2023/06/05

⚫︎『こどもが映画をつくるとき』(井口奈己)を観た。これは素晴らしかった。ぼくはどうしてもキアロスタミが(すごいとは思っても)好きになれないのだけど、これを観て、その感情は間違っていないと思うことができた。

この映画を観ていると、「子供」というのは、人格の全裸状態というのか、その人がその人であることを、照れも抑制も恥ずかしげもなく、そのままずるっと丸出しにしているような状態としてあるのだなと感じる。そして、この映画に出てくる大人、ワークショップの指導者である「おーちゃん」と「ふかちゃん」は、その全裸状態を、可能な限りそのまま受け入れる。こどもがやりたがらないことについて、「ちゃんとやりなさい」みたいなことは一切言わず、こどもが受け入れ可能でありそうな別の提案をするか、やらないならやらないに任せるかする。事故に遭わないとか、迷子にならないとか、喧嘩にならないとか、見守りながらそういう最低限の配慮はしているのだろうが、それ以上の制御はあまりせず、こどもたちのありように最大限任せようとしている。

事前にプランがあるわけでもなく、最低限の技術的な指導をした後ですぐ、撮影機材を持って「映画を撮るぞ」と外に出る。初対面で、年齢にもばらつきのあるこどもたちが、6人一組の二つのチームに別れる。人格全裸状態であるこどもたちは、それぞれがそれぞれとして振る舞っていて、まとまりなどなく、こんな状態で、たった3日で、まとまった何かが作れるような気配は全然ない。ヘソを曲げるとか、飽きるとか、居場所がないとかで、集団を離れて一人きりになる子がいても、指導者は特に配慮するわけでもない(でも、こどもの誰がが配慮したりする)。特に「おーちゃん」チームの混沌はすごくて、うわー、こどもめんどくせー、指導者になんか絶対なりたくねー、と思う。

(カメラの扱いをおぼえるために、まず、こどもたち全員が、一人ワンカット5秒の映像を撮り、自分の撮ったカットに自己紹介の映像をつける。自己紹介といっても、カメラに向かって自分の「呼び名」を言うだけなのだが、たったそれだけのことに、一人一人の「人格全裸」が既に溢れ出ていて、その時点で胃もたれするというか、本当に「人間」はめんどくさいものなのだなあと思う。)

人格全裸状態であるこどもも、十歳を過ぎるくらいになると、それなりに責任感とか役割意識のようなものが芽生えるみたいで、比較的年長であるこどもが自然と中心になることで、なんとかかんとか撮影は成立する。中心的役割といっても、リーダーとして引っ張るみたいな感じではなく、むしろ控えめにみんなの意見を聞いたり、整理したりする感じ。とはいえ、ワンカット撮るごとに常に何かゴタゴタが発生し、こどもめんどくせー、映画の撮影めんどくせー、この場に居合わせたくねー、と思いながら観る。

(とにかく、隅から隅までめんどくさい映画で、これにきちんと付き合う、指導者である「おーちゃん」と「ふかちゃん」に対して、ただただすげえなと尊敬する。)

ぼくは映画の「現場」経験は全くないのだが、でも、映画ってそもそもこういうものなのだろうなあということを、とても強く感じた。さすがに、プロの現場は、みんな大人だし、専門技術者の集まりなのだから、もっと整然としているのだろうが、とはいえ、基本は「これ」なんだろうな、と思った。基本、混沌としていて、一つ一ついちいちめんどくさくて、それを一つ一つ解決していくしかない、という感じ。この映画の面白いところは、一つは、こどもたちの「人格全裸」のありようが、可能な限り抑制のない状態で写っているということがあるが、それともう一つ、映画を撮影するという行為の基本というか、あるべき姿の一つが示されているとということもある。

(仮に、ぼくが映画を作るということがあるとしたら、撮影前にこの映画を観直したい。)

⚫︎ワークショップでこどもたちが作った映画は、この『こどもが映画をつくるとき』という作品には含まれていない。しかし、YouTubeで観ることができる。どちらも面白いのだが、特に「おーちゃん」チーム(青チーム)の映画がびっくりするくらい良い。あの混沌の中から「これ」が生まれるのか、という驚きもある。

こども映画教室@宮崎映画祭 青チーム『宮崎神宮の自然と音』 - YouTube

こども映画教室@宮崎映画祭 赤チーム『商店街のふしぎな道』 - YouTube