2024/04/03

⚫︎英語で書かれたテキストをGeminiに助けられながら読んでいると、あるブロックだけ、何度やっても翻訳が拒否される。AIでエラーが出ることは珍しくないが、たいてい、何度がやり直せばちゃんと「答えて」くれる。しかし「I can't assist you with that, as I'm only a language model and don't have the capacity to understand and respond.」というメッセージが出るばかりだ。

仕方がないので、そのブロックだけDeepLで翻訳してもらった。そして、ああ、もしかすると、と思った。そのブロックでは精神分析について触れていて、その関係で、性的にかなり露骨な、というか、意図的に下品で露悪的な表現が使われている文がいくつかあった。もしかすると、こういう表現は翻訳するのを拒否するように調整されているのかもしれない。

誰でもが自由に使えるAIに、危険を避けるような抑制がかけられるのは当然だし、仕方ないことだが、ここまで潔癖である必要があるのかな、と思った。DeepLは「翻訳」のみに特化されているものなので、危険なことに使われる危険度が低く、その分抑圧も緩いのかもしれない。

(でも、DeepLには勝手に意訳したり省略したりする癖があるんだよなあ、と思う。)

⚫︎あるAIに翻訳をしてもらって、別のAIに「その翻訳の評価」をしてもらう、という手があることに気づいた。

2024/04/02

⚫︎(昨日からのつづき)「二つのレアリスムの間に」(「批評空間」二期7号)でフリードは、左右の反転にとてもこだわっている。クールベの『石割り人夫』において、描いている右手に該当するハンマーの男は画面向かって右側に、パレットを持つ左手に該当する若い男は向かって左側に配置されている。これは、キャンバスと向かい合って右手で絵を描いているはずのクールベの身体と直接的に繋がっている。筆を持つ右腕が向かって右側に、パレットを持つ左腕が向かって左側にあって、それがそのまま画面に溶け込んで埋め込まれている。

それに対しラトゥールの自画像は、鏡に映った自分の像を描いているため、描かれた画家は、右手で画帳を持って左手で描いている。これでも実は、描いている画家の右手の延長上に、画面内の画家の左腕があることになるので、連続していると言えないこともないが、しかし決定的に違うのは、画面内の画家が「こちら」を向いていることだ。

クールベの『石割り人夫』に描かれる人物は二人ともこちらを向いていない(特に若い男はほぼ後ろ姿だ)し、『小麦をふるう女』も、中心にいる人物は向こうを向いている。つまり、絵を描いている画家と同じ方向を向いている。クールベが、描かれたものとと同じ方向を向いていることで画面内に自然に没入しているのに対し、ラトゥールは自身の像と対面している。ここに「鏡」を使うことによって生じる矛盾が現れる。自分自身の像と対面するのならば、その自分もまた右手で描いていなければならないはずだ。というか、因果としては逆で、画面には描かれていない「鏡」の存在(媒介)を知ることができるのは、描かれた画家が左手で描いているように見えるからだ。

ここでフリードは、ラトゥールがレアリスムのダブルバインドに陥っていると書いている。つまり、自分以外のすべての人が見ている世界の現実に忠実であろうとするならば、画家は右手で描いていなくてはならないが、「目に見えている現実」に忠実であろうとするならば(画家の目は「鏡像反転した自分」しか見ることができないから)、画家=わたしは左手で描いていなければならない、と。

そしてラトゥールは「自分の目に見えている現実」の方を尊重して、「左手で描く画家(わたし)」の像を描く。ただこれは、「自分以外のすべての人に見えている現実」としては嘘になってしまう。ここでフリードは、この絵から見て取れる「ハッチングの方向」に注目する(ハッチングという言葉がわからない人は「タッチの方向」だと思ってください)。通常、右手で描く画家は「右上から左下に向かうハッチング」を使い、左手で描く画家は「左上から右下に向かうハッチング」を主に使う(人体の構造上、そうするのが最も自然である)。ラトゥールはこの自画像を、主に、というか、ほぼ「右上から左下に向かう」ハッチングを用いて描いている。つまり、このハッチングの方向によって、画家(わたし)が「これ」を右手で描いているということを強く表現しているのだ、と。

