2024/03/28

⚫︎グレアム・ハーマンの『Art and Objects』を、部分的に読み返している。とはいえ、語学弱者なので大規模言語モデルによるAIの助けを借りて(つまり、逐次、翻訳してもらって)読むのだが。それで思うのは、ほぼ一年前に読んでいた時に比べて、翻訳の精度が著しく向上していることだ。一年前のChatDPTの翻訳は、こちらでかなり斟酌して、ようやく意味がとれるくらいだったが(逆にいえば、斟酌しさえすればちゃんと意味がとれる訳文を作ってくれることがおどろきだったが)、今、主にGeminiとClaude 3の、しかも無料で使えるバージョンを使って読んでいるが、用語の訳語に統一性がなくバラつきが出てしまうことと、固有名のカタカナ表記のバラつきが大きすぎて、しばしば誰のことかわからなくなることを除けば、普通に読めて(つまり、大して斟酌することもなくスルッと読めて)、「ここは理屈が変になっている」とか「ちょっと何言ってるのかわからない」とか「意味が逆になってしまってるのではないか」と感じるところがすごく少なくなった。ある程度の基礎知識がないと誤読する危険は大きいとはいえ、アートや哲学、人文系のテキストはAIの翻訳で十分読めるようになったのではないかと思う。

まったく新しい何かがドーンと出たということではないが、この進歩は地味にすごい。一年前のChatDPTは、知らないことを聞かれると、あたかも知っているかのような嘘をついていたが、最近のAIは間違え方も人間っぽくなっているように思う。ちょっと前にVECTIONの会議で(『天然知能』の話題から)、Claude 3に金子みすゞの有名な「雀のかあさん」という詩を入力してみたことがあって、すると「これはサトウハチローの有名な詩で…」と出力してきた。金子みすゞサトウハチローを混同するという間違いは、人間でも(人間でこそ)ありがちだと思った。知らないことを知ったふりをして大嘘をつくのと、ぼんやり知識で細かい間違いをするのとでは、かなりちがうのではないか。

思うのだが、大規模言語モデル以降のAIは、いつの間にか、しれっと、というか、ぬるっと、という感じでフレーム問題をほぼ解決してしまっているように見える。AIにおける最大の難問だといわれた「フレーム問題」が、いつの間にかなし崩し的に、なんとなく「解決されったっぽい」みたいになっていることが、怖いというか、気持ち悪いというか、面白いというか。

2024/03/26

⚫︎ハーマンの存在論では、「リテラルなもの」はオブジェクトではなく「状況」あるいは「性質」である。リテラルなハンマーは、世界の道具的連関の一部であってオブジェクトではなく、ハンマーが壊れたときのみ、オブジェクトとしてのハンマーが現れる。また、オブジェクトは「比喩(隠喩)」によってのみ、その存在の組み尽くせなさが表現される。「海」の特徴を無限に列挙しても、それは「状況としての海」であり、あるいは「海」というオブジェクトを「質(感覚的性質)の束」に還元したものにすぎない。ただ、「濃いぶどう酒のような海」というような比喩によって、自律したオブジェクトとしての「海」の一端(自律性)が掴まれる。

(比喩は、通常の「感覚的性質の束」から逸脱した別の質(性質)への接続であり、そのような意味で、通常の道具的連関から逸脱した「壊れたハンマー」に似ている。)

「海」というオブジェクトそれ自身(実在的対象)は、外部へのあらゆるアクセスを逃れて引きこもっている。ただし、その周囲には無数の感覚的性質が漂っていて、その感覚的性質と、別の実在的対象(たとえば「わたし」)との間に真摯な出会いがあると「わたし-海(実在的対象-感覚的性質)」という新しいオブジェクトが生まれる。実在的な「わたし」と感覚的な「海」は、その両者を包摂する「志向性」の中で出会う。故に「心」は「わたし」の内部にあるのではない。

(例えば、綿が燃えるというような物理現象においても、「実在的な火」と「感覚的な綿」が出会うことで、実在的な「燃える綿」が生じる、という風に説明される。火の志向性の中で、実在的な火と感覚的な綿が出会う、あるいは、綿の志向性の中で、実在的な綿と感覚的な火が出会う、のだ。)

