2024/04/08

⚫︎『ART AND OBJECTS』(グレアム・ハーマン)が扱っているのは、具体的な作品というよりあくまで美術に関する言説で、作品そのものについて多少なりとも突っ込んで書かれているのは、六章のダダとシュルレアリスムとの根本的な違いについての部分くらいだろうか。だから、美術というより美学の本で、カントから始まり、フリード、グリーンバーグ、ローゼンバーグ、スタインバーグ、クラーク、クラウス、ランシエールが扱われ、加えて、ダントーやド・デューヴ、フォスターなどにも触れられる。扱われている人たちは、「モダニズムとの距離感」によって立場を測れるような、つまり、批判的であったとしても割合とモダニズムの近傍にいる人たちで、クレア・ビショップとかボリス・グロイスみたいな人には触れられない。要するに「古いモード」の中で書かれている。今、あえて、この「古いモード」を(魔改造して)持ち出すというところに、ハーマンの意図があるはずだろう。

(少し読み進めれば、ハーマンの「演劇性」とフリードの「演劇性」とでは、どう考えても違う事柄を指しているよなあ、と思う。)

⚫︎カントについて検討されたあと、様々な、グリーンバーグ以降の美術に関する言説が、OOOとの比較の中で検討される。だからこの本には、OOOの原理を用いれば何でも語れてしまうよ、というような危険さはある(様々な言説は、OOOとの相違によって測られる)。それに、「専門家」であれば、相当の慎重さが要求されるであろう「言説史」を、(美術の専門家ではなく、あくまで哲学者だという立場を「悪用」して)かなり大胆にざっくりした感じでやっているようにも見える。だが、ぼくにとっては、この「粗さ」こそがハーマンの魅力であるように思われる。専門家ではないからこそ(美術の方の専門家ではなく哲学の方の専門家であることで)、(美術の)現在の文脈の上に「古いモード」をしれっと乗っけることもできる。ツッコミどころのない、精度の高い本を書くよりも、今、これが必要だというものを、今、ここに出現させようとする。

(少なくともぼくにとって、今、こういう本があってくれることで大変に助かる。)

(この本が、たとえば大学で「グリーンバーグ以降の美術批評」という講義があった場合、そのためのテキストとして使えるものなのかどうかを「専門家」に聞いてみたい感じはある。)

⚫︎「OOOの原理を用いれば何でも語れてしまうよ」というような危険さは、ハーマンの書くものには常にあるように思う。でもそれは逆から考えると、OOOの原理をどこまでも拡張して使ってみるという実験であり、ある装置を、どこまで拡張できるのか、実際に拡張してみるとどうなるのかを試しているのだとも言える。脇を固めるよりも、とにかくどんどんやっていく(本を書きまくる)という姿勢に好感を持っている。

(ジジェクの「ラカンを使えば何でも説明できるよ」とはかなり違うように思われる。)

2024/04/03

⚫︎英語で書かれたテキストをGeminiに助けられながら読んでいると、あるブロックだけ、何度やっても翻訳が拒否される。AIでエラーが出ることは珍しくないが、たいてい、何度がやり直せばちゃんと「答えて」くれる。しかし「I can't assist you with that, as I'm only a language model and don't have the capacity to understand and respond.」というメッセージが出るばかりだ。

仕方がないので、そのブロックだけDeepLで翻訳してもらった。そして、ああ、もしかすると、と思った。そのブロックでは精神分析について触れていて、その関係で、性的にかなり露骨な、というか、意図的に下品で露悪的な表現が使われている文がいくつかあった。もしかすると、こういう表現は翻訳するのを拒否するように調整されているのかもしれない。

誰でもが自由に使えるAIに、危険を避けるような抑制がかけられるのは当然だし、仕方ないことだが、ここまで潔癖である必要があるのかな、と思った。DeepLは「翻訳」のみに特化されているものなので、危険なことに使われる危険度が低く、その分抑圧も緩いのかもしれない。

(でも、DeepLには勝手に意訳したり省略したりする癖があるんだよなあ、と思う。)

