吉本隆明は『ハイ・イメージ論』の「連結論」で、昨日の日記で引用した「柳田国男論」にも書かれていることと同じようなことを、現代的な視点から書いている。二つの仕事はほぼ同時期のものなので当然とも言えるが、重複しているということは、吉本の関心が(何度もそのまわりをまわるように)そこへと強く引きつけられていたということだと思われる。
《わたしたちはしばしば、街角や町並みにある一軒の商店が、引っ越して住人がかわったり、商売をかえたり、あるいは木造住宅がボロ屋になって、とりこわされて新しいビルになり、ちがった外装に仕あげられた場面にであう。そしてその建物が街筋に馴染みはじめると、ほんの数ヶ月もたたないのに、もう以前にそこにどんな家があったのか、どんな店がまえだったのかおもいこすのがむつかしいことがある。わたしたちは、家屋の記憶があまりにはやく消えてしまうことに愕然とする。計略にかかって何か蓋をされた感じさえする。これならメモか写真をとっておけばよかったと後悔するが、あとの祭りなのだ。なぜ街筋にならんだ建物の記憶された像は、そんなにはやく消えてしまうのか、誰もうまくは説明してくれない。でもそのわけは単純なようにおもえる。特別なばあいをのぞいたら街筋や街角にならんだ建物は、形や外観に、心情をかさねたり好悪の感情もこめていない。どんなにたくさん見慣れていても視線でなでまわす以上のことをやっていないと、一日に何度くりかえしても、それを数十年積み重ねても、別のものに変わって慣れてしまえば、もう以前の像をつくりあげるのが難しいことになる。この情けないほどはやく建物の記憶が消えてしまうのをどこかでふせぎとめようとおもうなら、その方法もたったひとつのような気がする。それは鳥瞰された世界視線からのイメージを記憶していることだ。》
●このことはぼくもとても気になっている。建物も含めた土地や空間の記憶は、残っているところでは濃厚に残っているのだが、記憶された空間はなめらかに連続的なものではなく、多くの欠落部分があり、欠けている部分はすっかり欠けていて、今、そうであること、今、それに馴染んでいることの方が圧倒的に強くなってしまう。ここにはあの店があり、その二つとなりにはあの建物があったのは明確に覚えているのに、その間になにがあったのかまったく思い出せない、というようなことがある。それも、ほんの数ヶ月前のことなのに。
(そして、それを防ぐためには、意識的に、空間を構造的に把握しようとする必要がある。でも、普通に散歩している時に、そのような意識で風景を観ているわけではない。でも、ぼんやりと歩いていて、時にふと「構造に気づく」ことはある。意識的に探るというよりも、あくまで「ぼんやり」のなかから「ふと気づく」というのが楽しいのだ。)
●ここで思いつくのは、グーグルは、グーグルカーによって撮影されるストリートビューの画像を、どの程度の頻度で更新し、そして、更新される前の画像データをどの程度保存しているのだろうか、ということだ。もし、かなりの頻繁で画像を更新し、撮影されたすべてのデータを更新後も位置情報とひもづけたままで保存しているとしたら、これはまさに世界視線となり、ストリートビューのなかに、柳田的な景観の歴史が保存されていることになる。ストリートビューの革新性は、空間的なものというより、時間(いままで歴史とされなかった景観というものの歴史化)にかかわるものなのではないか、と。
●(追記)しかし、上のストリートビューとはことなる形の世界視線もあり得る。世界視線は複数あり得る。吉本隆明共同幻想の時間と空間」(『柳田国男論集成』所収)で次のように語る。
柳田国男は南島についてこんなことを言っているところがあります。南島の、たとえば沖縄本島の西海岸と東海岸とでは船で廻ると距離で十キロとか二十キロしかありません。ところで沖縄本島から沖縄諸島のはずれの宮古島へは直線距離で二百キロくらいあります。それにもかかわらず、むかしの櫓で漕ぐ船とか帆で走る船とかに乗ったとすると、沖縄本島東海岸から西海岸へ行く時間より宮古島までの時間のほうが早いっていうことがありえるんだということを柳田は言っているのです。するとふつうわたしたちの距離感をかえなければなりません。いまの人は機関がついている船に乗って、時速何ノットで走れば何時間で、十数キロより二百キロ走るほうがおそいに決まっているじゃないかとおもっているかもしれません。むかしの手漕ぎや帆の船では十数キロより二百キロのほうがはやく着くことがありうるのです。なぜかといえば、ひとつは潮の流れがあるかなのです。それからもう一つは風の方向があるんだということです。》
《そういうイメージを柳田国男は晩年近くになってか提出しました。これはとても重要です。わたしたちが船に乗ったきりの体験でいったら、そういうイメージ、そういう認識はでてこないはずなんです。だから柳田はもうひとつ上の方から見ている視線というのか、感じているものがあって、それがいつでも加わっていることが、これらのイメージや認識をつくるうえの特徴になっています。》