この時、実在的対象である「わたし」は、実在的対象である「わたし(実在的対象)-海(感覚的性質)」のなかの「実在部分」として自分を見出す。ここで、「わたし」も「わたし-海」も、どちらも自律した実在的なオブジェクトである。このことをハーマンは、水(H2O)も、その一部である水素(H2)も、どちらも自律したオブジェクトであることと同じだと説明する。

「濃いぶどう酒のような海」という比喩があるとする。しかし「濃いぶどう酒(のような色)」という性質は、実在的な海-感覚的な海という繋がりからは通常得られない。つまり比喩によって示される「実在的な海-感覚的なぶどう酒」という(実在的対象と感覚的性質との)接続は成り立たない(オブジェクトを生まない)。そして、対象を持たない「性質」はあり得ない。つまり、ただ「濃いぶどう酒(のような色)」という性質のみが対象なしに虚空を漂うことはない。ならばこの比喩(によってもたらされる性質)は、どのような対象において現れるのか。

それは、この比喩を発話した(書いた)、あるいは聞いた(読んだ)、「わたし」という実在的対象において現れる。つまり「真摯に受け取られた比喩」においては「わたし」が「(濃いぶどう酒のような)海」になる。比喩は言語のレベルだけでは完結せず、「言語-わたし」の連結(真摯な出会い)によって初めて生まれる。比喩がもたらす「新しい海の性質を持つオブジェクト」は「わたし」によって演じられることでこの世界に生まれる。

比喩は言語のレベルだけでは完結せず、「言語+わたし」によって完結する(自律したオブジェクトとなる)。同様に、芸術作品は、それを受け取る観客(実在的対象としての自分自身によってそれを演じる観客)なしには完結しない。しかしそれは、「作品+観客」として完結する自律したオブジェクトであり、他(環境・状況)から切り離されている(リテラルではない)。そして、水素が、水の構成要素でありつつそれ自身として自律したオブジェクトであるように、観客もまた、「作品+観客」からなるオブジェクトから自律している。

⚫︎以下、グレアム・ハーマン『Art and Objects』の、フリードについて論じている三章から引用。翻訳はClaude 3による。ほぼ、そのまま。

成功した隠喩は、珍しいタイプのRO-SQ(引用者追記「実在的対象-感覚的性質」)である新しい対象を創り出します。現象学の洞察から、あらゆる対象にはその対象と対象自身の質の間に常に「緊張」があることがわかります。「緊張」とは、対象がある程度の漠然とした限界内でその現在の質を別のものと交換できるため、対象がその質を同時に持っていて持っていないことを意味します。通常の感覚的対象の場合、木は私たちがそれに立ち向かう仕方や角度、距離によって無数の異なる性質を持つことができ、感覚的な木とその感覚的な性質の両方が経験の中で直接対峙されます。隠喩、そしてそれに伴うあらゆる美的経験は、創り出される対象が感覚的ではなく現実的であるという意味で奇妙です。「ぶどう酒のように濃い色の」と形容されたホメロスの海は、ぶどう酒からあまりにもかけ離れているため、日常的な経験と文字通りの言語における感覚的な海ではなくなります。海は今や退かれ謎めいたものとなり、ぶどう酒のような感覚的な質に囲まれています。これがRO-SQの対角線のパラドクスを意味しており、それを文字通りの記述に還元できないことが、それを美的なものたらしめています。つまり、直接的な命題の散文の対象ではなく、暗示の対象となるということです。