ラトゥールは、「自分の目に見えている現実」を尊重して「左手で描く画家」を描くという意味では「視覚のレアリスム」に属するが、ハッチングの方向によって「右手で描いている」ことを絵に直接的に刻み込んでいるという意味では「身体のレアリスム」に属するのだとフリードは書いている。ラトゥールは、歴史的に、クールベ的な身体のレアリスムと、印象派的な視覚のレアリスムの間に位置するのだ、と。

《こうしたこと全てはマネについては全く当てはまらない》と、フリードは最後にマネの自画像に触れる。

《マネの自画像では、見ることと描くことのある種の速度に対して初めて関心が払われ、それが目と身体、あるいはむしろ目と手を、まさしく同じ状態に、少なくとも均等な圧力の下に、位置付ける(「身体」というよりもむしろ「手」といったのは、『パレットを持つ自画像』では、身体化のために片手や両手の仕事を動員するよりもむしろ手の器用さを全面に押し出しているからである。…)。》

《『パレットを持つ自画像』に込められた虚構とは、マネが、鏡の中に左右逆転した自分のイメージを見るや否やその手と絵筆の見事な名人芸でその姿を描いた、というものである。(…)非常に省略されて描かれたマネの絵筆を持った左手(実際には彼の右手)は、同時にあらゆる場所に存在する、すばやい休みない動きの中にあることを暗示することによってこうした虚構を確証しているのである。》

《(…)絵画と見るものの間の、互いの対面の逃れることの出来ない、半ば超越論的な関係、最初の出会いのしるしとしての瞬間性(及び際立った印象)に対するマネの深い執着は、この初期から彼の芸術の決定的な特徴をしていた。》

 

2024/04/01

⚫︎マイケル・フリードを初めて読んだのは1995年に出た「モダニズムのハードコア」に収録された「芸術と客体性」だったが、強く印象に残ったのは、同じ年の「批評空間」二期7号に掲載された「二つのレアリスムの間に」というテキストだった。「芸術と客体性」と全然違うし、こんな風に「絵画に触れる」人は他では見たことがない、という感じで深く印象が刻まれた。

こんな風に絵画に触れる人は他に見たことがないという印象は、改めて、今読み直しても変わらず、さらに、その絵画への特異な触れ方を「美術史家」として歴史に返すというか、歴史の上に配置しようとしている仕方もまた、とても特異なものだと感じる。

「二つのレアリスムの間に」は、ラトゥールという画家が、クールベ的な「身体のレアリスム」と印象派的な「視覚のレアリスム」との間の移行期に位置づけられるということを、代表作とはとてもいえないような、小さな自画像のデッサンを検討することで示そうとするテキストだが、そこでまず驚かされるのが、「身体のレアリズム」であるとされるクールベの絵の捉え方だ。

まず、グルーズ、ダヴィッド、ジェリコードーミエ、ミレーに至る、フランス絵画の「反演劇的な流れ」があるとする。彼らは、描かれた人物が観者に対して「芝居がかった」感じをできる限り感じさせないように努めるような絵を描いた。ただし、そのような傾向を追求し続ける過程で、次第に、その、あまりに「芝居がかってなさ」こそが却って「芝居がかって」感じられるようになってしまうという反転が起きた。そうした文脈の中でクールベという画家が出てくるのだ、と。

《この戦略とは、内面に籠って集中することや絵の前に立っている観者を遮断し締め出してしまうのではなく、何か全く別のやり方、つまり今や絵の最初の観者と見なされる画家(あるいは画家=観者)の、制作行為に於ける絵画そのものとの半ば身体的な結合である。少なくともその観者との関係によって、絵画は一方的に見られることから完全に解放されることになる。もはやだれも作品の前に立って見ているものはいない。なぜならそこにいたはずの観者は今や作品の中に取り込まれ或いはまき散らされているからである。》

《例えば私には、『石割り人夫』(一八四九年)で、ちょうど年長の男がハンマーを振り上げている姿が画家=観者がその絵を描くために使っている絵筆をふるっている右手とつながっているかに見えるように、石のはいった籠をもったほとんど後ろから描かれている若い男もまた、単に画家のパレットを持った左手を擬人化しているかもしくは擬人化するために描かれた人物であるだけでなく、その姿がほとんど画家=観者の手と、それが制作に一役買おうとする努力に、つながっているように見える(スティーヴン・メルヴィルの言葉を借りれば、少年と男は絵の中で画家=観者の左手と右手の行為を延長しているかのように見えるかもしれない)。この関係に於いて、『石割り人夫』の中の左と右が如何にその「外部」の左と右に、つまりこの絵を制作中の画家=観者の左右の位置に合致するかということに注目すべきである。》

