佐藤弘『拍手と手拍子』

●「新潮」11月号に載っていた、佐藤弘の新人賞受賞後の第一作『拍手と手拍子』は良かった。出だしを読んでいる時は、文章が妙に上滑りする感じが良くなくて、新人賞をとった『真空が流れる』は結構好きだったけど、二作目は「外れ」だなあと思って、読むのをやめてしまおうかとも思ったのだが、少し我慢して読みつづけると、だんだんと惹き込まれてきて、そのうち、読みながら「嬉しい」という感情がこみ上げてくるのだった。小説を読んでいて「嬉しい」という感じになることは珍しい。この小説の主な登場人物たちは皆、二十代の始め頃の大学生で、本当になんと言うこともない大学生の生活が描かれるだけなのだけど、そんなことよりも重要なのは、この小説の基底を支えている気分が二十代始めくらいの「身体」のものだということで、ぼくはこの小説を読みながら、自分が二十代始めくらいだった頃の、二十代始めである自分の身体から感じられていた触感のようなもの、二十代始めの身体で外の空気に触れて、二十代始めの身体で他人に接していた感覚のようなものが、生々しく喚起されてくるのを感じていたのだった。この小説の主人公が自分の若い頃と似ているというのでは全然ないし、この小説に描かれている事柄=物語が自分の過去を思い出させるというのでは全くなくて、あくまでも身体的な感触のことであり、その身体によって生じる(外気と触れ合った時の)「気分」のことなのだが。(これはあくまで「男」であるぼくの感触で、女性が読んだらどう感じるのかはちょっと分からないけど。)
●この小説の主人公は、あまりにも都合良く女の子にモテ過ぎるし、「あまりにも都合良くモテてしまう」ことに対して、あまりにも「当然」であるかのごとく振る舞っているのが、なんとも鼻持ちならない、という批判はあり得るだろうと思う。実際この小説の登場人物たちからは、対人関係における嫉妬や固執、独占欲とかいった、そんなものを持つのは嫌なんだけども不可避的に心のどこかに沸き上がってしまうドロドロしたもの、が、きれいに漂白されてしまっているように思える。つまりこの小説からは屈託や屈折といったものが排除されている。主人公の一人称で描かれる記述によってその心理の流れを追ってゆくと、主人公が不自然なまでに(詭弁を使ってまで)嫉妬や固執を避けて通っているようにさえ感じられるかもしれない。主人公がそんなに「余裕げ」なのは、常に複数の女の子からモテていて、しかもそれが当然であると思っているからで、そんなのあまりに都合が良過ぎるではないか、と。しかしこのような不自然さは、この小説にとっては必然的なものであるように思う。この小説は、「青春」から、ドロドロとした「屈託や屈折」を差し引くことで、前述したような、(十代とも三十代とも異なる)二十代始め頃の身体を「持っている」という感触(二十代の身体によってこの世に存在しているという感触)、その身体によって「外気(他者)」と「接している」という感触を、生々しく捉えることに成功しているのだと思われる。(屈託や屈折が強く出てくると、どうしても「私=自我」が強調されてしまうし、「文学的=内面的」になってしまうだろう。例えばこの小説において主人公の異性との関係は、決して「恋愛」の問題として焦点化されることはなく、つまり自我の空転や肥大とは全く関係なく、あくまで性欲の問題としてあり、セックスの感触の問題としてある。つまり、二十代始め頃の身体を持った男性が、異性の身体を前にしてどのような感触を持つか、異性の身体に対してどのように関わるか、自分自身のなかに芽生えた性欲とどのように関わるか、という問題としてあらわれる。別に女の子との関係だけじゃなくて、男同士の関係でも、だらだらした感じが二十代始め頃に特有のもので、このだらだら感は、やはりこの年齢の身体的な感触と関係があるように思う。あるいは、季節の変化、気温の変化、空気の変化を、この年齢の身体がどのように受け止め、あるいは撥ね返しているか、とか。)この小説の基底にある「気分」はあくまで(二十代始め頃という時期の、男性の)身体によって醸し出されるものであって、それを明確に捉えるために、他のものはかなり意図的に脇に避けられているのだと思う。