新百合ヶ丘の川崎アートセンター、アルテリオ小劇場でFICTION『ボノボ』。面白かった。ぼくにとって、前の『世界のはじまり』があまりに衝撃的だったので、それに比べると少し抑え気味という風に感じはしたけど(でも、抑え気味というのは、かならずしも否定的な意味ではない)。
FICTIONの作品は、まず最初に素材というか、一人一人の俳優がいて、その一人一人が何ができるか、というか、どんな人なのか、ということこからはじまっているように思われる(そいうい意味では吉本新喜劇みたいであり、ピナ・バウシュみたいでもあり、吉本みたいになってしまう危険も常にある)。だから細部がデコボコで、全体としての見通しがあまりない。しかし、とはいっても、それはたんに細部の寄せ集めなのではなく、そのデコボコなものたちが、その時、そのように集まったということによって起こる何か(化学変化のようなもの)があって、それが作品としての核となるのではないか。
ぼくが初めて観た頃のFICTIONは、その個別なバラバラなものの存在の面白さが強烈にある一方で、だからこそ全体を強引まとめようとする力も強く働いていて、だから、面白いところはずっごい面白いのに、面白くないところはすっごく重ったるくて鬱陶しい感じだった。突っ走っている時はすごいけど、少しでも止まると停滞してしまう、というような(とはいえ、今になってみれば、そのはっきりと二色に別れる感じは、『ボノボ』に出てくるエンターテイナーの不連続的なモードチェンジとか、二人一組の火夫とかにもあらわれていて、人格やモードの非連続性と唐突なモードチェンジは、劇作家としての山下澄人の大きな特色であるのかも、と思う)。それが、前の『世界のはじまり』から、デコボコなものたちを、そのデコボコなままにしておくという方向に一気に突き進んでいったように思われた。全部の場面が突っ走っている、というか。そこで、一つの作品を一つのものとしているのは、全体を制御する構造でもなく、美的、趣味的な統一性でもなく、それぞれの細部が、それぞれにお互いを見ているというか、お互いに作用し合っていることから起こる何かであるように思った。
印象として言えば、『ボノボ』は『世界のはじまり』以上に、デコボコしたものたちのバラバラさが際立っていて、しかも、そのバラバラなものたちが、必ずしも突っ走ってなくても大丈夫、という落ち着いた感じに思われた。それによって、バラバラなものや出来事の間にある「隙間」のようなものが強く感じられたように思う。隙間によって隔てられたバラバラに存在するものたちが、ポツン、ポツンとたき火の前に集まって来て、ボソボソッと話をしては(別にそれで何か深い繋がりが成立したりはせず、しかし何かしらの交通はあって)、またどこかに戻ってゆく、みたいな感じ。ぼくにはその感じがすごく良かった。
強い対立や衝突のような場面はかなり回避されていて、その分、突っ走っている感は抑制されていたと思うけど(例えば「しんせかい」の時にあんなにも強烈だったピストルの使い方の変化、音楽の強烈さに比べたピストルの音のショボさや、あまりに安易に使われるピストルよりも客席まで届くタバコの匂いの方が印象に残る感じ、にも、それは現れていると思う)、そこには、叙情性と言う言い方が適当かどうかは分からないけど、そのような静かな感情が生まれているように思った。
●なんかFICTIONの作品って、ルノアールの映画に出てくる芝居みたいな感じがする。例えば『黄金の馬車』のあの劇団が、二十一世紀になってやっているお芝居というような。