●もうちょっと、『狼の群れと暮らした男』から引用。著者は、ダートムア野生動物パークというところで、柵で保護された狼たちの飼育係として働いていた。そこには六匹の群れが一エーカー(約四千㎡)程度の広さのなかで暮らしている。飼育係たちは通常、何日かに一度、餌となる死んだ動物を狼に与える以外は、その柵の中に入ることはなかったし、そこに長く留まることもなかった。だが著者は、柵のなかに長い時間座って、狼たちが自分に興味をもってくれるのではないかと期待していた。しかし彼らは興味を示さなかった。そこで、彼らにとって有利であり自分にとって不利である夜間であれば、自分に近づいて来てくれるのではないかと考え、夜の間じゅうずっと、柵の内側に留まることにする。
≪怖かった、本当に怖かった。私の知る限り、今までそんなことをやった人はいなかった――それに飼育下のオオカミに関する事故はたくさんあった。ここのオオカミたちがどんな反応を見せるのか、隠れてしまうのかあるいは私を噛み刻むか、知る由もなかった。私は闇に包まれた中、折れて落ちた枝や地中から突き出ている木の根っこに躓きながら、頂上の土手まで辿り着き、座り込み、あてもなくただ待った。目はほとんど見えなかったが、パークの夜行性の動物たちが活動準備を始めているので夜は奇妙な音で満ちていた。≫
●それを毎晩つづけ、≪一週間半≫は特になにもなく過ぎる。その後、著者が座っている場所を移動してみると、狼たちは著者がもと居た場所の匂いを調べ、そこに匂い付け(放尿)した。著者は自分が彼らから「観察されている」ことを知る。それが三、四日続く。
≪次の晩、ルーベンという一匹のオオカミ(今になればこれがベータのオオカミだったとわかる)が、勇敢にも私のそばにやってきて、私の体の周りを嗅ぎ、空中を嗅ぎ始めた。彼は私に触りはしかった――ただチェックしているだけだった。彼はこの行動を二晩続けた。次の晩私は柵の一番高い地点の土手の上で膝を立て両脚を前に投げ出し上半身を起こして座っていた。同じオオカミがやってきて、その前の二晩と全く同じ行動をとった。私の匂いを嗅ぎ、空中を嗅ぎ、脚を嗅ぎ、それから突然予告なしに私に突っ込んできて、あっという間に門歯で私の膝の肉片を激しく咬みとった。すごく痛かった。
私はその場に竦んだ。どうしてよいかわからなかった。もし私が立ち上がって走ったら、群れが一緒に私を追い私を倒すだろうか? もし彼に反抗したら、彼はもっと攻撃的になるだろうか? しかし、私は全くどうすればいいかわからず、そこに座ったまま、ああ、これでおしまいだ、やられた、と考えていた。しかし、オオカミは後退した、そして私の反応を測るかのように、「どうした」という目で見ながらそこに立っていた。それから彼は向きを変えて暗闇に消えたが、彼を次に見たのは翌日の晩で、彼はまた来てまったく同じことをした。次の二週間彼はその行動を毎晩繰り返した。そのころには私の膝は青黒くなっていた。違う方の膝を咬むこともあり、向こうずねを軽く咬むこともあったが、いつも同じ手順だった。≫
≪私は彼が何をしているのかわからなかったが、その行動のあと攻撃的なそぶりは見せなかったし、仲間のオオカミを呼んで加勢しろとけしかけていないので、私は彼が本気で私に危害を加えるつもりでないことはわかっていた。その気になれば、一平方インチ辺り千五百ポンド(約六八〇㎏)の圧力を加えられるその上下顎骨で、私の膝の皿などあっという間に食いちぎることができるのだ。しかし、彼はそうしないことを選択したので、私は毎晩その儀式を受けいれることにした。≫
●後からわかるのだが、これは狼の群れが新入りに対して行うテストで、それを行うのが先兵である群れのベータのオオカミの役割だった。このようにして著者は、飼育されたオオカミの群れの一員として彼らに受け入れられ、そのことが、野生の狼と接触したいという気持ちまで発展してゆく。
≪私は匂いが大事なことは知っていたが、私が違う衣服を着たり、洗濯したり、違う食物を食べたりすると、ベータのオスオオカミがまた私を咬み始める。そしてそれは、新しい匂いがあっても、それが彼の行動に対し私が違った反応をするとか、私の気持ちが変わったことを意味するのではないと確信するまで続くのだった。≫