●『きっと、うまくいく』(ラージクマール・ヒラーニ)をようやく観た。インド映画。寝しなに、どんな感じかはじめの方だけちらっと観ようと思ったのだけど、途中でやめられなくて最後まで観て、ほぼ朝になってしまった(3時間の映画)。
原題(英語タイトル?)が「3 Idiots」となっているけど、基本的に理系(工学系)エリート学生たちの話。作中で学長が全国一位とか言っていたから、インドのような大きな国でこの大学に入れた時点で、東大理Ⅰとかに入るよりもずっと厳しい競争を勝ち抜いてきた人たちということだろう。狂言回しであるファランは、在学中ずっと成績が最下位なのだけど、といっても、この大学で落第しないのなら、それはそれだけで相当なものなのだろう(就職先に対する「商品価値」だってそれなりに大きいはずだ)。だからこそエンジニアをあきらめて「動物カメラマン」になることは大きな決心なのだ。背景には、日本では想像がつかないような厳しい競争社会があるのだろう(未遂も含めて、作中に三人もの自殺者が存在する)。
とはいえ、基本的にすごく楽しい映画だ。伏線のはりかたとその回収の仕方がとても(手数が多く、かつ)細やかであることに驚かされるとはいえ、ベタベタに古典的なエンターテイメントの文法のみを使ってつくられている映画なのに、(それなりにフィクションにかんしてすれっからしであるはずのぼくが)こんなにも保留なしで楽しく観られてしまうのは何故なのだろうか。笑って、泣いて、しみじみと考えさせられる、とか、そういうの嫌いなはずだろう、自分、と思うのだけど、いや、とても面白かった。まったくこじらせることのないまっすぐな反権威主義と正義感と理想主義とが、現代のフィクションでもちゃんと成立することがあり得るんだなあ、と。ぼく自身の「芸術」にかんする考え方が、どこか間違っている(こじらせすぎている)のではないかと揺らいでしまいそうになるような、ベタな娯楽作にして傑作という感じ。
でも、ハリウッドやヨーロッパや日本では、この感じは難しいかなあ、と。たとえばハリウッドでやるとすれば、とても白々しい「感動作」になってしまうか、『インヒアレント・ヴァイス』のように「敗北」を描くことになってしまうように思われる。いや、優秀なスタッフやキャストに恵まれれば、テレビドラマでなら「この感じ」を成立させることも可能かもしれない(「映画」の人には無理かもしれないけど)。
たとえば、この映画に出てくる「学長」のような、権威主義そのものを体現する人物は、実際にはなかなか存在しないだろう。表向きはもっと物分りのよさそうな顔をした小さな「学長」もどきたちがたくさんいて、彼らによって張り巡らされた見えない抑圧ネットワーク(政治)が、加害者も被害者もこれといった自覚のないままで、じわじわと締め上げるように学生たちを抑圧し去勢していくとか、そういう感じなのだろう。抑圧するのが特定の人格をもった「誰か」ではないから、ランチョーのようなとらわれのない人物がいたとしても、この映画で最終的に「学長」が彼に説得されたようには、現実には、説得するべき主体が存在しないので説得もできない。だから、ただ自然とハブられるだけかもしれない。そして、そういう状況を表現しようとすると、作品はどんどんややこしくなっていく。
でもこの作品では、そこは寓話でいいのだ、と。ある種の抑圧する力のようなものは、「学長」のようなエンタメ的に戯画化された人物として表現してしまえばいい、と。重要なのはそこではない、と。とはいえ、この映画で主人公たちをより強く抑圧しているのは、「学長」であるより、家庭環境だったり、経済状態だったりもする---それは過剰な競争を自然として受け入れさせる社会のなかに包摂されている---のだけど(だから「学長」は悪というより、戯画的悪「役」だ)。
社会に対してポジティブな種を蒔ける人というのは、「頭のいい落ちこぼれ」みたいな人なんだな、と、この映画を観て思う。落ちこぼれは、反権威ではなく非権威だ。落ちこぼれといっても、アーティストや批評家みたいな人種は、妙にひねくれたこだわりや、こじらせた他者への承認欲求を捨てきれないから、根本的に駄目なんだな、と。つまんない保留のない、ベタに理想主義的で、かつ、ベタに(半端なく)頭のいい人こそが、この世界のなかに「ポジティブな種」を仕込ませることができる(オレ様が革命を起こしてやる、とかではなくて)。大学で様々な問題に直面した(超優秀であり、様々なことが可能であるはずの)ランチョーがやろうとしたことは、社会を直接変えようとすることではなく、種を蒔くことだった。
(ランチョーにそれを決心させたのは、恋人であるピアの姉の出産を手伝うというアクシデントを経験したことではないだろうか。)
(ランチョーには、「電気→小便→男性器への攻撃」という反権威機械の創造という方向があり、もう一方に、「女性器→出産→電気の欠如の補填」という種を蒔く機械の創造という方向がある。ランチョーにとって重要な「創造」は後者であった。)
●もしかしたら、映画版『人類資金』がやろうとしたことは、『きっと、うまくいく』みたいなことだったのではないだろうか。残念ながら、うまくいってはいないと思うけど。