●今日中に原稿をもう一つ書くことが出来れば、明日一日は何もしなくてよくて、いろいろ観に出かけられるかと思っていたのだけど、今日は全然頭が働かない日で、何をするでもなくぽかんと過ごしてしまった。それも、のんびりとぼんやりと過ごせたわけでもなく、意味もなくウェブをあっちこっち覗いてみたりとか(それで特に何か見つけられたわけでもなく)、本をパラパラめくってみたりして(とはいえ集中して読めるわけではなく)、無駄にがちゃがちゃして、本当に無駄に過ごした感がある。
●ぼんやり思ったのだけど、坂本一成の「家型」というのは、ステラのシェイプトカンバスに近い感じなのだろうか。ステラのシェイプドカンバスは、フレームの形が内容を規定しているようであり、内容(描かれる形態)がフレームの形を規定しているようであり、どちらでもあり、どちらでもない宙づりの感じが、作品をあるニュートラルな状態にしている(それはまあ、一種のトートロジーの効果であろう)。それによって、(レディメイドである)矩形のキャンバスとは違う形のフレームをわざわざつくっているにもかかわらず、その形自体は特に意味をもたずに、既製品以上にニュートラルである状態になっていると言えると思う。キャンバスが持っている歴史的、社会的な文脈としての「キャンバス」という意味を脱色しつつ、形を変えることによる「特別な意味」の付与も上手く避けているというような。
ただ、それだとあくまでモダニズムの範疇に留まる問題になる。例えばステラだと、それ以降の展開がひどいことになる(「ひどいこと」になったステラを、ぼくは決して嫌いではないけど)。だからそこから先にどう行くのかが重要になる。坂本一成の建築が、モダニズム的な問題を継承しつつ、それ(家型)以降の展開であってもステラのように「ひどいこと」になっていないのだとしたら、それは「どこがどう違うのか」ということに興味がある。それは、ある地点までパラレルだけど、その後の展開が違うということなのか、それとも、「家型」と言っている時点で既にシェイプトキャンバスにはなかった何かがあったということなのだろうか。なんとなく後者である気はするのだけど。
(ステラの展開は、非線形科学などを――おそらく――意識し参照していつつも、ネットワーク――あるいは基底面の複数化――という視点が欠けているところが致命的なのではないかという気がするのだけど…。坂本一成において「閉じること−コンセプト」と「開くこと−条件」との相克は二項対立ではなく、「一」と「多」との関係をどうするのかという思考に基づいて組織されるみたいな感じで、そうである限りそれは必然的にネットワーク的な思考になってくるのではないか。一方に、一を多に分割しようとする力−傾向があり、同時に、多を一へと集約しようとする力−傾向があるという時、それは対立ではなく、二方向の力が中間で重なる領域が生まれるはずで、そこで、多が一へと転移し、一が多へ転移するという立体的で動的な交錯が起こる――中間的な――場が考えられる、はず。ステラにはその感じをイメージできないから、あくまでも字義通りに理論――「一」でなければ「多」だという理屈で「多」の方に極端に比重を置いたもの――を徹底させて、結果として単調な混沌になってしまうのではないかとも思う。)
●でも、混沌を「単調」だと感じてしまうのは人間の認知能力に限界があるせいで、例えば、すごく計算能力の高い人工知能であれば、われわれがぐちゃぐちゃな混沌として見てしまうもののなかに美しい秩序を見出して、それを楽しみ、愛でることもできるはず。複雑さ(面白さ)と混沌(無秩序)との閾値は、それを感じる人の頭の良さ(頭の良さの方向にも様々あるけど)に依存しているとも言えてしまうのだ。