『真夜中の弥次さん喜多さん』と『フリクリ』

宮藤官九郎の『真夜中の弥次さん喜多さん』は最近観た映画のなかでは『スクラップ・ヘブン』と並ぶくらいのひどい映画で、クドカンが監督としての能力がないのは仕方がないとしても、この、原作の上っ面をなぞっただけのような何の工夫も感じられない脚色で一体何がやりたかったのかさえさっぱり分からない。だらだらとつづくバラエティーショーのような映画がつくりたかったのだとすれば、しりあがり寿による異様なテンションが漲るコミックを原作とするという選択からして間違っているのではないだろうか。この映画を観ていて思うのは、いわゆる「フィクション」と言われるものであっても、その大部分は、我々が生きている現実の世界の秩序(と、普通に「信じられて」いるもの)を基盤に成立しているということで、フィクションのなかでさえもそれを踏み越えようとすること(ぶっちゃけ、デタラメをやること)を成立させるためには、相当な力技が必要だということだ。
●フィクションのなかで、我々が生きている世界の秩序(と「信じられているもの」)を踏み越えるにはどうすればよいかということを、アニメーション(と言うか、「日本のアニメ」)は、歴史的にずっと考えつづけ、そのための技法や作法を練り上げてきたと言えるのではないだろうか。それは一方で、作法が作法として現実と切り離されて、閉ざされたままで独自に発展してしまい、マニアにしか理解できない(というか、マニア以外は近づくことさえためらわれるような雰囲気を持つような)ものになってしまっているという側面もあるのだが、しかしそれでも、そのような技法と作法の練り上げによる蓄積には大変なものがあることは間違いがないように思う。ぼくはアニメに関して何も知らないので、ツタヤのアニメの棚の前をなんとなく流していて目についたものを借りてきただけで、この作品がどのような位置づけにあるのかは全く知らないのだけど(さすがに、ガイナックスとか鶴巻和哉とか榎戸洋司という名前には「見覚え」はあるのだけど)、ほんの気まぐれで観た『フリクリ』(1)(2)は、とても面白いものだった。
アニメというのはやはり、作家がつくるものと言うよりは、ジャンルとしての「アニメ」の総体によって蓄積されたもの(東浩紀の言う「データベース」のようなもの)のなかで作品が生み出されてくるという傾向が強いと感じられるし、まさにそのことによって、ある「豊かさ」を得ているし、「我々が生きている世界の秩序(と「信じられているもの」)」をフィクションが踏み越えることの「閾値」を低くしているようにもみえる。(それはしばしば、「ついていけないようなアニメノリ」となるのだが。)しかしその作品を、たんなる「萌え要素」の組み合わせとして、受容者のパプロフの犬的な反応を得るためのものだとするのは納得できない。例えば『フリクリ』においては(まだ、1と2しか観てないけど)、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』の少年(小学生)版みたいな作品風土に、いきなり、非現実的で突飛な美少女キャラが乱入してくることで、その(今流行の、とは言ってもこの作品は1999年に製作されているのだけど)「郊外の物語」的な風土が揺るがされ(別の風土が接続されて混濁し)、さらにそこに「戦闘ロボットもの」的風土までが接続される。これらの個々の要素(個々の風土)そのものは、ジャンル内(データベース内)のお約束の範疇にあるのだろうけど、これらの風土が平然と(メタレベルを介さないオブシェクとレベルで)繋ぎ合わされてしまう、共存してしまうような基底的空間の(シュールな混濁の)あり様こそが、あるリアルな感触を伝えるのだと思う。そしてその「基底的空間」の説得力(リアリティー)は、やはり個々の要素の「充実」によって支えられている。例えば、少年の額に出来てしまったツノのような瘤が、破裂しそうなまでに膨らんでゆく、というのは、あからさまで陳腐な性的な(文学的な)「比喩」に過ぎないのだけど、それが破裂したところからいきなりロボットが現れて暴れ出し、そのロボットの(半ば金属的であり、なかば有機的でもあるような)造形や、その戦闘シーンの完成度が、「エヴァンゲリオン」以降の作品として充分な質(充実)を持っていることによって、たんなる「比喩」ではない別物(ハンスの「馬」のような実質のある感覚)に変質する。(宮藤官九郎の作品に決定的に欠けているのは、個々の要素の充実であり、それがもたらす感覚的な実質だと思う。)