●ドローイングを描く。
●ドローイングは、言葉には出来ず、感覚としてもはっきりとは意識化出来ないものを保存し、反復させる。それは手の動きであり、手の逡巡であり、手を動かすことによって掴もうとする空間の感触であり、そによって掴まえたものであり、掴まえ損ねたものでもある。それは、掴もうとしている空間のあり様であるのと同時に、手を動かしている時のぼくの「動き」の感覚であり、集中の度合いであり、それを行っているぼくを支えている(支配している)気分でもある。画面は、それら全てが混合された塊の、縮減された幾分かを、痕跡として記録し、その画面を見返す時、その塊が幽霊のように再度たちあがる。
●実際に手を動かしている時、自分が一体何をやろうとしているのか、何を追求し、どんなものを掴もうとしているのかを、自分の「意識」はほとんど知らなくて、それは何枚も描いたドローイングを後から見返してみて、それも、ある程度「作品」としてまとまった(成立した)ものが出来て、それを見ることによってはじめて、おぼろげに知ることが出来る。
●描くことは、何かを掴もうとすること、その何かを探求することであると同時に、実際にしている手の「動き」や、描かれたもの(描かれた結果)を見ることで、その「何か」そのものも動いて(変化して)ゆくことでもある。
●例えば、ぼんやりと、または、考え事をしながら、歩いている時、ふと、今まで気が付かなかった虫の声や周囲の騒音に気付いた(意識に入って来た)瞬間、とか、いつもの見馴れた道を歩いていて、そこに建っていたはずの家が取り壊されて更地になっていたのに気付いた、その最初の違和感(何故そのような違和感を持ったのか「知る」前の違和感そのもの)がたちあがった瞬間、とか、そういう時のような、感覚がぐぐっと揺らぐ感じが、自分で描いたドローイングを見返している時に感じられたとしたら、おそらくそれは、ある程度は何かを掴むことに成功しているのだと思う。