●以下は、「X-Knowledge HOME 昭和住宅メモリー」(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4767804302/contents/ref%3Dcm%5Ftoc%5Fmore/250-6994682-7113851)と「別冊太陽 熊谷守一」を、パラパラとめくりながら考えたこと。
熊谷守一は、昼間のうちは絵を描かず、夜中に電気の光の下で制作したこと、そして、主に支持体に小さなサイズの板を使用し、それを手で持って、上下に関係なくくるくると回転させながら描いたこと、などを、エピソードとして知ってしまっているから、そう「見えて」しまうのかもしれないのだが、熊谷守一の絵からは、光(外光)や重力といったものが希薄であるように思う。
●例えばマティスであれば、形態がきっちり区分けされていて、そこに色彩がべた塗りされているような作品でも、そこに塗られた「色」そのもののなかに「光(太陽の光が大気のなかで乱反射することによって得られるニュアンス)」が含まれていて、それを感じることが出来るし、描かれているものと地面や床との明確な着地点が示されず浮遊しているような絵(例えば『ダンス』)でも、そこに重力の存在、地面の存在を感じることが出来る。(そして、ほくにはどうしても、絵画に光と重力は必要だと思われ、絵画はそれによって辛うじて「世界」との通路を得ているように思えてしまうのだが。)
マティスが室内を描いた絵(例えば『コリウールの室内画』や『赤いアトリエ』など)の持つ空間性は、目によってだけ見られたものではなく、我々の身体が持つ様々な感覚を駆使して空間を触知しようとする時のようなひろがりがある。例えて言うならば、ある部屋のなかをくまなく歩き回り、そこに置かれた様々な物を手に取って触れ、においをかいだりした後に、ゆったりとした椅子に腰をかけて、目を瞑り、あらためて今見た室内の空間をイメージしようとした時のような感じに近いひろがりをもつ。(しかし勿論、マティスは目を瞑ることはなく、そこには常に、目が光を受け取るとこの歓びが同時にひろがっているのだが。)マティスの絵が平面化し、物が装飾的に扱われたりするのは、平面上にそのようなひろがりとしての空間をつくり、統合するためであるのだ。だからマティスにおいては、我々がその内部に入り込んで動き回ることの出来る三次元的なひろがりと重力という秩序から、描かれたもの(イメージ)が完全に切り離されてしまうことはない。
熊谷守一の絵の異様さは、それが「目」によって見られたイメージではなく、「目を瞑ること」によってはじめて現れるようなイメージであることからくるのではないだろうか。その色や形は、光ではないものによって照らし出され、空間から切り離され、だから重力の束縛も受けない。彼によって描かれた植物、あるいは鳥や昆虫の異様さは、それが目(知覚)によって直接捉えられたものとは「別のもの」であることからくる。これは前述したマティスとは全く異なる。マティスの絵が、「目を瞑った」時の感覚に近いのは、目だけではなく、様々な感覚器官によって得られた感覚を(想起的な時空によって)「統合する」ためなのだ。熊谷守一において「目を瞑る」ことはおそらく、昼のうちに知覚によって捉えられたものが、知覚が閉ざされた夜の闇のなかで、現実的な空間や、知覚像のもととなった対象物そのものから切り離されて、ただ感覚として浮かび上がる、といったようなことなのだと思う。確か彼は、ゴッホはつまらない画家だという発言をしていたと思う。ゴッホにとっては「何か」が目の前にあることの強さこそが重要で、圧倒的な光が、ひまわりが、浮世絵が、今、実際に「見えている」ことがゴッボの脳を震わせる。しかし熊谷守一にとっては、何かが目の前からなくなり、見えなくなること、つまり、イメージ(感覚)が、それを発生させる現実的な対象物から切り離されることから、はじまるのではないか。