《同様に、クールベの見事な作品である『小麦をふるう女』(一八五四年)では、小麦を床に敷いた麻布(キャンバス)の上にふるっている後ろから描かれた中央の跪いている人物が、自分の前に張ったカンヴァスの上に絵の具をおいて行く画家=観者の行為と位置とを体現していると見ることができよう(言い換えれば描かれた女性だけではなく、ふるわれた小麦や床に敷かれた麻布も絵画の隠喩、あるいはむしろ換喩の役割を果たしている)。画面左手に座って夢見心地で小麦と籾殻を手で選り分けている女性は、画家=観者のバレットを持つ左手の変形したものだと読むことが出来るだろう。一方小麦をふるう初期の機械である唐箕の黒い内部を身を乗り出してのぞき込んでいる少年は、画家=観者が絵の中に(物理的に不可能であるが)組み込まれまき散らされたために、絵を見ることが否定されたことを示唆している。》

初めてこれを読んだ時は驚いて「まじか…」と思った。絵を観るというより、絵を媒介として、(すでに「ここ」にはない)画家の身体へと逆流して「描いている身体」へ侵入し、「絵を観るわたし」がその位置を占めようとするかのような感覚。絵を観ている「わたし」の視線が、絵によって反射され、それが「ここ」に戻って来たときはもはや「ここ」は「今」でも「わたし」なく、かつて「そこで描いていた画家の行為」へと時間が逆流するかのような。あるいは、絵の中にバラバラに切り刻まれて散っている、画家の身体と描く行為とを、観ることを通じて再構成するかのような。「絵の手前」で行われた行為が、絵の中にバラバラになって溶け込んでいて、それを観ることで、その行為する身体がもう一度「絵の手前」で(「わたしの身体」を憑代として)再現される感じ。その時「わたしの身体」の少なくとも一部は絵の中に溶け込んでいるから、わたしと絵とは連続しており、その絵を「的確に見るための距離」を取ることができない。

フリードが、『小麦をふるう女』に描かれた「唐箕をのぞき込む少年」について、《画家=観者が絵の中に(…)組み込まれてまき散らされたために、絵を見ることが否定された》と書いていることは重要だ。《(…)クールベ以前の反演劇的な伝統における画家たちが画面の前の観者の存在に対して実際に盲目の絵画を描こうとしたのに対して(…)、クールベのレアリスムの作品が画家=観者の盲目を喚起する点を指摘することだろう。あるいはそれが言い過ぎなら、クールベの作品は目の前の作品との肉体的な結合が引き起こしたであろう視覚の喪失[蝕]を喚起する。》

(《画面の前の観者の存在に対して実際に盲目》というのは、いわゆる「没入」のことで、描かれた人物が、観者あるいは「自分を観ているかもしれない誰か」のことをまったく意識していないかのように振る舞っているように見えるように描かれているということ。しかし、そのような「振る舞い」こそが却って「芝居がかって」見えるようになってしまったという閉塞から脱するように生まれたのが、クールベの「身体のレアリスム」だ、と。)

クールベをこんな風に見ることが出来るのか、というか、絵画に対して「こういう触れ方」があるのか、という驚きがあったし、その驚きは今もなお持続している。

2024/03/31

⚫︎エリー・デューリング『Faux raccords: La coexistence des images』のイントロダクションを読む。ハーマンの英語と違って、デューリングのフランス語は晦渋なので、ChatDPT、Gemini、Claude 3と、三つのAIにそれぞれ翻訳してもらって、訳文を比較しつつ、よくわからないところはAIに質問する(「訳文で「⚪︎⚪︎」となっているのは、原文ではどこを指し、それはどのような文脈で使われていますか?」とか)、という形で読み進める。三つのAIにはそれぞれ一長一短があるし(明らかにキャラの違いがある)、それぞれコンディションが良い時と悪い時がある(おそらく、大勢の人が同時に使っている時はパフォーマンスが落ちる)。

まずここでデューリングは、この本が主に扱っているのは「共存」の問題であり、共存を捉えるには「時間」と「空間」という二つの側面から見る必要があるとする。《時間による共存は、誤認における現在の二重化によって示される二重性の問題です。空間による共存は、同時性または遠隔接続の問題です》(Claude 3)。

