●以下は、レンタルビデオ店の新作の棚の前をうろうろしている時に思いついた、思いつきにすぎないことなのだが、フィクション(ぼくが想定しているのは映画と小説で、アニメはまたちょっと違う気がするのだが)では一般的に、ホラーというジャンルにおいては「表現」が突出する傾向があり、ミステリというジャンルにおいては「形式」が突出する傾向があり、SFというジャンルにおいては「世界観」が突出する傾向があるのではないか。ここで突出とは、ある種の現代性としての「新しさ」が受肉される部分ということでもあり、同時にそのジャンル自体の「破綻」に接近する部分ということでもある。これは、ジャンルとしての傾向と言うよりも、たんにぼく自身がそのジャンルに対して無意識のうちに求めているものということなのかもしれないのだけど。
(ここで「表現」とは個々の表現のエレメントの強さや斬新さという感じで、「形式」は作品全体としての構築性やフレーミング、「世界観」は、作品としての形式性というより作品内“世界”=虚構世界の構成や構築性というニュアンス。)
逆から言えば、ジャンル物とは、ある一点に集約される突出する部分以外の要素においてはあくまで常識的、保守的な範囲に留め、それによって、突出する部分と社会的にある程度共有されるエンターテイメント性とを両立させているということなのかとも思う。表現としては斬新だけど、世界観は凡庸とか、未知の世界観を示してはいるけど、形式としては保守的とか、形式的にはすごく過激で面白いけど、細部の表現がありがちとか。人は新しいものを求め、その新しさを楽しむのだけど、すべてが未知であるととりつくしまがないし、ついてもゆけなくなる。そのバランスこそが最も難しいし、重要なのだ、ということか。
●ただ、ぼく自身は、表現においても形式においても世界観においても突出したもの、あるいは、表現の突出と形式の突出と世界観の突出とが切り離せない形で必然的に絡み合っているような状態をどうしても求めてしまというところがある。そうなると作品は居場所を失う。とはいえ、ジャンルというものは実は、そのようなどこにも行き場のない作品をも、ある程度は引き受けて受け入れるだけの度量があるものなのではないかという気も、最近ちょっとしてきた。いやむしろ、ジャンルという外枠によってこそ、行き場のない作品の「行き場」が、わずかとはいえ確保されるのもしれない、と。