西山洋市『運命人間』

●DVDで西山洋市『運命人間』を観たのだけど、全く面白くなかった。脚本も演出も俳優の使い方も全然練れていないとしか思えないのだけど、そのような完成度が問題なのではなく、それ以前に「冴えた」ところの全く感じられない映画だった。このつまらなさは一体何なのだろうかと考えていて、一昨日の日記に書いた小林さんと話したことを思い出した。つまり、作品をつくろうとする時に浮上してくる様々な問題を、それが本当に(と言うか「普通」に)問題であるのか、それとも、何かを学習する過程で「これが問題なのだ」という風に「刷り込まれて」しまった問題に過ぎないのかを区別するのは難しい、という話だ。あるいはそれを、それが本当に(と言うか「普通」に)面白いのか、それとも、何かを学習する過程で「これが面白いのだ」という風に「刷り込まれて」しまった面白さに過ぎないのかを区別するのは難しい、と言い換えることも出来ると思う。だが、その区別をきちんとやらなければ、その人がたまたま置かれているある一定の文脈のなかでしか「面白く」はない、ということしか出来ないと思う。
『運命人間』の監督や脚本家が「恐怖映画」に独自のこだわりと豊かな記憶とを持っているであろうことは、それについて詳しくはないぼくにも、この映画の様々な細部からみてとれる。しかしその「記憶」の使い方が端的に面白くない(甘い)のだと思う。マニアであることは決して悪いことではないはずだし、むしろそれは豊穣な財産(記憶)を有しているということであるはずなのに(記憶を持つということは、歴史を背負うということでもあるのだが)、マニアのつくるものがしばしば退屈なものになってしまうのは、それがマニアとしての正当性(と、それを保証するマニア集団)に寄りかかってしまいがちだということではないだろうか。これは、マニアはマニアの閉域から出てグローバルなひろがりを意識しろということよりもむしろ、マニアはマニアとしての正当性を捨て、もっと自分勝手にやって孤立しろ、ということだと思うのだ。(『運命人間』という映画のつまらなさについて考えることは、自分も陥りがちな「罠」を示してくれる「悪い例」として有効であると思える。)