●ひきつづき、「X-Knowledge HOME 昭和住宅メモリー」を眺めていて思ったこと。
●人の行動の多くの部分は、無意識のうちに刻まれてしまっている「習慣」に従っていて、特に自分なりの強い主張やこだわりがあったり、あるいは、その「習慣」に対して疑問を感じざるを得ないような具体的な出来事に出会った経験があったりしない限り、ほとんどの場合、習慣は滞りなく作動しているし、それに対して「習慣に従っている」という意識さえも浮上しない。例えば、大学に入って一人暮らしをはじめ、女の子と仲良くなったりすると、同棲というような大げさなことではなくても、どちらか一方の部屋に入り浸りになるということになりがちで、そのような時に、ふとしたことから気になってしまう、互いの日常でのちょっとした習慣や作法の違い、などによって、ようやく、自らの行動がいかに意識出来ないところまで「習慣」によって律せられてしまっているかに気付いたりするのだった。
●習慣は、人がそれに従って行動するということによって保存され、再生産されるのであって、行動する人がそれについてどう考えているのかはあまり関係がない。例えば、お盆には帰省してお墓参りをするという習慣は、それを行う人が、「家」や「祖先」を尊重するという強い主張を意識的に持っていようが、たんに世間体を気にし、親戚から悪口を言われたくないからそうしているだけで、出来ればしないで済ませたいと思っていようが、それは大した違いではなく、「習慣」が反復して行われるということで、そこに「何か」が保存されているのだ。(その「何か」が保存されるべきもの、良いものであるのかどうかということは、また別の話だ。)
●『細雪』のような小説を読むと、まさに様々な習慣の折り重なりこそが、人を形作り、人の生活を形作っているのだなあ、と思う。
●習慣は、環境(空間)によって保存され、再生産されるが、逆に、習慣によって環境(空間)が保存され、再生産されることもある。
ぼくの実家は、建て替えられて、ぼくが住んでいた頃のものではなく、外観や雰囲気などは(いかにもイマドキっぽい住宅で)全くの別物になっているのだが、その部屋の配置というのか、導線というのか、玄関と廊下と階段とキッチンとリビングとの位置関係などが、ほとんどかわっていないのだった。(トイレや風呂といった水回りの位置がかわっていて、その分、少しずつズレてはいるのだが。)このことについて、両親がどの程度意識的なのかは知らないけど、空間がこのようにして「保存」されることもあるのだなあと思うのだった。