●(ここ数日の日記はゆるやかにつながっている)『ニューロラカン』(久保田泰考)の「もし言語がなければ統合失調症はないのだろうか」という章ではむしろ、「もし言語がなければ統合失調症に接近することはできないであろう」というようなことが書かれている。まずそこでは、統合失調症の患者に特異な言語解体の例が示されている。そして、それは解析可能であり、それにより発症の予測すら可能であるといわれる。
まずその言語解体の例から。
《私はいつも地理が好きでした。前の地理の先生はアウグスト・A先生でした。黒い眼の人でした。私は黒い眼が好きです。青い眼の人や灰色の人や、ほかの色の眼の人もいます。蛇の眼は緑らしいですね。誰もが眼を持っています。》
《ブロイラーの教科書にあげられている統合失調症の言語解体を示した有名な手紙の文例だ。おそらく発音、そして語彙、文法構造も何ら損なわれていないが、これを読む人は当惑する他はない。何を言いたいのか、さっぱりわからない。》
《通常の意味的連関からすれば「弛緩」と捉えられるが、要するに患者はある語を、文脈上意味を成すか否かにかかわらず、彼女・彼固有の形で連想するわけである。つまり、通常の連想から大幅に偏移した、希な連想がなされる。こうした一連のフレーズにおける産出された語の意味的偏移は、統計的モデル化によって定量化されうるし、コンピュータによる自動的な解析も可能である。》
《驚くべきことに、こうした解析により得られた指標が、かなりの確率で数年後の発症を予測するとの報告もある。》
●そして、これはどういうことを意味するのか。
統合失調症の意味そのものの次元の病理は、言語(ランガージュ)の構造自体が「語る」といった事態を考慮して考察されねばならない。すなわち、何か異常な意味体験が内的に出来上がったものとしてあり、それを内部の冷静な観察者たる〈私〉が報告するのでなく、意識に意味のある思考をもたらすメカニズム=言語構造自体が、おそらく限定的な主体の関与のものとで、それ自体を明るみに出す、という状況である。》
フロイトはそのことに、統合失調症患者は語を「物」のように取り扱うという点から気づいていた。患者にとっては、すべての象徴的なものが「現実」となっている。それは意味の外にある誰も読めない文字のようなものである。》
《ヒステリーならば、言語表象は身体運動性の出力、たとえば筋肉の震えに置き換えられるわけだが、それは同じ象徴的な表面にあり、身体をメディアとした象徴として現れ、そして「解釈」される。職場の人間関係のしがらみの中で、いうに言われぬ思いを飲み込んで耐えていた女性が、ある日から声を出せなくなる、という風に。それに対して、統合失調症では、言語はいわばそのまま器官となり、なんら置き換えの媒体を必要とせず、単独である固有の症状としての価値(ラカンが〈享楽〉と呼ぶもの)を体現する。》
《(…)神経症をモデルとした防衛というメカニズムでは、この現象はまったく説明がつかない。むしろ、患者は不都合な性的現実をあけすけなまでに言明しているように見えるから(「神の女として」弄ばれるとシュレーバーは語った)、それは防衛どころではない。》
統合失調症において現出するシニフィアンは、フロイトにおいては「穴は穴である」、といったナンセンス漫画のようなシニカルさというニュアンスのもとに理解される。すなわち「無意識について」で言及される、タウスクの報告による症例であり、その患者は靴下を穿こうとするとき、伸ばされて見える編み目の「穴」が膣の「穴」を連想させるゆえに、靴下を穿くことができなかった。編み目であれ女性性器であれ、「穴は穴」に他ならないのであり、ラカンに従っていえば、「象徴的なものはすべて現実的なものになっている」。》
●引用の最後のブロックで、靴下の編み目の穴がすべて女性器に見えるという症例は、「穴は穴である」ということと同時に、今日に我々には、いわゆる「AIが見る夢」の不気味な画像を連想させもするのだが。「Google、人工神経ネットワークが見た『夢』を公開 (※ 微グロ注意)」
https://japanese.engadget.com/2015/06/21/google-dream/
●以上までの引用は割と常識的な精神分析的な記述であろう。以下では、ここに神経(脳)科学的なアプローチが重ねて検討される。ここで、統合失調症の特異な言語使用は、患者の脳のシステムの混乱を、脳とは別の自律した(いわば脳をハッキングした)システムである「言語構造」が教えてくれているのではないか、という視点がもたらされている。ここで、『神々の沈黙』の二章までとの「部分とのつながり」も感じられるように思う。
《脳・ネットワークが意味処理を行うとして、それは「誰」にとっての意味なのか(つまり、脳にとって「他者」はあるのか)が重要なのであり、それはもちろん、意識している自我=私、である。私たちが考えているのは、無意識の計算機構から意識の領野(知覚も含めた)という「外部」に出力される限りでの「意味」ということになる。》
《たとえば、シナモンという「言語表象」について、それに対応する意味論的なレファランスとは、その語によって想起されうるこれまでの知覚経験の総体の神経ネットワークにおけるすべての再表象化と見なされうるし、そういうものとしての事物表象を神経科学の文脈におき直すことは、むしろ自然なことだろう---初めて舐めたシナモンキャンディの奇妙な風味、カプチーノに添えられたシナモンスティックの香り等々。実際、シナモンという単語を聞くことは、無意識のうちに嗅覚皮質の活動性を高めることが知られている。そうした知見をふまえてはじめて、わたしたちはここで「意味は脳である」と断言することになる。》
《実際それは、今日の一部の神経言語研究者の唱えるテーゼなのだが、同時にほとんどフロイディアンなのだ。そのような理論的枠組みから、統合失調症の言語使用の特異性は、脳=意味の側の混乱に対する、言語システム(それ自体が構造として一定の自律性を持っている)の側からの、それ自体ある程度の自律性をもった反応であるとみなす可能性が開かれる。すなわち、「無意識について」におけるフロイトの仮説に沿って言えば、彼にとっての統合失調症の言語性病理の本質は、言語表象による、事物表象=レファランスの喪失(に限りなく近い混乱)に対する代償作用である。》
《もし言葉がなかったら精神病はないのか?---経験知からその仮説の妥当性を判定できない。つまり、精神病の動物モデルは現実上「ない」。》
《(…)言語構造が精神病性の混乱の元凶であるという見方もありえる。つまり言語によって意味を処理するという事態は、脳に相応の負担を強いており、精神病の発症は言語使用の避けがたい代償であるかもしれない。クロウらの議論を参照すれば、言語処理にかかわる遺伝子は比較的最近獲得されたもので、ミスも多く発生するが、ヒトの進化にとって重要であるため、集団の中ではプールされていると考えられる。いずれにせよ確かなことは、言語構造によってはじめて精神病が接近可能なものとして立ち現れるということである。言語があるおかげではじめて脳=内部システムにおける意味レベルの混乱が外在化=意識化されうるのであり、それは少なくとも何の外部出力も失われたままフリーズするより、生体システムの生存に有利だろう。》
●(20世紀的な言語論的転回がいったん御破算になったといえる後で)たとえば、オープンダイアローグのようなやり方が、本当に統合失調症の患者さんにも効果があるのだとすれば、言語と(脳の)神経システムとの関係がどうなっているか、というか、「言語」が「わたし(の統合)」に対してどのようにかかわっているのかという点について、「言語論的転回」的なものとも異なり、神経科学的なアプローチへと還元することとも異なる、別の(あるいは複合的な)構えの考え方が必要になる。(『ニューロラカン』も、そのような試みとして書かれているように思われる。)