しかし、ここに問題があります。ホメロスの隠喩による海が文字通りのアクセスからすべて退いているがゆえに、その濃いぶどう酒のような性質が残っていても、海自体はもはやアクセスできなくなっているからです。これは問題です。なぜなら、それは対象と性質が常に一対のものであるという妥当な現象学的原理を公然と無視しているからです。たとえ部分的に分離可能であっても、です。つまり、私たちには隠れた空虚なものを離れて単独で存在する濃いぶどう酒のような性質を持つことはできません。「濃いぶどう酒のような海」という隠喩には、直接関与する対象が存在しなければなりません。私たちは、アクセスから退いている海がそうであってはならないことを確認しました。同様にぶどう酒も、海に性質を与えるためだけに隠喩に入ってきており、独自の対象としては入っていないので、隠喩は「海のように濃い色のぶどう酒」と逆転しなければなりません。私たちが見てきたように、場面には他に一つの選択肢、つまり別の現実の対象しかありません。その現実の対象とは、私、隠喩の鑑賞者なのです。濃いぶどう酒のような海を演じさせられているのは私なのです。隠喩はパフォーマンス・アートのひとつのヴァリエーションに過ぎないことがわかります。他のあらゆる種類の芸術も同様です。なぜなら、鑑賞者の関与なしに芸術は存在しないからです。たとえ最初の制作段階で、通常芸術家が唯一の、あるいは極めて少数の鑑賞者である場合でさえそうです。こうしたパフォーマンスは、文字通りの(引用者追記「リテラルな」)認識の場合には起こりません。なぜなら、その場合、対象は場面から消えることがなく、したがって置き換える必要がないからです。鑑賞者に美的体験を他の体験から区別させるのは、鑑賞者に対して(私たちがその呼びかけに気づき、少なくともある程度作品に説得されるならば)、欠けている対象に代わり、半ば不適切に割り当てられた性質を支えることが求められるということです。完全に適切な割り当ては、美的比較ではなく文字通りの比較になるでしょう。「トランペットとコルネットは似ている」「moth(蛾)とButterfly(蝶)は似ている」といった具合に。

2024/03/25

⚫︎Amazonを見ていて知ったのだが、グレアム・ハーマンは『Architecture and Objects』という本も出してるのか。すごい仕事量だ。

そういえば、『Art and Objects』の最後のところでハーマンは、「熱いメディア」と「冷たいメディア」との対比について触れて、近代を支配した多くの「熱いメディア」が、次の時代へと移り変わるにつれて「冷える」ことを経験するだろうと書いていた。そして、哲学者が今まであまり高く評価してこなかった、古くからある「冷たいメディア」としての「建築」の重要性を指摘して、本が閉じられる。なので、『Architecture and Objects』は、『Art and Objects』のかなり直接的な「続き」ということになるのだろう。

以下は、『Art and Objects』七章から引用。翻訳はGeminiによる(「そのまま」です)。引用中にある「錯視主義的絵画」とは、普通に三次元的なイリュージョン(三次元的な表象)が成立している絵画で、遠近法的、自然主義的な絵画と考えれば良いと思う。

メディア理論家たちの間では、マクルーハンが「冷たいメディア」と呼ぶものについて、多くの議論が行われてきました。その多くは否定的です。 彼はこの用語で、十分な情報が与えられていないメディアのことを指しており、鑑賞者がいくつかの詳細を自分で補完する必要があり、その結果としてしばしば催眠的な効果が生まれます。

ここで私は、近代においては高級芸術が一般的に、過剰な情報がすでに提供されている「熱いメディア」によって支配されていたという歴史的命題を提示したいと思います。 さらに、情報過多は常に、各要素間の関係が過度に規定され、それらの自律性が抑制されることを意味すると主張したいと思います。

ビザンチン・アイコン、イスラム美術の装飾模様、中国山水画の霞がかった雰囲気など、どれも氷のように冷たいメディアですが、西洋のポスト・ルネサンス期以降の錯視主義的絵画は、その要素を他のすべての要素との非常に明確な関係で描いています。 これらの要素はそれぞれ、描かれた三次元空間内の特定の位置を占めているため、その関係的存在は他のすべての絵画要素との関係で完全に決定づけられています。 心はこうした絵画の美しさに圧倒されるかもしれませんが、暖炉の前のように催眠状態になることはありません。 マクルーハンの意味で、錯視主義的な油絵は「熱いメディア」であるのに対し、カンディンスキーパウル・クレーポロックなどの抽象絵画は催眠的な「冷たい」ものと考えられます。