二重性(時間)と同時性(空間)。《一方で、過ぎ去らない現在、自己に逆流し、分裂し、一種の幻影を投影する、瞬間の記憶、「純粋に仮想的な現在の記憶」、そして同時に、現在に付随する、同時代の過去》(ChatDPT)。《他方で、物質的な広がり全体に分布する異質な持続の多様性。変化と生成自体と同じくらい数多く、包み込まれ、からみ合った持続性。そしてそれらがどのように交流するのかという問題》(Claude 3)。《れらの異なるリズムの無数の時に対して、どうやってそれらがすべて連携しているのか、という問題がある》(ChatDPT)。《なぜならばそれらは共存しなければならず、全体が概念に答えなければならないからである。たとえそれがあらかじめ総体化できない開かれた、生成中の全体であったとしても》(Claude 3)。

この部分に、イントロダクション全体の問題が詰まっている。一方に、それぞれに異質でバラバラな個別の流れ、リズムがあり、そしてもう一方に、それらをどのように重ね合わせたり、交流させたりして共存させるのかという「全体」という問題がある。このことは、一方でローカルなデータがあり、他方で、それらを関係づける地図やダイアグラムのようなグローバルな表象が必要であるとも言い換えられる。

とはいえ当然だが、「異質なものたち」を束ねる「グローバルな表象」が簡単に得られることはない。《時間の流れは、アインシュタインの時計のように不協和になる可能性があります。しかし、それらが一緒に流れることは必要不可欠です。そうでなければ、どのように何かを語ることができるでしょうか?》(Gemini)。《物語は一般に「昔々あるところに」で始まるが、他の声、場所、行動の筋道が導入されるとすぐに、「そのころ同時に」と続けなければならない。(…)映画はクロスカットを最も効果的な物語の要素の1つとした。そこでは、空間的な隔たりがあるにもかかわらず、時間の系列が時折交差するのが見られる》(Claude 3)。そのような意味で、(常識とは異なるが)映画は同時性(空間)の芸術と言えるかもしれない、と。さらに、アラン・パディウが、映画の思考の本質は運動よりもトポロジーであるとする主張を引用する。《ショットやシーケンスは、結局のところ時間の尺度においてではなく、近接性、呼応、持続、あるいは断絶という原理において構成される》(パディウ『美学小辞典』からの引用、Claude 3)。映画で重要なのは、一秒間に24コマという虚偽の運動ではなくモンタージュなのだ、と。デューリングはさらにこれに加えて次のように書く。《モンタージュ自体は、ある画面とつぎの画面、ある場所とつぎの場所を一連の編集による切断を介して接続することで、画像から何かを引き去るだけのことなのである。実際、真の幻惑の仲介者となっているのは、局所的な運動と我々がそれに自然に結びつける時間の流れという概念なのである》(Claude 3)。ここで「局所的な運動」が結び付けられるという「自然な時間の流れ」は、《画像の流れを方向付ける全体的な運動、「全体的時間」》と名付けられる。

ここで先ほど書いた「ローカル/グローバル」という話になる。《映画は本質的にトポロジカルであり、二次的に時間的であると断言することは、あまりの習慣に暴力を振るうことになるでしょう。しかし、映画的および芸術的な観点から画像の共存の問題を検討することを目的とする場合、この主張を真剣に受け止めないのは難しいです。実際、共存の問題は、時間と空間のローカルなデータと、例えば地図や図表のような、複数の視点の共存を同一の表現空間で再現しようとする表現の間の接続の問題として基本的に提示されます。また、接続、ローカル/グローバルは、典型的にはトポロジカルなカテゴリーです。

次いで、やや秘教的な発見だがと断りつつ、「接続」の問題を考えるということは「切断」について考えること、切断についてより適切に考えることだ、と言う。《映画や芸術における共存の形式を実験することは、新しい切断の方法を探し求めること、言い換えれば、接続の概念を相対的な切断の可能性に結びつけることを意味する。(…)何も完全には分離されていない。ただし、分離の度合いがあり、これが共存の関係を複雑にする。要するに、同時性を相対的に利用する必要がある》(ChatDPT)。例えば双子のパラドクスで、地球にいるAと宇宙船で旅行するBとが、どの程度切断されているのかを考えることが、双方の(相対的な)同時性のあり方を考えることになる、というようなことではないか。《バザンに始まり、スプリット・イメージ、スプリット・スクリーン、デタッチメント、エリプス、そしてオフ・スクリーン、ブラインド・スポット、ブラインド・スポットのあらゆる種類を含むあらゆる種類の偽の接続まで、禁断の編集術における断絶の例には事欠かない。これらの概念は、不可逆的に空間的であり時間的である》(Claude 3)。

