●まったく余裕のない一週間だったけど、とにかく、やるべきことを締め切り以内に終えることはできた。
●『福岡伸一、西田哲学を読む』で池田善昭は、西田の「逆限定」を樹木と年輪、その環境という例で説明する。
《環境と樹木という主体の両方の立場を考えるとき、環境は明らかに樹木の内部からすれば外側にありますね。ところが、樹木の中の年輪からするとねそれは内側の問題になるのです。》
《言い換えれば、外側の、時の流れという時間(環境)は樹木の内部において年輪という形に「包まれ」ています。だから、樹木は時間の流れのなかに包まれていながら、樹木の年輪の中に(時間を)包んでもいるわけですね。そして、包んでいるものと包まれているものは矛盾しているけれども逆に対応していて、「自己同一」である、ということになるのです。》
《西田は「作る・作られる」という表現をよく使います。つまり、いまの話で言うと、年輪は作られたものである、と。しかし、作られていながら、年輪はその中に作ってもいるというのです。》
《何を作っているのか---年輪の立場から言うと、ピュシスという自然全体の流れをつくっていることになります。彼はそれを「歴史」と言っています。》
●しかし、この説明に福岡伸一は納得せず、ここから対話はかみ合わない、堂々巡りのようになって、対話はいったん中断する。以下は福岡による異論。
《(…)互いに相反する二つの作用が、同時に、逆方向に、働いている状態こそが生命の動的平衡であり、自己同一である、ということも大変よく理解できます。そのとき時間が生み出されていることもわかります。》
《年輪をめぐって、作用している互いに相反する二つの作用とは何と何でしょうか。
第一の方向は、環境のの変化が、年輪の形成に対して波上のパタンを刻み込んでいる作用だと思います。でもこの「逆」が何であるか、いまひとつはっきりとつかめません。
年輪の形成を「包み・包まれ」と表現すると、互いに逆限定のように聞こえますが、これは第一の方向を、能動態(環境は年輪を包む)と受動態(年輪は環境に包まれる)とで言いかえているだけで、合成と分解、同化と異化、エントロピー増大とエントロピー減少、といった明示的な二つの逆作用が働いているようにはどうしても理解できないのです……》
●これに対する池田の返信。
《「包まれつつ・包む」というのは、主語と述語とを入れ替えた能動態と受動態の言い換えではなくして、主語はそのままでいえることなのです。つまり、「環境が年輪を包む」→「年輪が環境に包まれる」の言い換えではなく、「環境は年輪を包む、同時に、環境は年輪に包まれる」となるのです。よりピュシスとしての自然の実態に即して言えば、年輪は環境に包まれつつ環境を包み、かつ(同時に)環境は年輪を包みつつ年輪に包まれる、となる。能動態と受動態の言い換えは、この一部を表現しているに過ぎず、全体とはまったく異なることにご注意ください。》
《第一の方向は、極端に言ってしまえば、「時間の空間化」作用で、その逆は「空間の時間化」作用と言ってよいかもしれません。このとき、第一の方向の作用はロゴス的思考によって(近似的に)とらえられます。しかし、その逆作用はロゴスによっては隠されてしまいます。》
●福岡はこの説明によって納得を得る。
《年輪のたとえの中で、わたしがなかなかわからなかったのは、(1)「環境が年輪を包み、同時に、環境は年輪に包まれている」の後半の部分です。環境の変化が年輪の形成に作用をなしている(環境が年輪を包む=年輪の形成)ことは明らかですが、では「環境は年輪に包まれる」=「年輪は環境を包む」といったとき、年輪に包まれる環境がどのように私たちに
作用しているか(見えるのか)が、なかなかわかりませんでした。》
《でもそれがようやくわかってきました。年輪は環境の変化を繋いでくれているのです。ゼノンの矢が各時点で点でしかなかった、その点をなめらかな連続したつながりとして表現してくれているのです。時間の表出です。つまり年輪は環境の移り変わりの時間を生み出している、といえるでしょう。》
《いずれにしても、逆限定=合成と分解、エントロピー増大と減少、年輪の形成と表出、この逆反応がぐるぐるまわることによって初めて点が結ばれ、時間が流れだすことがわかります。つまり逆限定とは時間を生み出すしくみだといえるように思います。》
●なるほど、という感じだ。ただしここで福岡によって、「合成と分解」とか「作られると作る」というのと同様の相反する(矛盾)する逆向きの作用として「(年輪の)形成と表出」がとらえられている点はけっこう重要だ(「作る」と「作られる」との逆限定の一つのバージョンだといえるけど)。ここは常識的に(ロゴス的に)考えた場合、すんなりとは呑み込めないところだと思う。合成と分解が相反するのと同じように、形成と表出とが相反しているといえるのならば、確かに、形成と同時に起こる「表出」によって(形成と表出の循環によって)「時間」が生まれると考えることに納得がいく。でも、そう考えるためには「表出」という出来事に「分解」と同じような物理的実質を認めることになる。
(この本ではおそらく、この「表出」が西田の言う「歴史」と重ねられている。形成が表出を包んでいるのと同様に、表出が形成を包んでいるといえるのならば、たしかに表出は歴史とほぼ同義となるだろう。)
たとえば対話の途中に、福岡によって量子力学観測問題が話題に上るが、池田によって、量子力学と西田の「逆限定」の関係性は否定され、そこから議論は平行線になっていく経緯が書き込まれている。「逆限定」は「観測」のような出来事(他者の介入)とは抜きに理解されなければならないと池田は主張する。しかし、「表出」に「分解」と同等の物理的作用の地位を与えるとなると、「他者による観測」と「自己(年輪自身)における表出」との違いはあるものの、ここで再び、観測問題と同様の、客観から主観への跨ぎ越えのようなことが起こっている(この「袋を裏返す」というような出来事そのものを「生命」と言うのだ、となるのだろう)。この本では、この跨ぎ越えは、ロゴスによって説明されるのではなく、ピュシス的に直感されなければならないという話になっている。
(ただ、表出は観測と異なり、必ずしも意識や認識を必要としないので---誰からも、自分自身からさえも、観測されなくても、表出はそれ自身で表出でありえるから---表出を「主観的」としてしまうのは問題があるかもしれない。客観と主観の中間あたりにある感じだろうか。)
「感覚的にすごくわかる」し、異論はないのだけど、同時に、感覚的にわかるというだけでいいのかなあという気もする。この部分をもっと考えていこうとすると、どうしても「内部観測」のようなことを考えざるを得なくなってくるように思われた。
●ロゴスによってとらえられる「時間の空間化」に対して、ロゴスによって隠される「空間の時間化」(福岡の言う「時間をかせいでいる」部分)を、ハーマンの「脱去」との関係で考えることはできるだろうか。もしこれが間違いでないとすれば、ハーマンと西田に内部観測もつながってくる感じになる。