文学の場合、神話はいわゆる「冷たいメディア」です。なぜなら、神話では、ある程度の人物と伝説が提示されるだけで、語り直すたびにバリエーションが生じる余地があるからです。 一方、小説は文学作品の中で最も「熱いメディア」と言えるでしょう。なぜなら、小説では一字一句が権威あるテキストの中で説明されており、再版ごとに変更の余地がないからです。 映画もまた「熱いメディア」です。なぜなら、観客は常に非常に特定された形で各ショットを見せられ、好きな角度から物事を見る余地がないからです。  Humphrey Bogart(ハンフリー・ボガート)は、映画が何回上映されようとも、どのシーンでも同じように見えます。 言い換えると、映画には自律したオブジェクトは存在せず、すべてが他のものとの正確な関係によって過度に規定されたオブジェクトのみが存在します。 一方、ビデオアートは一般に、物語性がはるかに曖昧であるため、より「冷たい」傾向があります。

《私がこのようなことを言うのは、近代時代から次の時代 (ポストモダンは本物の時代というよりも、むしろ燃えさしの混乱のようなもの) へと移り変わるにつれ、近代を支配していた多くの「熱い」形式が「冷える」ことを経験するだろうと疑っているからです。 (…) ビデオゲームが映画のより「冷たい」代替手段になるかもしれないと示唆されることもありますが、今のところ芸術としての地位に到達したものがあるかどうかは疑問です。 しかし、哲学者があまり高く評価してこなかった、もっとずっと古いジャンルが主導権を握るかもしれません。 私は建築について話しているのですが、建築は、私たちが自由に歩き回り、一度に全体を把握することができないものであり、錯視主義的絵画、小説、映画のように特定の一連のプロファイルと同一視することができないという意味で、本質的に「冷たい」ものです。

2024/03/24

⚫︎部屋のソファーの上に積み上げられた、連続講座第二回のための資料の山を切り崩し、本棚などに戻しつつ、第三回、第四回のための資料をぼちぼちと掘り出して、それらはまたソファーの上に積み上げられる。

次回は、大岩雄典さんにお話を伺うことを通して、グレアム・ハーマン『Art and Objects』を読みときつつ、ハーマンとマイケル・フリードについて改めて考える回になると思います。

(ハーマンの『Art and Objects』は、オブジェクト指向実在論(OOO)の立場から、モダニズム以降の芸術作品やその言説について書かれた本ですが、ハーマン自身が、この本の多くをマイケル・フリードに負っていると書いています。フリードは、「芸術と客体性」という論文で有名で、グリーンバーグの批判的継承者みたいなイメージが一般的ですが、ぼくには、90年代の「批評空間」に載っていた「二つのレアリズムの間に」という、なんとも不思議なテキストが強く印象にあって、いわゆるフォーマリズムとは違った感触によって、ずっと気に掛かってきた存在でした。とはいえ、あくまで語学弱者の「ぼんやりイメージ」として気になっていただけですが、下に埋め込んである大岩さんの動画(「世界はここで終わる」)を観て、こんなに面白い人なのか、と改めて興味が湧いたのでした。)

連続講座、特別回。大岩雄典トークマイケル・フリードとグレアム・ハーマン―芸術作品はどのようにして、この世界にあることができるのか」

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僕のみるかぎり、ハーマンの読解には、フリードの批評を実在論のテーゼに読み換える魅力的なメタファーと、その副産物としてのフリード批評の再解釈がある。前者はOOOに、後者は美術に役立つだろう。だが他方で、むしろハーマンの読めていないところに(フリードの悪文のせいだ)、フリードの批評的なエッセンスがあるようにも思う。

《僕が3月に提出した博士論文は、インスタレーション・アートの理論にフリードの批評の体系を引き継いだものだ。これも一種の「魔改造」である。インスタレーションという、輪郭のわからない芸術の経験や制作を論じるうえで、「芸術作品はどのようにあるのか」というフリードのテーマは役に立つ。他方でハーマンの芸術論も、ジャンルを限らない、芸術作品という対象を広汎に考えるテーゼを提案している。フリードも近年は文学論に手を伸ばしている。