モダニズムの美術においては、作品を構成する個々のイメージやパーツではなく、それらの関係性、それらを組み立てることであらわれる構造こそ重用視される。例えばカロの彫刻で、それを構成するパーツである彩色された鉄板そのものは、それ自体として面白いものではないが、それがあるやり方で関係づけられ、構造が生まれる(全体化される)ことで、そこに意味(感覚的な実質)が浮上する。フリードはそれを、人の身体(のパーツ)を見るのではなく、人の仕種を見るようなものだという言い方で言う。つまり、モダニズムの「良い作品」は、「まるで陽炎のように」身体抜きで仕種(全体性)だけが純粋に立ち上がる、と。それは、文章を構成する個々の単語に意味があるのではなく、その文の構造によって意味が生まれる、というようなことだ。そしてそれは、複数の異なる要素(異なる知覚)が統合されること(マティスの絵がそうであるような意味において「目を瞑る」ことで生まれる「場」)によって実現される。
●一方、反モダニズムとしてのシュールレアリズムは全く逆のことをする。それは、紙の上に(容易にはその関連性がみえてこないような)いくつもの単語をバラバラに置く、というようなものだ。そこで信じられているのは、単語と単語とを結びつける構造(全体性)ではなく、個々の単語(個々のイメージ)が内包しているであろう、それ自体としての深さであり、強さであるだろう。そして、それぞれの単語(イメージ)は、文の構造によってではなく、それ自身のもつ深さにおいて結びつき、関係が生まれ、新たな意味が立ち上がる、と。だからここではイメージは、現実的・三次元的な空間の内部には位置づけられず、切り離される。常に部分であると同時にそれ自体で一つの全体でもある個々のイメージは、同様に、部分であると同時に全体である別のイメージと、その「深さ」において(つまりぶっちゃけ「無意識の領域」で)結びついて、新たな、もう一つの(部分であり全体でもある)イメージを発生させる。だからここで問題となるのは、仕種ではなく身体(記憶や無意識)そのものであり、その深さであろう。
●だから、シュールレアリストが「目を瞑る」のは、現実的・空間的な知覚を統合するためではなくて、そこから個々のイメージ(個々の感覚的要素)を切り離して、それ自身の深さにおいて活動できるような、新たな結びつきが可能になるような、「別の場所」へと移動させるためなのだ。そのためには、ゆったりとした椅子に腰をかけて目を瞑るだけでは駄目で、あたりが闇に包まれ、人々が寝静まって、昼間の秩序が潜在化し、イメージ(感覚)が現実的・空間的な配置から切り離される、「夜」を待たなければならない。このような意味において、熊谷守一は、モダニストよりもシュールレアリストに近い。
●「X-Knowledge HOME 昭和住宅メモリー」には、熊谷守一の家の全景を俯瞰で撮った写真が載っている。小さな木造の平屋のまわりに、植物がうっそうと繁る庭が囲んでいて、その木々のちょっとした隙間から画家の姿が覗いている。画家は52歳の時に購入したこの家に、97歳で死ぬまで住みつづける。庭に様々な木を植え、その木々が繁り、家は徐々に古びてゆき、その空間全体がほとんど画家と重なり合い、一体化したかのようになってゆく。画家はあまり外出することもなく、人生の最後の50年近くのほとんどをその場所で、永年連れ添った奥さんと二人で過ごすことになる。庭を掘り起こし、そこで昼寝をして、木や草を眺め、鳥や虫と親しむ。しかしそのような、画家と環境とが自然に、そして密接に繋がっているような時空では、絵は描かれない。暗闇が庭を覆い、奥さんも寝入った夜中に、一人画室に籠ることで絵は生まれる。永年親しんだ家、親しんだ庭、親しんだ家人、それらと共にある時間。それらの親しいもの、目で見、手で触れるものと共にある「昼間」の生とは別のところで、見ることも触れることも出来ないにも関わらず、生々しく生起し、動いて、画家を襲う(暗闇のなかの轢死体のような)イメージと共にある「夜」の生。画家としての熊谷守一は、どちらかというと「夜」の側に近い場所にこそいるのではないだろうか。