とはいえ、ただ「切断」されているイメージを提示するだけの作品、あるいは、異質なものの隣接性を提示して、現在/過去、現実/仮想の分類・分割を無効化するだけ作品には大して意味がない、と。《私たちは同時に複数の時間空間に存在していることは、毎瞬、過去の隅々に埋もれた記憶を動員していることからでも明らかです。現在に厚みがないという事実に驚くのも同様です。(…)この普遍的な経験の心理的な相当物を、美術館の壁に投影すること自体には、特に興奮するようなことはありません》(Gemini)。《芸術や理論において、重要なのは特筆すべき点と普通の点を区別することです》(ChatDPT)。

ヒッチコックの『めまい』が、そのようなものではない「特筆すべき作品」として挙げられるが、『めまい』のための一章が本文にあるので詳しくは触れられない。イントロダクションでは、ヴァリー・エクスポートによる「Adjungierte Dislokationen」(1973年)というビデオ・パフォーマンスと、ダン・グレアムの「Two Correlated Rotations」(1970-72年)という作品が、特筆すべきものとして取り上げられる。

「Adjungierte Dislokationen」は、ギャラリーの壁に投影される三つの映像からなる。16ミリで撮影された一つの大きな映像と、8ミリで撮影された二つの(縦に並べて投射される)小さな映像だ。大きな映像には作家がパフォーマンスする姿が映される。作家は、肩の高さで、正面に向けたカメラと背面に向けたカメラを同時に構えている。この、180度で真逆を向いた二台のカメラによって捉えられた像が、二つの小さな映像であることが確認できる。作家は、カメラを構えたまま街を歩き、どこかの斜面を登ったり、高い台から飛び降りたりする。しかし観続けていると、この三つの映像は必ずしも同期していないことが分かってくる。非同期の度合いは時間の進行と共に強調されるようだが、しかし時折、再び、三たび、同期したように思われる瞬間はもある。

Valie Export, Clips from Adjungierte Dislokationen 1973 - YouTube

Dis-lokationは、全体的な経路、バディウの言葉を借りれば「一般的な時間に関連付けられた経路の形」といったものの再構築が、常に阻害されていることを意味します。その結果、空間の形状自体や、最終的には連続した動きの意味が、ますます抽象的な連続的なプランのラプソディックな連続に置き換わり、それでも断続的な同期や、遠く離れた再接続のポイントが散発的に存在します(ChatDPT)。

つまり、ローカルなデータと、グローバルな表象の関係が安定的に得られることがない。だが、完全なな無秩序ではなく《断続的な同期や、遠く離れた再接続のポイント》は存在する。

観客は疲れ果て、この作品が提供する2つの可能性のいずれかを受け入れることになります。1つは、メイン画像に集中してパフォーマンスのドキュメントとして見ること。もう一つは、抽象的なイメージの流れに身を任せ、分裂を受け入れて、このモンタージュを「実験映画」のような美的な楽しみの機会として捉えること(Gemini)。しかし、最も興味深い立場は、もちろん完全に持続不可能な立場であり、装置が禁止している立場ですが、私たちを常に誘っているモンタージュの場所です。画像の中心に立っている私たちは、これらの三つの同様に不快な立場の間を移動するしかありません。私たちは少なくとも映画体験の時間としての「グローバルタイム」の相当物を得ることができるでしょうか?(ChatDPT)。

ここで言われているのはつまり、決して一致することのないローカルなデータとグローバルな表象との間で「虚の透明性(≒映画体験の時間としての「グローバルタイム」)」が成り立つかどうかだ、と言い換えることもできるのではないか。

次に、ダン・グレアムの「Two Correlated Rotations」。二人の男が互いに相手を撮影しあいながら、渦を巻くような動線に従って移動を続けている。そうして撮影された、二つの映像が投射されているという作品だ。