ハーマンとフリードが芸術を通じて論じるのは、ものの「自律」である。何が個別で、私たちや他のものとは異なるものとしてあるのかという問いが、芸術という、特異に個別なものを通じて語られる。であるからして、ハーマンの理論とフリードの理論がそれぞれどのように個別にありうるのかも、読み取らないといけない。》

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このテキストは、まさにフォーマリズムの現代的アップデートという感じで、美術という文脈において、こういうものをこの20年くらいずっと求めていた、という感じです。

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2024/03/23

⚫︎RYOZAN PARK 巣鴨で、連続講座「未だ十分に尽くされていない近代絵画の可能性について(おさらいとみらい)」、第二回「「実の透明性/虚の透明性」を魔改造する」。スライド600枚弱で、四時間を超えるイベントになった。コーリン・ロウ+ロバート・スラツキイの論文「透明性―虚と実」の解説から始まって、幽体離脱的な、一でもあり多でもある「わたし」というありようを実現する表現(魔改造された「透明性」)に至るところにまで持っていくのに、最低限そのくらいかかった、ということだ(アーカイブもあります)。

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流れとしては、「透明性―虚と実」の解説→論文にない実例の提示→セザンヌの分析(「りんごとオレンジ」から、晩年のブランクのある作品について、ホックニーの写真との類似性など)→カントールの塵とブランクについて→小津安二郎麦秋』と成瀬巳喜男『稲妻』の特定場面のカット割の分析と比較→多平面的(多レイヤー的)空間表現としてのアニメティズム(トマス・ラマール)について。ここでいったん休憩。

続いて、桂離宮の庭園回遊ヴァーチャルツアーと分析(「かつてあったことと、これからあるであろうことについての無知」「自身が遠くに没入している」をもたらす空間)。休憩。

終盤は、小鷹研理による幽体離脱研究を参照しつつ、小鷹研のいくつかの作品(装置)と「知らせ」(神村恵+津田道子)の紹介→チェルフィッチュ『フリータイム』とアピチャッポン『光りの墓』の分析。虚の透明性が拡張・進展された表現としてチェルフィッチュがあり、実の透明性が拡張・進展された表現としてアピチャッポンがある、というところで、一応終わり。

直前まで、『寝ても覚めても』(柴崎友香)と、「音から作る映画」シリーズ(七里圭)についても触れたいと思って準備していたが、時間的にもどうやっても入りきれなかった。柴崎友香における、東京と大阪というバイロケーション性(≒虚の透明性)と、七里圭における、とにかく「重ねまくる」、実の透明性を極限まで過激に追求することによって実現するもの、については、また別の機会に考えたい。

2024/03/22

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、第九話。円井わんの仲里依紗に対する感情は、嫉妬と羨望からくる憎悪の状態にあって、つまり、円井から仲へのハラスメントの告発は、憎悪する相手を陥れる策略であろう。たとえば、昭和の時代、職場におけるハラスメントが社会的にほぼ問題になっていない時に、円井による仲への感情と同様の嫉妬と羨望からくる憎悪があった場合、円井は、ハラスメントへの告発とは別の形で(その時代、その環境に合った)、何かしらのダメージを相手に与えるような策略を実行しただろう。ここにあるのはあくまで、円井と仲との間に生じた人間関係の問題(こじれ)であり、感情の問題だと言える。ハラスメントが、社会的な権力関係の中で、それを利用して相手の人権を踏み躙るような行為をすることだとすれば、円井の仲への感情(仲に傷つけられたと感じること)は、そこには含まれないはずだ。

阿部サダヲは、円井に対して、仲里依紗よりもずっと酷いことを言っているが、円井にとって阿部など眼中になく(関心がなく)、故に阿部の言葉に傷つくことはなく、せいぜい仲を追い詰めるための格好の素材くらいの意味しかないだろう。円井にとって仲の言葉は、直属の上司からの言葉ではなく、嫉妬と羨望からくる憎悪の対象にからの言葉となる。それによって円井に生じた感情(傷つけられた)について、「上司」としての仲が責任を取らされるのは理不尽なことだ。

