2023/11/02

⚫︎すごい表現だ。以下、ムージル「愛の完成」(古井由吉・訳)より引用。

《(…妻の)夫を眺めやる視線は、夫とひとつの角度を、硬いぎこちない角度をなした。》

《確かに、それは誰の目にも見えるようなひとつの角度だった。しかしそれとは違った。ほとんど質感にひとしいものを、その中に感じとれるのは、この二人だけだった。彼らはこの角度がきわめて硬い金属でできたすじかいのようにあいだに緊張して、二人をそれぞれの椅子に抑えつけ、それでいて、互いに遠く隔たっているにもかかわらずほとんど身体に訴える一体感へと結びつけるように思われた。それは互いのみぞおちあたりに支点をもち、彼らはそこに圧迫を感じた。その力を受けて、彼らは目もふらず眉ひとつ動かさぬまま、椅子の背にそってぎこちなく押し上げられた。》

《ほとんど現実のものとは思えぬほどかすかではあるが、いかにもたしかなこの感じを、かすかにふるえる軸のように拠りどころにして、さらにまた、この軸の支点をなす二人を拠りどころにして、部屋全体は立っていた。》

⚫︎妻が夫を見る視線の「角度」が、硬い金属のような質感を持って、筋交のように二人の間にあり、その金属の筋交は二人それぞれのみぞおちのあたりに当たっていて、その筋交の圧力に押されるように(背筋を伸ばすような感じで ? )二人は共に椅子の背に沿って押し上げられる。ここまででも相当すごいが、さらに、この二人の間にある(ない)筋交の硬さと圧力、そしてその圧力を受け留めて支えている二人の身体に支えられて、「この部屋」それ自体が立ち上がっているのだ、と。

部屋があって、その部屋の中に、ある関係性を持った夫婦が存在するのではなく、夫婦の間にある関係性の質感と圧力が、部屋の存立の拠りどころになって空閑を支えているという因果の逆転がここにはあるのだが、これが比喩ではなく、(フィクションとしての)「この空間」が、字義通りにそのようにして成り立っている。この表現がこのようになされていることで、空間がそのように成り立っている。フィクション内の物理法則がそのようになっている。

この表現を比喩として受け取ってしまうと、これをどう読むのかという解釈の問題になってしまい、「この表現」を読んでいる「この身体」、そして、読んでいるこの身体を成り立たせている「この空間」に直接効いてこなくなってしまう。

⚫︎つづき。このつづきの部分は、直前ほどはすごくないと感じられるが、とはいえ面白い。

《ちょうど飽和液の中でいきなり面が整い、結晶が形作られるときの……。二人のまわりに結晶が生じた。その中心軸は二人をつらぬき、そして息をひそめ、盛り上がり、まわりに凝固していく結晶をとおして、二人は幾千もの鏡面をとおすようにして見つめあい、いま初めてお互いを見出したかのように、ふたたび見つめあった……。》