2024/03/29

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、最終話。過去回を適度に振り返りつつ、お祭り的な雰囲気で、ふわっと、みんな幸福な感じでよかったねというところに着地する。三ヶ月間、ドラマを見続けて登場人物に愛着を持っている観客にとっては、後に引きずらない感じで、いい気持ちで登場人物たちとお別れできるのだから、テレビドラマの最終話としてはこれが正解なのかもしれないが、面白いか面白くないかと問われれば、面白いとまではいえない。ただ、途中が面白かったから、最終回は、まあ、こんな感じなのかな、と。

(「寛容」とか「多様性」とか、そういう言葉はあまり安易に「着地点」に使わない方がいいのになあ、とは思った。着地点がしばしば安易であることと、問題を類型化・矮小化し過ぎている、あるいはしばしば問題をミスリードしている、ということは、このドラマの明らかな弱点で、どうしても引っかかってしまうところではある。デリケートな素材を「手ぐせパターン」「コメディとしての型」で処理してしまうようなところがしばしばあった―-だが、そうでないところも確かにあったのだけど-―のは残念だった。)

(野木亜希子や坂元裕二だったら、こんな感じの「テンプレ最終回」にはしないでもっと―-脇を固めつつ-―攻めてくると思うけとど、良くも悪くも安定の最終回という感じ。「最終回で伏線回収してどんでん返し」みたいなドラマにはしねえぞ、という自己言及通りだった。)

⚫︎佐高くんの資金援助のおかげで、2024年と1986年の間にバスの定期便が通って、過去と未来が入り混じってカオスになる、みたいな展開がぼくは好みだが、まあ、そうはならないことは納得する。しかし、タイムトンネルが開けてしまったとしたら、実際には、定期便が通るなんてことよりもはるかにメチャクチャなことになってしまうわけだが(とりあえず、Creepy Nutsの二人は未来に帰れるだろう)。実質的には「時間は存在しない」みたいな世界になる。

(未来の、ある特定の時点で「タイムトンネルが開かれた」ということは、その瞬間に「過去から未来に渡ってすべての時間においてタイムトンネルが常に存在する/既に存在していた世界」へと、世界・歴史のすべてが改変されてしまったことになる。)

「確定されてしまっている娘と自分の死」に対してどう向き合うのか、という問題は保留されたまま終わった。とはいえ、タイムトンネルが開け、いつでも好きな時代に行けるというのならば、「確定された死の時刻」へ至る前の時間を、無限に引き伸ばし、無限の遠回りができることにはなる。生きているどの時期にも、死後にも、そして生まれる前にも、どこにでも行けるのだとすれば、生きていることと死んでいることの違いが、もうほとんどどうでもよくなってしまう。

⚫︎最後まで見て思うのは、この作品の芯にあるのは「死を否認する」という感情なのではないかということだった。その意味で、いまおかしんじとかにも近いのかもしれない。阿部サダヲが死後の世界で孫たちの世代のために奮闘し、仲里依紗が(幼いうちに亡くなったためにほとんど記憶にもない)死んだ母親と出会って友情関係を結ぶ。ここにこそ重点があるように思う。死が否認された世界に説得力を持たせるために、36年を隔てた二つの時代(世界)に通路が開け、徐々に撹拌される。吉田羊は、少年時代の別れた夫に出会い「うう、井上ぇぇ…」と思い、少女時代の自分に出会って「ああ既に自分がいる」と感じる。坂元愛登は、父親と偶然、友人として出会い、あまりに若すぎる両親に対して「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の反復を強いられる。古田新太は、阿部サダヲにとって「自分より歳をとっている娘の夫」であると同時に、(同様に妻を若くして亡くしていることから)、95年に死んでしまうことが確定している自分には決して至ることのできない「不可能な未来の(年老いた)自分」の像でもある。阿部サダヲは、古田新太仲里依紗の父娘の中に、(震災で死ななかった)自分と娘の反実仮想的未来を見ることができる。

(阿部サダヲは、若くして死んでしまうことが決まっている河合優実に、せめてものこととして死後の未来の世界を体験させる。)

阿部サダヲ河合優実は、生きているのと同時に死んでおり、磯村勇斗彦摩呂錦戸亮古田新太、中田理智→三宅弘城袴田吉彦沼田爆は、不可逆的な変化ではなく両方同時に存在する。そして、阿部サダヲ→( )、河合優実→( )と、後者が「空」であることにより、二人が「半分の死者」であることが示される。タイムパラドックスなどまったく問題にならずに過去と未来とが(生と死とが)ひたすら撹拌され、死者と生者が出会って関係を持つ。あまりに融通無碍で、あまりに「寛容」である世界にまで至って物語が着地する。それなりにシビアな現実から「物理的にあり得ない寛容さ」を持った世界への飛躍。この作品においては、前者(現実)よりも後者の方がリアルだ。

(小泉今日子のみが、二つの世界を貫いて小泉今日子であり続け、時間の不可逆性を示し、時間が攪乱された世界における最低限の「現実的な錘」となっている。)

⚫︎ただ、納得できない疑問としては、なぜ、わざわざ阪神淡路大震災を出してきたのかがよくわからないままで終わってしまったな、ということはある。1986年と2024年とがほとんど非現実的に、(生/死も超えて)夢のように混じり合う世界で、その間に、それに対する抵抗のように「シビアな現実(現実としての「死」)」としての1995年が置かれているわけだが、それがただ「置かれただけ」で放置されてしまった感じ。「置かれている」だけでも、意味はあるのだが。

(このドラマにおいて、さまざまな問題はしばしば、それ自体が主題なのではなく、あくまで時代背景、あるいは「時代」を表現する要素にとどまっており、その点について「怒り」を感じる人がいることは納得できる。そのようなドラマにおいても、1995年は、「時代背景」にはならないシリアスな現実として置かれている。)