(仲が、「人として」配慮が足りなかったと反省することはあるかもしれないが。しかしそれは、個と個の間のコミュニケーションの問題であって権力関係の問題ではない。)

(このことの背景には、この社会の中にマタハラという問題が存在してしまうという事実がある。しかし、「マタハラが存在してしまう」ということのツケを個人としての仲里依紗が負わされるのは理不尽だろう。だが、人は往々にして、遠くにいる敵対的強者よりも、近くにいて、同じ問題を共有してさえいる、決して「敵」ではない人物の「小さな配慮不足」の方を、強く恨んでしまいがちだ。)

だからここで問題となるのは、上司と部下との間にある権力関係ではなく、「裁く側」と「裁かれる側」との間にある権力関係だろう。ここで「裁く側」に明らかに大きな問題がある。そもそも、誰に「人を裁く」権利があるのか。必要上、第三者的な立場として裁く側になってしまった場合、そこには「部下に対する上司の責任」よりも重い責任が課されることになる。だが、このテレビ局のハラスメント対策委員会は、その責任を果たしていない。調査が十分でないばかりか「被疑者」に十分な反論の機会を与えることもない。彼らの目的が、フェアなジェッジを行うことではなく、問題を大きくしないこと(危機管理)にあるからだ。この点について、仲は会社組織から明らかなハラスメントを受けているが、それを告発する窓口はない。

(仲に、感情として、円井に対する罪悪感がほんのわずかでもある場合、ここで抵抗することはほぼ不可能だろう。)

(このような「委員会」の様子を見ると、60年代の前衛映画によくあった、革命的勢力による、反革命分子を糾弾する委員会の様を連想させられる。)

もちろん、ハラスメントは大きな問題であるが、では、それにかんして、誰が、どのような権利において裁くのか。人が、直接的に加害を受けているわけではない誰かを(疑問を呈するというレベルではなく)強く非難する時、その人は、その強い非難に見合った根拠を本当に持っているのか。あるいは、非難が言説のレベルで機能する(論争や政治的対立)なら良いとして、実質的に、社会的評価にかんして決定的に「裁いてしまう」ような力を持ってしまうとしたら、どうなのか。とはいえ、誰かが、何がしかの責任を負って「裁かないわけにはいかない」場合は端的に存在し、その場合、その根拠は何重にも検証される必要があるだろう。

(ただ、このような疑問を持ってしまうことがそのまま、「既得権を持つ者の有利」に通じてしまうというどうしようもないジレンマもあり、故に、とりあえず真偽はともかく「弱い側」に立つという暫定的態度は必要だ。しかしそれは暫定的な判断であり、状況により判断は流動的になり、裁きを決定的に色付けることは避けなければならないと思う。)

「委員会」のメンバーは、何も裁きたくて裁いているわけではない。裁く立場であることの全能感に酔っているわけでもなく、正義感や使命感に突き動かされているのでもない。彼らは、同僚である仲里依紗が悪い奴ではないことを知っているし、「そんなつもりはなかった」が言い訳でないことも知っている。ただ、円井わんがこれ以上騒ぎを大きくしないために、「ここは君が我慢してくれ」という話だ(組織としての危機管理)。いわば、ヤクザ映画で、若手が汚れ仕事を請け負わされて、何年かの懲役を済ませて帰ってきたら幹部待遇を約束するから「ここは我慢してくれ」というのと同じ構造だ。

(そもそも、委員会のメンバーの中に、被告発者の親しい仕事仲間が含まれている時点で、この委員会には正当性・第三者性がない。だから、彼らがするのはジャッジではなく「(組織内の)調整・調停」になるしかない。まずここに大きな問題があるのだが。)

委員会のメンバーはその事情を知っている。あるいは、仲と近い位置にいる内部の人は、ここで仲が「汚れ役」を引き受けさせられていることを知っている(だから復職後の彼女を責めることはないだろう)。しかし、すべての人がそれを知るわけではない。事情を知らない第三者には、ただ「パワハラで休職させられている人」という情報だけがもたらされ、それ(だけ)を元に彼女は「裁かれる」。あらゆる事柄には複雑な事情があるが、それを知る人はごくわずかだ。