●自分が書く文章は、起承転結の「転」の部分が弱いということは自覚している。そして、最近気づいたのだけど、起承転結というのは「物語」の「形式」なのではなく、思考の過程そのものなのではないか。要するに、何かを考える、あるいは、何かを作り出すというのは、「転」を生みだすということではないか、と。「起」と「承」というのは、考えのはじまりにあるアイデアであり、それを考えるために必要な知識や道具を集め、それらを使って思考を具体的に展開することや、そのための方法を定めることで、そしてその思考のなかから何か思わぬもの、予想や直観に反するもの、あるいは、考え始める前には思いもつかなかった意外なものが出てきたという出来事をあらわすのが「転」ではないか。そして、「転」が生まれれば、そこから自動的に「結」が導かれる。
重要なのは意外な結末(結)ではなくて、思考によって「転」という出来事が起るか、起らないか、なのではないか。「転」が充分に意外な(新たな)ものであれば、そこから導かれる結果というか、結末に関しては、予想通り、常識通りのものであったとしても、その常識のあり様そのもの(常識の中味)が変質していることになる。