⚫︎あるAIに翻訳をしてもらって、別のAIに「その翻訳の評価」をしてもらう、という手があることに気づいた。

2024/04/02

⚫︎(昨日からのつづき)「二つのレアリスムの間に」(「批評空間」二期7号)でフリードは、左右の反転にとてもこだわっている。クールベの『石割り人夫』において、描いている右手に該当するハンマーの男は画面向かって右側に、パレットを持つ左手に該当する若い男は向かって左側に配置されている。これは、キャンバスと向かい合って右手で絵を描いているはずのクールベの身体と直接的に繋がっている。筆を持つ右腕が向かって右側に、パレットを持つ左腕が向かって左側にあって、それがそのまま画面に溶け込んで埋め込まれている。

それに対しラトゥールの自画像は、鏡に映った自分の像を描いているため、描かれた画家は、右手で画帳を持って左手で描いている。これでも実は、描いている画家の右手の延長上に、画面内の画家の左腕があることになるので、連続していると言えないこともないが、しかし決定的に違うのは、画面内の画家が「こちら」を向いていることだ。

クールベの『石割り人夫』に描かれる人物は二人ともこちらを向いていない(特に若い男はほぼ後ろ姿だ)し、『小麦をふるう女』も、中心にいる人物は向こうを向いている。つまり、絵を描いている画家と同じ方向を向いている。クールベが、描かれたものとと同じ方向を向いていることで画面内に自然に没入しているのに対し、ラトゥールは自身の像と対面している。ここに「鏡」を使うことによって生じる矛盾が現れる。自分自身の像と対面するのならば、その自分もまた右手で描いていなければならないはずだ。というか、因果としては逆で、画面には描かれていない「鏡」の存在(媒介)を知ることができるのは、描かれた画家が左手で描いているように見えるからだ。

ここでフリードは、ラトゥールがレアリスムのダブルバインドに陥っていると書いている。つまり、自分以外のすべての人が見ている世界の現実に忠実であろうとするならば、画家は右手で描いていなくてはならないが、「目に見えている現実」に忠実であろうとするならば(画家の目は「鏡像反転した自分」しか見ることができないから)、画家=わたしは左手で描いていなければならない、と。

そしてラトゥールは「自分の目に見えている現実」の方を尊重して、「左手で描く画家(わたし)」の像を描く。ただこれは、「自分以外のすべての人に見えている現実」としては嘘になってしまう。ここでフリードは、この絵から見て取れる「ハッチングの方向」に注目する(ハッチングという言葉がわからない人は「タッチの方向」だと思ってください)。通常、右手で描く画家は「右上から左下に向かうハッチング」を使い、左手で描く画家は「左上から右下に向かうハッチング」を主に使う(人体の構造上、そうするのが最も自然である)。ラトゥールはこの自画像を、主に、というか、ほぼ「右上から左下に向かう」ハッチングを用いて描いている。つまり、このハッチングの方向によって、画家(わたし)が「これ」を右手で描いているということを強く表現しているのだ、と。

ラトゥールは、「自分の目に見えている現実」を尊重して「左手で描く画家」を描くという意味では「視覚のレアリスム」に属するが、ハッチングの方向によって「右手で描いている」ことを絵に直接的に刻み込んでいるという意味では「身体のレアリスム」に属するのだとフリードは書いている。ラトゥールは、歴史的に、クールベ的な身体のレアリスムと、印象派的な視覚のレアリスムの間に位置するのだ、と。

《こうしたこと全てはマネについては全く当てはまらない》と、フリードは最後にマネの自画像に触れる。

《マネの自画像では、見ることと描くことのある種の速度に対して初めて関心が払われ、それが目と身体、あるいはむしろ目と手を、まさしく同じ状態に、少なくとも均等な圧力の下に、位置付ける(「身体」というよりもむしろ「手」といったのは、『パレットを持つ自画像』では、身体化のために片手や両手の仕事を動員するよりもむしろ手の器用さを全面に押し出しているからである。…)。》

《『パレットを持つ自画像』に込められた虚構とは、マネが、鏡の中に左右逆転した自分のイメージを見るや否やその手と絵筆の見事な名人芸でその姿を描いた、というものである。(…)非常に省略されて描かれたマネの絵筆を持った左手(実際には彼の右手)は、同時にあらゆる場所に存在する、すばやい休みない動きの中にあることを暗示することによってこうした虚構を確証しているのである。》

《(…)絵画と見るものの間の、互いの対面の逃れることの出来ない、半ば超越論的な関係、最初の出会いのしるしとしての瞬間性(及び際立った印象)に対するマネの深い執着は、この初期から彼の芸術の決定的な特徴をしていた。》