2019-01-18

●引用、メモ。グレアム・ハーマン「唯物論では解決にならない」(「現代思想」2019年1月号)より。ハーマンはすごくおもしろいことを言っている。
●実在としてのハンマーは、「壊れ」得ることにより自立している(他と非関係的である)。故にそれは「形式」である。
《(…)ハイデガーは、目に見えるハンマーが自立したものとして見られるのに対して、〔円滑に〕機能しているハンマーは全体的なシステムに属しているのだと論じたことになる。しかし、わたしがたびたび論じてきたように、この解釈は正しくない。ハンマーの自立性は、ハンマーがときどき孤立した事物として見られるという事実に由来するのではない。ハンマーの真の自立性は、ハンマーが壊れうるという事実に由来するのだ。さらに、ハンマーがこのように壊れうるのだとすれば、この事実はハンマーを、目に見える形態の王国からも、体系的な機能の全体論からもはみ出た余剰へと変貌させる。ハンマーは、わたしたちによって見られているかぎりにおいて、わたしたちとの関係において存在する。またハンマーは、釘や板、建築計画との関係に巻き込まれているかぎりにおいて、これら他の諸事物との関係において存在している。しかし、ハンマーが壊れるという事実が示すのは、ハンマーが深く非関係的であるということだ。ハンマーは、わたしたちや他の道具によってなされる我有化に抵抗するのだ。わたしたちによる知覚からも、あらゆる暗黙の作動からも隔たり、ただ深さのうちに横たわるこの実在的なハンマーとは、いったいなんだろうか。このハンマーは、他のあらゆる事物とと区別された構造や性質をもっている。したがって、それもまた形式=形態であるということになる。》
●隠喩とミメーシス。
オルテガの例にならって、「杉は炎のようだ」と言ったとしよう。無頓着であったり、あるいは、かつては何度も詩を読んだがいまはもう興味を失っているといったりしたことがなければ、この隠喩(ここでは直喩という特殊な形をとっているが)がもたらす効果はありふれたものではない。たしかに杉と炎は、形において類似している。だが、この類似性は偶然的なものにすぎない。杉と炎の出会いは、チャーチルルーズヴェルトの出会いに比べれば、はるかに思いもよらないものである。オルテガによる分析に従えば、明白な〈炎-性質〉が木そのものの特徴として杉のまわりに群がるということが生じているのだ。とはいえ、それは簡単にアクセスできる知覚上の杉ではない。というのも、この〔知覚上の〕木は、すでにそれ自身のありふれた性質を有しているからだ。むしろ隠喩における杉は、ハイデガーが言う意味での壊れたハンマーに類似している。わたしたちの注意はそれに釘づけになるが、それは退隠した謎のままでありつづける。》
《(…)性質はけっして対象なしに存在することはできない。したがって、〈炎-性質〉は、いかなる感覚的対象にも帰属できないのであれば、実在的対象に帰属しなければならない。ところが、すでに確認したとおり、実在的な杉は(他のあらゆるものと同様に)そもそも退隠しているのだ。ここから導かれるのは、実在的な杉は他のいかなるものにも触れることができず、したがって詩的な〈炎-性質〉にさえも触れることができないということだ。》
《わたしたちが杉と炎について語るとき、これらの語が指示する実在的対象はともに退隠している。それらは、因果的なアクセスをも含む、あらゆる可能な直接的アクセスの彼方に位置しているのだ。〔しかし〕この場合に居合わせる、ただひとつの実在的対象がある。退隠することなく、この状況にまるごと巻き込まれている対象---それは、詩の読者(あるいは一読者でもある作者)としてのわたしたちひとりひとりである。実在的杉は不在であり、それに感覚的な〈炎-性質〉を結びつけることは望みえない以上、わたしたちはつぎの奇妙な帰結を認めなければならない。つまり、わたしたちひとりひとりが、〈炎-性質〉に結びつくことになる実在的対象なのだ。べつの仕方で言えば、読者としてのわたしたちひとりひとりが杉の木になるのである(わたしたちがうんざりしたり、冷めたり、気が散ったりしていないかぎりで)。》
《驚くべきことに、以上のことが意味するのは、長らく見放されてきたミーメーシスの概念を擁護しなければならないということである。だがそれは、芸術とは自然物をまねた模倣物を生み出すことだという意味ではない。芸術は、俳優が石や木、ジム・モリスンニクソンを模倣するような意味において模倣するのだ。木という役割が、木からわたしたちへと転移する。そしてわたしたちは、かつての木とは異なる、〈炎-性質〉をまとった木となるのである。》
●美(芸術)に参与するその人自身が、美のメディウムを提供する。つまりメディウムそのものとなる。
《おそらくどんな美的内容の形式も、その内容を鑑賞する者の没頭(inolvement)のうちに見いだされなければならないのだ。このことのひとつの含意は、すでにしばらくまえから広まってきている。すなわち、皮肉、自己反映、敬遠、引用符のなかにあらゆるものを入れること---これらの終焉である。どこでもないところからあざ笑い、こき下ろすような批評のあり方は、料理評論家やワイン評論家たちのような批評によって置き換えられるべきなのだ。彼らは自らがあつかう対象にどっぷりと浸りきっている。》
《(…)「あらゆる良質な芸術は真摯なものである」ということが事実なのだとしたら、どうだろうか。良質な芸術は、わたしたちを舞台のなかに位置づけ、実在的対象の代役をつとめさせ、〈炎-性質〉を従えた杉の役を演じさせる。まさにそうすることで、わたしたちの〔真摯な〕没入を呼び覚ますのかもしれない。そうだとすれば、あらゆる芸術は舞台芸術の一分野となるだろう。形式が内容を打ち負かすのは、内容が背景的メディウムを指示しなければならないからではない。むしろ、美に参与する人自身が、居合わすことのできない杉や石の代役をつとめることによって、メディウムを提供するのである。》