●『にほんかいいもうとといぬ』(小林恵)は、妹と犬とともに海岸を散歩する作者が、それを手持ちのビデオカメラに納めたというだけの作品だが、それは決して、ありふれた日常を手持ちのビデオカメラで新鮮に切り取ったというような作品ではない。それは、例えば、あるミュージシャンの集団が、毎晩即興演奏を行い、それをすべて録音していて、その録音が一年分とか二年分とか溜まった段階で、そのなかで最も成功した夜の録音から、そのもっとも充実した十分間だけを取り出して作品とした、というような感じだ。それは、その時、その場所で即興的に撮影したものでしかあり得ないような予測不能な自由な動きや展開の複雑さと、即興では困難だと思えるほどの、みっしりとした密度と凝縮性とを両立させた、驚くべき作品だと言える。
とにかくそれは、あまりに過剰な知覚によって成り立っている。それは決して、我々の日常的な知覚ではない。もし我々が、日常的にこんなに過剰な知覚を受け取っていたとしたら、心の休まる暇もなく、緊張のあまりぷつんとキレて、頭がおかしくなってしまうだろう。そのような意味で、この作品の知覚は、作家のもの、妹と犬と共に海岸を散歩する、このカメラを操作している者のものではなく、あくまで世界を撮影するカメラのものだ。作家は、海岸、妹、犬、そしてカメラという、本質的に異なる者たちの間にたち、それを必至に媒介し調整しているに過ぎないだろう。この作品が十分足らずの上映時間しか持たないことは、適当なことだと思われる。もし、この密度が二十分も三十分もつづいたら、それを観る側は、それに耐えられなくなってしまうだろう。
まず冒頭からいきなり、吹き荒れる風がマイクに当たる音がゴウゴウと響きつづけ、砂浜の砂や木の杭の生々しいテクスチャーが示され、そこをすり抜けて行く犬の機敏な動きが見られる。浜辺に着いて抑制を解かれた犬は、縦横無尽に駆け回り、まったく予想出来ないタイミングで、まったく予想出来ないところから、フレームに侵入したり、出ていったりする。その予測不能な素早い動きの一方、妹は、あくまでマイペースを貫き、カメラを構える作家が、「あいこーっ、おいで」と怒鳴っても、ゆったりのったりと歩きつづける。強風で、浜辺に生える緑の草もなびくし、犬の茶色い体毛もなびく。砂浜には、数多くの杭が撃ち込まれ、足跡や風紋が刻まれ、それが手持ちで揺れるカメラによって生々しく迫って来る。ユキと呼ばれる犬の黄色い綱がヘビのようにたゆたう様がクローズアップで捉えられたかと思うと、浜辺の小屋がロングショットで捉えられ、カメラを操作する作家の影が砂浜に写り、その髪が強風で揺れているの分かり、犬の尻尾がクローズアップされる(この映画はすべてワンカットで撮られているのだが)。「あいこ」と呼ばれる妹は、あくまでマイペースでゆったりと動くにしても、その動きには油断がならない。いつの間にか拾っていた棒切れ(三回目に観た時、ようやくその棒切れを拾う瞬間を確認できた)で、砂地に意味不明の記号を描いたかと思えば、ふいにどこか別の方向を向き、その視線を追うカメラは、遠くに佇む犬の姿を捉えることになる。かと思えば、妹は拾った棒切れの先で海岸に落ちていたゴミのようなものをつっつき、ひっかけ、拾い上げたりする。その間も、犬は休むことなく駆け回りつづけ、せわしなくフレームを出たり入ったりしている。カメラは、じっくりと落ち着いて妹を捉えていたかと思えば、ふいに空に飛んでいる飛行物体に視線を移したり、浜辺を走る乗り物を捉えたりする。風の音はずっとマイクに当たりつづけ、波は荒れて白く泡立ち、海面は金属質に輝き、空は鈍く光っている。それらが、目や耳にべったりと貼り付くほどにせまってくる。ずっと黙っていたこの妹は、映画の終盤、海辺の突端で風に吹かれつつ、ふいに上機嫌に、「海の男だーっ、てか」という言葉を発し、つられて姉も、カメラの後ろからそれを繰り返す。強風が妹の髪を乱し、カメラは嬉しそうに笑う妹の顔にかつてないほど近付く。姉は常に「あいこ」と呼びかけ妹を気遣っているが、妹もまた「(海に)落ちんな、お姉ちゃん」とカメラを操作する姉を気遣う。カメラは、妹のパーカーの皺や犬の毛並みに、風紋や海面のうねりと同じ強さのテクスチャーを示すほどに近付いてゆく。そしてまた離れてゆく。
犬は駆け回り、妹はのんびりと動き、風は吹き荒れ、その間を縫うように撮影者が動き、波は荒れ、海は輝き、カメラは、その撮影対象と撮影者の、その動きや呼吸を同時に記録する。しかし、それを記録するカメラは、撮影者や撮影対象とはまったく関わりがないカメラ自身の原理によって、いわば過剰な知覚としてそれを記録する。カメラを操作する者(作家)は、決してそのカメラが記録しているその知覚、その風景、そのテクスチャーを、その場では知ることが出来ていないだろう。撮影者の知覚-経験は決してカメラの記録する知覚とは重ならない。そのような条件を受け入れた上で、カメラを操作する作家は、妹と犬と、海との間で、自らの位置を常に測りつづけ、自らの行為を決定しつづけるだろう。撮影者の、撮影対象との距離の設定はきわめて柔軟かつ鋭敏であり、それは、撮影対象そのものに寄り添うのと同時に、撮影しているカメラの性質にも寄り添っている。そしてその上で、撮影対象たちの複雑な「動き」に対応しようとしている。まったくバラバラともいえるそれらの動きは、ただ撮影されることによってだけ、繋がりや関係が見出されるかのようだ。それはまさに、その場で即興的に決定されるからこそ可能なものであるのと同時に、即興によるものとは信じられないくらい的確で間違いがない(と、あくまで事後的に感じられる)ことによって可能になる。
この作品は、ハンディなビデオカメラの普及によってはじめて可能になったものであり、同時に、映像によってしか示し得ない何かを提示していると思われる。