって書かれている。今、生きている三十手前の男である稔と、既に亡くなったその祖母、佐恵子とが、書かれた小説という場で「出会う」ことがこの小説の目的の一つで、冒頭で、いわば虚空に投げられたような《今日ミノル、四時過ぎの船で着く》という佐和子の書いた文字(書いた本人さえも充分に読み取れない)が、あてどころなく浮遊し漂流してゆくが、最後には稔の元に辿り着き、受け止められる(そのことが稔を変化させる)、という話だと言える。
「縫わんばならん」に比べて弛緩した印象を受けるのは、おそらく未だ形にならない現在、つまり若い男の事情を大きく取り入れているからだと思われる。おばあさんや母親だけを書いた方が、小説としては形にしやすいのだろう。だだ、それはきっと必然的で、避けられないことだと思うので、「縫わんばならん」の次の作品としては、これでいいんじゃないかと思った。
一読者の希望として、この作家には、当分はこの「家族ネタ」をネタが尽きるまでしゃぶりつくすように書いて欲しいと思ってしまう。