●小鷹研究室の発表を観たこともあって、久々に『恐怖』(高橋洋)をDVDで観直した。面白かった。
この映画を、表象不可能性を扱ったメタ・ホラー(メタ・恐怖)のようなものとしてのみ捉えるのは一方的すぎると思う(作者の高橋洋自身が、そう思っているとしても)。こり映画は、この世と、その絶対的外部としての---存在しないものとしての、あるいは表象が不可能なものとしての---あの世という図式だけに収束はしないはずだと思う。
そのような見方は、この映画が、母と娘の話であり、姉と妹の話であること、そして、脳の内側と外側の反転、子宮の内側と外側の反転、スクリーンとプロジェクターの関係の反転があること、つまり、複数の双対性、複数の反転があるのであって、この世とあの世という唯一の二項の反転があるのではないという点を見逃していると思う。
この世とあの世との関係は、表象と表象不可能性、体系とその余剰、内部とその絶対の外部という、唯一の双対性としてあるのではない。何ものも映し出さない「光」そのものの明滅は、表象不可能な外部を表すのではなく、スクリーンの後ろ側と同時に、スクリーンの向こう側にもプロジェクター(光源)があるという、トポロジー的な反転という出来事そのものを表していると考えた方が面白い。
わたしが深淵を見るとき、深淵もまたわたしを見ている。しかしその深淵とは、わたしにイメージを見せている「こちら側の(ある一つの)プロジェクター」と同格である、「あちら側の(ある一つの)プロジェクター」でしかない。スクリーンの数だけ、そこで上映されている映画の数だけ、深淵(向こう側)は存在する。明滅する「光」は、表象不可能な唯一の外部ではなく、そこここにある複数のスクリーン=被膜を示すものであり、複数の被膜の向こう側にある複数のプロジェクター(ハーマン風に言えば無数にある実在的オブジェクト)を示すものだと考えられる。そして、被膜のあるところには、どこにも(その都度)反転の可能性があり得る。
「わたし」があの世に呑まれることで「ただ消えて」しまうのは、いくつもあるプロジェクター(光源=深淵)のうちの一つのなかで姿形を失うのであって、絶対の外部としての光のなかへ消えてしまうのではない。そうでなければ、並行世界のようにみえるラストは成り立たないはずだと思う。
(ラストで妹が見上げる太陽は、唯一の光源ではなく、複数ある光源=プロジェクターのうちの一つでしかない)
しかし、とはいえ、高橋洋には否定神学的ともいえる超越性への強い志向があり、それが作品の強さと深くかかわっていることもまた、否定できない事実だと思う。ぼくは最初の本のなかで、Jホラーには「幽霊好き」系と「宇宙人」好き系とがあり、高橋洋は後者の代表であるというようなことを書いた。幽霊好き系とは霊媒師的(現象的、解離的)であり、宇宙人好き系とはマッドサイエンティスト的(体系的、パラノイア的)であると言い換えることもできる。
例えば、『リング』の霊媒師である真田広之は数学者でもあり、彼の部屋にある黒板には複雑な数式が書かれている(原作では彼は数学者ではない)。ある時、弟子である中谷美紀が悪戯でその数式の一部を書き換えてしまう。そして真田広之は、それによって「呪いの連鎖(の法則)」から一時的に逃れることができた---としか思えない。しかし、間違いに気づいた真田が黒板の数式を正しく書き直すと、法則は正しく作用して、その直後に、真田は貞子の呪いにやられてしまう。つまり、世界の真理(法則)は数式として既に黒板に「書き込まれている」。あるいは、真理(正しい数式)を発見してしまった以上、誰もその法則から逃れられない(霊能者や厄払いに意味はない)、法は超越的に作用する、という感覚が強くある。
マッドサイエンティストにとっての呪いは、幽霊に憑かれることではなく、彼ら自身のもつ絶対的真理(体系、法、象徴界)の厳密性や一貫性の追究への強い意思そのものであり、そのためには「誰からも許されない」領域にでも平気で踏み込む。『恐怖』においては母が、典型的なマッドサイエンティストであろう。
この映画には母と娘の関係があるだけでなく、姉と妹の関係が強く作用している。とはいえ、姉と妹との関係が「幽霊好き」系だというわけではない。母がマッドサイエンティストだとすれば、姉は吸血鬼的存在であって、幽霊ではない。吸血鬼もまた、一神教的であると言えるだろう。姉もまた、母とはちがったやり方で、多神教的、幽霊的なものを否定している(母も姉も、同じ脳神経外科医でもある)。
「この世」と「あの世」の双対性は、脳の内側と脳の外側との双対性(とその反転)としてあるだけでなく、子宮の内側と子宮の外側という双対性(とその反転)としてもある。母にとって、脳の内側がこの世(内部)で、脳の外側があの世(外部)だが、姉にとっては、子宮の外側がこの世(内部)であり、子宮の内側があの世(外部)であるという風に、母と姉とでは内と外とが反転している。いずれにしろここでは、科学の裏返しとしての疑似科学(マッドサイエンティスト)と、キリスト教的神学の裏返しとしての吸血鬼という、二つの「一神教のネガティブ」たちが争っている。