2つの視点はグラハムによると「ほぼ同期しているが、"機械的な不規則性"がある”2台のプロジェクターを使って、角度をつけた二重投影によって再現されます。ブレやフレーミングのずれにより、周囲の空間の断片が数秒見えたりします。また、撮影者が複雑な軌跡に沿って「盲目で」移動しながら、できるだけ視線を維持することの難しさも示されています。一方で被写体は、同じくらい複雑な軌跡を逆方向に移動しています。避けられないこれらのつまずきとずれがあるにもかかわらず、相互性の原理は完全で、インスタレーションは自己に完全に閉じられているため、観客を外に押し出すようです》(Claude 3)。エクスポートの作品とは対照的に、互いに互いを映し合う自己完結した二つの映像の間で、観客は自らの位置を得ることの困難に直面する。《確かに、2つの相互的な映像の真ん中に、自分の視点という第3の視点を据えようと試みることはできます。しかし、すぐに根本的な困難に行き当たります。それは、パフォーマンスが行われている空間が、観客には自明ではなく、全体像を再構成することができないということです。結局のところ、欠けているのは、この2つの視線が互いに注視し合い、相互に焦点を合わせているような「視点」の構成または共存の空間なのです》(Claude 3)。ここでもまた、ローカルなデータが配置される(共存される)べき、グローバルな「全体」が前提とされない。開かれたままで、絶えずずれ続ける不規則なネットワークを構成するローカルなデータの束を、決して完成・完結することのない「全体」へと結びつけるのは、フィードバックループを作る二つの視点の真ん中に第三の場所を作ろうとする観客ということになるのだろう。《本論にとって本質的なのは、ダン・グラハムがこのようにして、視点の局所的接続の体制の典型を生み出したということです。つまり、構成の場所のない接続で、調整は必然的に段階を追って、連続的な対応によって行われますが、おそらくは効果的であるためには、第三の項が介在し、2人のパフォーマー間の経験した関係を、関係の経験へと変換する必要があるのかもしれません。同時にこの経験は、第一の関係の延長線上に、第二の関係を構築するのです》(Claude 3)。

どちらの作品も、単に断絶や切断、不連続を示すのではなく、その切断が全体(共存)を要請し、誘うような形で示されている。しかし、通常の、または常識的な「時空」概念では、その全体(共存)は決して完結しない。そこで「共存」を思考するためには、常識的な時空概念(時空感覚)を超えた、新たな時空(新たなトポロジー)のあり方が要請される。

2024/03/30

⚫︎必要があって、無料で使える音声合成アプリをいくつか試してみた。そのついでに、ぼくが書いた「ライオンは寝ている」という小説の最初の方を、VOICEVOXといアプリの、No.7というキャラクターの「読み聞かせ」モードでちょっとだけ朗読してもらった。

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2024/03/29

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、最終話。過去回を適度に振り返りつつ、お祭り的な雰囲気で、ふわっと、みんな幸福な感じでよかったねというところに着地する。三ヶ月間、ドラマを見続けて登場人物に愛着を持っている観客にとっては、後に引きずらない感じで、いい気持ちで登場人物たちとお別れできるのだから、テレビドラマの最終話としてはこれが正解なのかもしれないが、面白いか面白くないかと問われれば、面白いとまではいえない。ただ、途中が面白かったから、最終回は、まあ、こんな感じなのかな、と。

(「寛容」とか「多様性」とか、そういう言葉はあまり安易に「着地点」に使わない方がいいのになあ、とは思った。着地点がしばしば安易であることと、問題を類型化・矮小化し過ぎている、あるいはしばしば問題をミスリードしている、ということは、このドラマの明らかな弱点で、どうしても引っかかってしまうところではある。デリケートな素材を「手ぐせパターン」「コメディとしての型」で処理してしまうようなところがしばしばあった―-だが、そうでないところも確かにあったのだけど-―のは残念だった。)

(野木亜希子や坂元裕二だったら、こんな感じの「テンプレ最終回」にはしないでもっと―-脇を固めつつ-―攻めてくると思うけとど、良くも悪くも安定の最終回という感じ。「最終回で伏線回収してどんでん返し」みたいなドラマにはしねえぞ、という自己言及通りだった。)

