●y=2x+1という式は、yやxの内実は問わず、その関係だけを記述する。そこで、yへと変質してゆくxの、xへと解体されてゆくyの「内面」で何が起こっているのかが問われることはない。二倍にされるとはどういうことなのか。そこに1が付加されるとき、どんな気持ちになるのか。そこにどんな感覚や感情が生まれるのか。あるいは、xをyへ、yをxへと変質させてゆく力とは何なのか。それは何故生じるのか。
●人が何かを「理解した」と感じる時、通常、それは対象を比喩的に把握したということだ。しかし、例えば技術の習得という「知ること」はそれとは異なる。
技術の習得は、既に出来る人、分かっている人に、全面的に依存、従属しなければ可能ではない。自分では出来ていると思っていても、分かっている人がダメだと言えば、有無をいわさずにダメなのだ。技術の習得は言語体系そのものの変質を強いるのだから、それ以前の言語体系を根拠とするどのような反論も無効となる。伝達は一方的であり、双方向の交通は成り立たない。それは外からみれば秘教的にしかみえない。
それは既に存在する技術だけのことではない。新たな技術の創出とはつまり、新たな体系の創出であって、それを記述する言語の有り様そのものが変化するということだ。だから、ここでも、以前の技術の言語で以後の技術は記述も評価もできない。
ここで、以前と以後との二つの異なる体系の「ちがい」を記述するメタ言語があるとすれば、体系そのものが異なるのだということを、そこに断絶があるのだということを、いわば比喩的に記述するだろう。それは技術そのもの(の内実)ではなく比喩に過ぎないが、その比喩が以前と以後との断絶を、つまり関係を語ることによって、人はそれを「外側から(客観的に)」把握し、納得するから(つまり、秘教的、一方的、暴力的ではなくなるから)、以前から以後への移行、あるいは技術の習得が速やかに、スムースになる、のだろうか。あるいは、移行あるいは習得はあくまで盲目のなかでこそ行われるもので(あるいは、あくまで出来事として生じるもので)、メタ的な関係の把握(超越的な視点)は、むしろそれの障害となるのだろうか。
そもそも、既にある技術の習得ではなく、新たな技術の創出が目指される時、そこにはそれを事前に正当化するメタ言語など存在しないのだ。いや、対象の存在しない、対象に先んじたメタ言語のことを理念というのかもしれない。科学において理論的に予想されたところに対象が発見されるのと同様に、メタ言語によって事前に示された技術が創出されるということもあり得るのか。