福居伸宏の写真

●渋谷のTWS shibuyaで「東京画」という展覧会を観た。浅見貴子展が最終日だったのでもう一度観ておこうと思って出かけ、その割と近くでやっているのを知ってぶらっと覗いてみただけで別に何の期待もなく、実際、ざっと会場を巡ったかぎりではあまり面白いとは思えなかったのだが、もう少しで見逃してしまいそうだった中二階みたいなスペースがあって、そこに展示してあった福居伸宏という人の写真の作品が素晴らしかった。窓から漏れる(ランプではなく)蛍光灯の光りを、こんなにもうつくしく捉えたイメージを、ぼくはいままで見たことがないと思った。見落とさないで本当に良かった。(「東京画」は残念ながら今日が最終日。)
●夜景という言い方は正しくなくて、夕方から夜になってゆく中間あたりの微妙な薄暗さ。しかしそれは、実際にそのような時間に撮られたというより、長時間露光によって、ちょうどその辺りの時間を思わせるような明るさのトーンになったというものだろう。だからこの薄明るさをつくりだしている光源は、日の光りではなく人工的な光りであると思われる。撮られているのは都市の風景であり、複数の建築物が折り重なった様子である。それぞれの建築物は、人の手によって計画的にデザインされたものなのだろうが、それぞれ別々に建築され、別々な用途によって使用された、それぞれに別々の時間が刻まれたそれらが複数折り重なると、それらはまるで森のなかで複数の種類の違う植物が折り重なったかのような複雑さをつくりあげる。しかしこれらは人工的な建築物であり、そのほとんどの部分が直線によって構成されている。人工的な直線と、人工的な照明が折り重なってつくりだす、森林的な複雑さと密度。その不思議な(自然ではあり得ない)薄明るさ。薄明るさとも薄暗さとも言えるこの微妙に作用し合う光りのなかで、遠景から近景まで、可能な限りシャープにピントが合わされているので、光りの弱さが、ぼんやりとした曖昧さとしてあらわれるのではなく、この「光りの弱さ」そのものがひとつの「実体」としてあるかのような硬質な質感を生み出している。(ぼくは写真に詳しくないので全くの間違いかもしれないが、これらの写真はデジカメで撮られたように感じられる。デジカメ特有の、ニュアンスを塗りつぶしてしまうグレーの調子というのがあると思うのだが、こられの写真は、そのような「デジカメっぽいグレーの調子」を、きわめて美しく利用し、それによって独自の質感を生んでいるように思われた。)
薄暗さはしばしば、人間的なやわらかさやあたたかさとして現れる。夕暮れの薄闇は、殺伐とした都市の風景をやわらかくつつみ、人工的な照明にあたたかさを加える。しかし、これらの写真の硬質な薄暗さ(薄明るさ)は、そのようなやわらかさやあたたかさの調子を含むことなく、どこまでも非人間的でニュアンスを欠いていて、その精緻な硬質さによって冷ややかな美しさを保っている。しかしにも関わらず、その複雑さは、植物的とも有機的とも言えるような高い密度をもっているのだ。(写真は必ずどこか一点から風景を捉える。だから必然的にひとつの「視点」を含んでしまうものなのだが、これらの写真は、撮影された対象のもつ表情があまりに多様であり、それらが複雑に絡むようなフレームが選択されていることもあって、「視点」というものが消失してしまっているかのように感じられる。)これらの写真に写されているのは、ごくありふれた都市部の風景の断片に過ぎないのだが、にも関わらず、いままでこんなものは見たことがないと感じられるような異様な密度がある。写真を見る者は、この分裂にとまどいつつも、目に貼り付くように主張してくる密度を受けとめ、そこから目が離せなくなる。この密度はしかし、独自の薄暗さ(薄明るさ)の質によって調整されているから、我勝ちに自己主張してくるわけではなく、おだやかに、しかしだからこそ強く、見る者へと迫ってくる。見る者は、複雑に絡み合う多様な密度のなかで距離や視点を奪われつつも、薄らと漂う弱い光りによって、錯乱状態に陥ることも許させず、知覚の過剰によって引き起こされる興奮もまた、この非人間的で冷たいトーンによって冷やされる。写真として見えているものは、極めて人工的で抑制された美しいトーンであるが、その冷静な風景の裏側には、あきらかに殺伐とし喧噪に満ちた都市部の生活の記憶があり、そして、その興奮が、迫りくる夕闇と身体的な疲労とによって冷まされてゆく感触が貼り付いてもいる(見えているものの表面はあくまで冷静なので、その「熱」を完全には意識にのぼらせることができなくて、むずむずする)。これらの写真は、視点が消失しているので、それを見る時、それを見ているのは「私」ではないという感触を生む。それを見ているのは「私」ではなく、「私」は、今見ているものの内部にいる。しかし、その内部にいながらも、「私」は、私が今見ているものを見ることはできない。そこで「私」は消え、身体にのこされた喧噪と疲労の記憶のみが、そこから切り離され、ひからびた形で宙に浮かぶ。
●例えば、ユトリロは大した画家ではないが、少なくとも、石造りの建築物の壁の表情が人に与える感覚と、油絵の具のテクスチャーとを、それまでの画家とはまったく違ったかたちで共振させる術を発明したことは間違いないだろう。ユトリロはそれを、すぐに安易な文学性と結びつけ、感傷に流し、商売に利用してしまうのだが。福居伸宏の写真もまた、我々にとっては見慣れた、ありふれた都市部の風景と、写真という装置とを、独自なやり方で共振させることで、それを見るものに、今まで意識にのぼることのなかった新たな風景の感触が、意識の下の方でかりたてられる時のざわめきを感じさせる術をもっている。ガラスのような物質にプリントされているのも、イメージの硬質さを生むのに有効だと思えた。脇の壁に小さな写真(これはインクジェット・プリントだろうか?)が沢山貼り付けられているのも、その無数の小さな風景が、前面に展示された大きな風景の感触を、下支えするようにして、説得力を支えていた。
●福居伸宏の作品は、ネット上でもみられるみたいだけど(http://www.nobuhiro-fukui.com/index.html)、パソコンのディスプレイでは「あの感じ」はあまり伝わってこない。