2024/04/09

⚫︎あらゆる物は複数の部分からなる(下方解体・還元主義)。あらゆる物は相互作用する(上方解体・ホーリズム)。しかし、下方解体によっても上方解体によっても還元されないものこそが物(対象)である。ハーマンはそのように言う。だからハーマンの言う対象(存在者)は、下方解体と上方解体の中間にある「形」あるいは「輪郭線」あるいは「外皮」あるいは「ブランク」のようなものとなるだろう。存在しない輪郭線こそが「存在(者)」である。あるいは、輪郭線を確定する主体はそれを見る者(認識論)ではなく、輪郭線そのものの方だ(存在論)、ということになる。対象のもつ「汲み尽くせなさ」や「無限の深さ」は、その徹底した薄っぺらさ(深さのなさ)による捉え難さからくる。ある対象が環境からも構成要素からも自律して存在するということを、ハーマンはそのように捉えていると言えると思う。

対象は、リテラルな記述によっては捉えられず、比喩によってしか捉えられないというハーマンの理屈は、固有名は確定記述の束には還元できないとするクリプキの理屈に似ている。しかしここで、固有名(≒比喩)によって名指される存在は、それを名指す者によって定められる(認識論)のではなく、名指されるものそのものが自ら固有の何かとなる(存在論)、という理屈になる。

自らの輪郭を自ら定める輪郭線そのものとしての対象。モノとは、中味(構成要素)でもなく、関係でもないとすれは、それが「何処」にあるのかわからなくなる。だから「モノの持つ深さ」とは、我々が「深さ」という語からイメージするものとはまったく異なっているだろう。モノの深さは、それが存在する「位置」を確定できず、故にはっきりとは捉えられないことからくる。あえて言えば、モノは、世界の外からこの世界の内側に射映される、無限に薄っぺらくて厚みのない「形(影)」のようなものだ、ということになる、と言っていいのか?

(クリプキの固有名論は、様相理論、可能世界意味論へと通じる。固有名は「この世界の内部」だけでは捉えられない。)

こういう言い方をすると、『ART AND OBJECTS』の中ではあまり高く評価されていないデュシャンと、ハーマンは近くにいるように思えてくる(『ART AND OBJECTS』では、デュシャンレディメイドの人としてしか考えられていない)。そして、アラカワ+ギンズにも近づいてくるように思われる。

2024/04/08

⚫︎『ART AND OBJECTS』(グレアム・ハーマン)が扱っているのは、具体的な作品というよりあくまで美術に関する言説で、作品そのものについて多少なりとも突っ込んで書かれているのは、六章のダダとシュルレアリスムとの根本的な違いについての部分くらいだろうか。だから、美術というより美学の本で、カントから始まり、フリード、グリーンバーグ、ローゼンバーグ、スタインバーグ、クラーク、クラウス、ランシエールが扱われ、加えて、ダントーやド・デューヴ、フォスターなどにも触れられる。扱われている人たちは、「モダニズムとの距離感」によって立場を測れるような、つまり、批判的であったとしても割合とモダニズムの近傍にいる人たちで、クレア・ビショップとかボリス・グロイスみたいな人には触れられない。要するに「古いモード」の中で書かれている。今、あえて、この「古いモード」を(魔改造して)持ち出すというところに、ハーマンの意図があるはずだろう。

(少し読み進めれば、ハーマンの「演劇性」とフリードの「演劇性」とでは、どう考えても違う事柄を指しているよなあ、と思う。)

⚫︎カントについて検討されたあと、様々な、グリーンバーグ以降の美術に関する言説が、OOOとの比較の中で検討される。だからこの本には、OOOの原理を用いれば何でも語れてしまうよ、というような危険さはある(様々な言説は、OOOとの相違によって測られる)。それに、「専門家」であれば、相当の慎重さが要求されるであろう「言説史」を、(美術の専門家ではなく、あくまで哲学者だという立場を「悪用」して)かなり大胆にざっくりした感じでやっているようにも見える。だが、ぼくにとっては、この「粗さ」こそがハーマンの魅力であるように思われる。専門家ではないからこそ(美術の方の専門家ではなく哲学の方の専門家であることで)、(美術の)現在の文脈の上に「古いモード」をしれっと乗っけることもできる。ツッコミどころのない、精度の高い本を書くよりも、今、これが必要だというものを、今、ここに出現させようとする。

(少なくともぼくにとって、今、こういう本があってくれることで大変に助かる。)

(この本が、たとえば大学で「グリーンバーグ以降の美術批評」という講義があった場合、そのためのテキストとして使えるものなのかどうかを「専門家」に聞いてみたい感じはある。)

⚫︎「OOOの原理を用いれば何でも語れてしまうよ」というような危険さは、ハーマンの書くものには常にあるように思う。でもそれは逆から考えると、OOOの原理をどこまでも拡張して使ってみるという実験であり、ある装置を、どこまで拡張できるのか、実際に拡張してみるとどうなるのかを試しているのだとも言える。脇を固めるよりも、とにかくどんどんやっていく(本を書きまくる)という姿勢に好感を持っている。

(ジジェクの「ラカンを使えば何でも説明できるよ」とはかなり違うように思われる。)

2024/04/03

⚫︎英語で書かれたテキストをGeminiに助けられながら読んでいると、あるブロックだけ、何度やっても翻訳が拒否される。AIでエラーが出ることは珍しくないが、たいてい、何度がやり直せばちゃんと「答えて」くれる。しかし「I can't assist you with that, as I'm only a language model and don't have the capacity to understand and respond.」というメッセージが出るばかりだ。

仕方がないので、そのブロックだけDeepLで翻訳してもらった。そして、ああ、もしかすると、と思った。そのブロックでは精神分析について触れていて、その関係で、性的にかなり露骨な、というか、意図的に下品で露悪的な表現が使われている文がいくつかあった。もしかすると、こういう表現は翻訳するのを拒否するように調整されているのかもしれない。

誰でもが自由に使えるAIに、危険を避けるような抑制がかけられるのは当然だし、仕方ないことだが、ここまで潔癖である必要があるのかな、と思った。DeepLは「翻訳」のみに特化されているものなので、危険なことに使われる危険度が低く、その分抑圧も緩いのかもしれない。

(でも、DeepLには勝手に意訳したり省略したりする癖があるんだよなあ、と思う。)

⚫︎あるAIに翻訳をしてもらって、別のAIに「その翻訳の評価」をしてもらう、という手があることに気づいた。