(母は、脳の外=この世の外に出ることによって人類の「霊的進化」を考えているが、姉にとって、この世の外=子宮の内は、絶対的カオスでありただの混沌でしかなく、それに呑まれると形のあるこの世の者は「たんに消えて」しまうと考えている。向こう側には何もない。そしてこの映画においては、姉こそが正しかった。)
母と姉とは、反転的な関係にありながらも、どちらも、内部と絶対の外部、体系とその余剰、表象と表象不可能性、というような二項対立世界にいる。そして、母は脳の外部としてのあの世に触れ、姉は連れによって分娩されて子宮の外に流れ出したあの世に触れて、「ただ消えて」しまう。
ここまでならば、この映画を、表象不可能性を扱ったメタ・ホラー(メタ・恐怖)として捉えることは適当であるように感じられる。
しかしそれとは別に、この映画には遍在する光がある。光は、脳の外からだけ届くのでもないし、子宮の内からだけ届くのでもなく、いたるところにある。光があるところには、この世とその外とを隔てるスクリーン(被膜)があり、その都度別の向こう側(別の実在的オブジェクト)があり、別の反転の可能性がある。その向こう側(あの世)は、森の奥にもあるし、駐車場の隅にもある。妹もまた、母や父、姉と一緒に、「脳の向こう側」としての「光」を映しだすフィルムを見てしまったというトラウマを共有する。しかし妹はそれによって、トラウマを唯一の「外」とするのではなく、むしろ様々な場所に、その都度別の光(外)を見出すようになった。日常は、それらネガティブな光たちによって取り囲まれるようになるのだが、だからといってそれらのうちの一つが特別に忌避するもの(あるいは、惹かれるもの)であるということはない。
もし、母や姉がそう考えていたように、この世とあの世の関係が、内部と外部、体系とその余剰、表象と表象不能なものという二項関係であったとしたら、女の子宮から分娩された「あの世(空無)」によって「この世」の全体が呑み込まれて消えてしまうか、少なくとも、呑み込まれて消えてしまった母や母の仲間たちや姉のすぐ近くにいた妹は、消えてしまっていたはずだろう。しかしラストで妹は、並行世界のような場所で存在している。もしかすると、あの「この世」はすべて消えてしまったのかもしれないが、それとは別のこの「この世」はまだ存在しているということかもしれない。だとすれば、「この世」は一つではないのだろうし、「あの世」もまた一つではないのだと言える。
妹はしばしば「夢」をみる。夢のなかで姉と対話し、夢を見ることによって壁をすり抜けて別の場所へ行きさえする。もしかすると妹は、この「夢」によって、複数の「この世」の間を行き来しているのかもしれない。だから、妹にとって「光」は、唯一の「あの世」ではなく、複数の「あの世」として捉えられたのかもしれない。「夢」を通じて、消えてはいない、この「この世」にいる妹も、消えてしまったあの「この世」にいた妹とどこか通じていて、消えたあの「この世」の母や姉とも通じているのかもしれない。
●とはいえ、それとはまた別のこととして、ぼくがこの映画に惹かれたのは、まず、非常に魅力的な「物語としてのあの世(臨死体験)」の示し方だった。自殺サイトで知り合った者たちと集団自殺を行ったはずの姉は、ふと気づくと、(病院とも思えない)廃屋のような荒んだ施設の個室のベッドに一人で横たわっていた。しばらくすると看護婦が入ってきて、姉の血圧を測る。看護婦は言う、「あなたにはわたしがどう見えているの?」、と。姉は「血圧を測っています」と応える。すると看護婦は、「ああ、看護婦に見えているんだ、そういう人は多いよね」と言う。そして、「あなたはもう死んだのよ」、と言って、棺桶に横たわる姉の姿を見せる。姉は、「死体はもう見つかったんですか」と問い、看護婦は、「まだ車のなかよ、こんなきれいな形ではみつからないでしょうね」と言う。
実は、これらのやり取りは、脳をいじる実験の被験者を---自殺サイトを通じて---集めるための、マッドサイエンティストである母の仕組んだ茶番なのだけど、ここで描かれている、生から死へと至る中間としての臨死体験の物語は、それ自身として不思議なリアリティがあり、魅力的だ。
しかしこの映画は、このような、生と死の間にある臨死体験的中間地帯の表象を否定する方向へ展開していく(人は死んだら「ただ消える」)。例えば清水崇だったら、このような魅力的な中間地帯こそを積極的に展開していくだろうと思われる。ここに「宇宙人好き」系としての高橋洋の特徴が出ているように思われる。
●DVDに収録されている監督インタビューで、プロデューサーから話が来たのは2000年前後くらいで、最初は「霊的ボリシェヴィキ」という企画を出したのだけど、今回はこれじゃないみたいな話になって、結果この映画となったと語っていて、まさにその時の企画が、もうすぐ公開されようとしているのだなあ、と。