ロバート・ゼメキスの『マリアンヌ』、とても良かった。お話も、展開も、結末も、ほぼ読めてしまうというか、定型通りなのだけど。新鮮さはなく、もう十分に知っているような話であっても、「いい話」は「いい話」であって、そして、それを改めて非常に高度な「語り」(演出、演技、セリフ、場面のつくり方、つなげ方、等々)において語り聞かせられることの喜び。ほとんど伝統芸能というか、名人の語る古典落語みたいな感じか。でも、確かにクラシカルではあるのだけど、懐古趣味とか、古典主義(古典回帰)みたいな感じとは違う。現代ならではの技術をいろいろ使いまくっているという意味で現代的語りであり、けどそれが「これみよがし」ではなく、うーん渋いなあ、という感じ。
これは伏線ですよという(あるいは、ここでタネを仕込んでますよ)というカットが(とはいっても、さりげなく)あって、後にそれが、予想通りといえば予想通りではあっても、それでもこちらの想定を越えた何かしらの工夫がプラスされた形で回収されることで、納得とともに驚きが訪れ、それによって非常に充実した手応えが感じられる。あるいは、なんとなく流して観ていたカットの重要性を、事後の展開によって遡行的に気づかされる。あくまで、ある想定された範囲内でことが収まりながら(予想外の展開や斬新な演出のようなものは抑制されている)、しかしそれでも、その想定を確実に越えてくるような感覚的(感情的)な質感がたちあがるという、贅沢だけど瀟洒な感じが、二時間ずっとつづく。
そして、それをつくっているのがゼメキスであるということもまた、なんとも味わい深い。ゼメキス、渋くなったなあ、と。
(それとはまた別に、この物語のもっている、シンプルで幾何学的な「動かし難さ」というのは何なのだろうか。意外な展開とか、よけいな手数とか、どんでん返しの結末とか、作者の思い入れやメッセージを託すとか、そういうことはやっちゃいけないと感じさせるシンプルな「これしかない」感。その都度、変換を被りながらも、何度も語り直されるこの「信頼と裏切りと運命」に関する何かは、物語の原型的なものというよりも、幾何学的に決定されているフォーム、という感じに近いように思われた。)