⚫︎佐高くんの資金援助のおかげで、2024年と1986年の間にバスの定期便が通って、過去と未来が入り混じってカオスになる、みたいな展開がぼくは好みだが、まあ、そうはならないことは納得する。しかし、タイムトンネルが開けてしまったとしたら、実際には、定期便が通るなんてことよりもはるかにメチャクチャなことになってしまうわけだが(とりあえず、Creepy Nutsの二人は未来に帰れるだろう)。実質的には「時間は存在しない」みたいな世界になる。

(未来の、ある特定の時点で「タイムトンネルが開かれた」ということは、その瞬間に「過去から未来に渡ってすべての時間においてタイムトンネルが常に存在する/既に存在していた世界」へと、世界・歴史のすべてが改変されてしまったことになる。)

「確定されてしまっている娘と自分の死」に対してどう向き合うのか、という問題は保留されたまま終わった。とはいえ、タイムトンネルが開け、いつでも好きな時代に行けるというのならば、「確定された死の時刻」へ至る前の時間を、無限に引き伸ばし、無限の遠回りができることにはなる。生きているどの時期にも、死後にも、そして生まれる前にも、どこにでも行けるのだとすれば、生きていることと死んでいることの違いが、もうほとんどどうでもよくなってしまう。

⚫︎最後まで見て思うのは、この作品の芯にあるのは「死を否認する」という感情なのではないかということだった。その意味で、いまおかしんじとかにも近いのかもしれない。阿部サダヲが死後の世界で孫たちの世代のために奮闘し、仲里依紗が(幼いうちに亡くなったためにほとんど記憶にもない)死んだ母親と出会って友情関係を結ぶ。ここにこそ重点があるように思う。死が否認された世界に説得力を持たせるために、36年を隔てた二つの時代(世界)に通路が開け、徐々に撹拌される。吉田羊は、少年時代の別れた夫に出会い「うう、井上ぇぇ…」と思い、少女時代の自分に出会って「ああ既に自分がいる」と感じる。坂元愛登は、父親と偶然、友人として出会い、あまりに若すぎる両親に対して「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の反復を強いられる。古田新太は、阿部サダヲにとって「自分より歳をとっている娘の夫」であると同時に、(同様に妻を若くして亡くしていることから)、95年に死んでしまうことが確定している自分には決して至ることのできない「不可能な未来の(年老いた)自分」の像でもある。阿部サダヲは、古田新太仲里依紗の父娘の中に、(震災で死ななかった)自分と娘の反実仮想的未来を見ることができる。

(阿部サダヲは、若くして死んでしまうことが決まっている河合優実に、せめてものこととして死後の未来の世界を体験させる。)

阿部サダヲ河合優実は、生きているのと同時に死んでおり、磯村勇斗彦摩呂錦戸亮古田新太、中田理智→三宅弘城袴田吉彦沼田爆は、不可逆的な変化ではなく両方同時に存在する。そして、阿部サダヲ→( )、河合優実→( )と、後者が「空」であることにより、二人が「半分の死者」であることが示される。タイムパラドックスなどまったく問題にならずに過去と未来とが(生と死とが)ひたすら撹拌され、死者と生者が出会って関係を持つ。あまりに融通無碍で、あまりに「寛容」である世界にまで至って物語が着地する。それなりにシビアな現実から「物理的にあり得ない寛容さ」を持った世界への飛躍。この作品においては、前者(現実)よりも後者の方がリアルだ。

(小泉今日子のみが、二つの世界を貫いて小泉今日子であり続け、時間の不可逆性を示し、時間が攪乱された世界における最低限の「現実的な錘」となっている。)

⚫︎ただ、納得できない疑問としては、なぜ、わざわざ阪神淡路大震災を出してきたのかがよくわからないままで終わってしまったな、ということはある。1986年と2024年とがほとんど非現実的に、(生/死も超えて)夢のように混じり合う世界で、その間に、それに対する抵抗のように「シビアな現実(現実としての「死」)」としての1995年が置かれているわけだが、それがただ「置かれただけ」で放置されてしまった感じ。「置かれている」だけでも、意味はあるのだが。

(このドラマにおいて、さまざまな問題はしばしば、それ自体が主題なのではなく、あくまで時代背景、あるいは「時代」を表現する要素にとどまっており、その点について「怒り」を感じる人がいることは納得できる。そのようなドラマにおいても、1995年は、「時代背景」にはならないシリアスな現実として置かれている。)