●一昨日の日記の「風が吹けば桶屋が儲かる」のところにはてなキーワードのリンクが貼られていて(自動的にそうなる)、それをクリックするとこの諺の意味が書かれている。それによると、「風が吹く」が「桶屋が儲かる」に至るまでのステップは七つあることになっている。そして、それよりさらに下にスクロールしてゆくと、『「風が吹けば桶屋が儲かる」のは0.8%!?』(丸山健夫)というタイトルの確率・統計にかんする新書本の広告が出ている(これは適宜、変わるのだろうけど)。ここから先は、読んでもいないこの本のタイトルを「仮にそのまま信じるとしたら」という但し書きの上でしか成立しないたんなる思いつきを書くことになるので、その点は留意されたい(つまりこの本のタイトルに触発されただけの妄想という以上の根拠をもたないということです)。
つまりこれは、風から桶屋までの七つのステップの間に、桶屋に対する風の影響の度合いはそこまで下がっているということだろう。だから、「桶屋が儲かった」という事実に対する「風」の責任は0.8%しかないということでもある。諺(これは「物語」と言い換えうると思う)を信じるのならば、まるで「風が吹いた」ことが「桶屋が儲かった」ことの原因であるかのように思ってしまうのだけど、実際は、「風が吹いた」ことは「桶屋が儲かった」ことの多くの原因のうちの0.8%を占めるに過ぎない、ということになっている。風は桶屋に対してまったく責任がないとは言えないものの、その責任は微々たるもので、風が自らの責任の重みに思い悩むことなどないのだ、ということになる。これは、因果関係という物語によって世界を把握することの限界を端的に示している。世界はドミノ倒しではないのに、物語はそれがあたかもドミノ倒しであるかのように表象してしまう(あるいは、ドミノ倒しとして世界を表象することが「合理的」であるかのように思ってしまう)。
例えば、「桶屋が儲かった」原因の因果関係をもっともらしく遡行分析してその理由として「風が吹いたからだ」を導き出す言説(桶屋が儲かるに至る「歴史」)は、一見合理的なようでいて、実は世界のあり様をきわめて恣意的にしか言い当てておらず、むしろ「桶屋が儲かったのは運が良かったから(例えば、南に黄色いものを配置したから、とか)」というざっくりした言い方の方がずっと世界のあり様に対して正確であるとさえ言えることになる。
あらゆるものが、他のあらゆるものに対して関係をもち、相互干渉しているということはつまり、ある特定のものが他の特定のものに対して直接的に与えている影響は微々たるものでしかないことを意味する。しかし、物語は因果関係の線的な連鎖としてしか書けないから、このような事実を表現するこができない。だから、世界を注意深く観察し、繊細に表現しようとするならば、物語は放棄される(あるいは、爆破的に果てしなく増殖する)しかなくなる。だけど、実際には物語は決して放棄されない。それは、それが人間の認知の限界にかかわっているからだろう。決してドミノ倒しではない世界を、人間はドミノ倒しとしてしかイメージ(実感、経験)出来ない。これはほとんどどうしようもない壁として現れる。ドミノ倒しではないはずの世界が、あたかもドミノ倒しであるかのように現れてしまうことがあるとすれば、それは一人一人の人間が世界をドミノ倒しとしてしか見られないから、そうであるかのように集団的に振る舞うことで、いわば人工的なドミノ倒し世界が出現してしまうということだろう。だとすれば、「人間を含んだ世界」は、幾分かはドミノ倒し的であるとは言えるのかもしれない。ならば、(一周して)物語にも幾分かは必然性があるということにもなる。だけど、人間は決して物語を卒業できないとしても、世界は、それを置いてきぼりにしてどんどん進んでゆく。
(おそらく、19世紀末から20世紀初頭の「前衛」とは、人間の認知限界を自らの意思と努力――実験や教育や啓蒙――で越えられるという期待とともにあったのだと思う。共産主義というのもそういうことだったのではないか。しかし、それは意志や努力では越えられないのだ、というのが、20世紀という時代によって得られた解答だったのだと思う。そして今は、もし、それを超えられるとしたら、発達した情報技術によって得られる新たな環境と人間との相互作用によってではないか、という希望が生まれはじめている、ということだと思う。それは「物語」を介さない工学的な希望ということになる。しかしそれは、人間が物語を必要としなくなるということではなくて、人は依然として物語に囚われてそののなかを生きるが、その「物語」的把握が、いつの間にかそうではないものへと変換されてしまっているというような、ネットワークによる相互作用を社会的に設計し得るかもしれないという希望を考えられるようになった、いうことだろう。それが本当に希望なのかどうかはまだ分からないと思うけど。)
その時に「わたし」は、人間の側に着くべきかそれとも「世界(あるいは宇宙)」の側に着くべきかという問題は、おそらく偽の問題であろう。「わたし」は幾分かは人間であると同時に、常に幾分かは世界でもある。わたしの意識は、世界を常にドミノ倒しとして捉えているとしても、脳全体は、あるいは身体全体の組成はそうではない。意識が「人間」であり脳が「世界」だとすれば、いま、ここにいる「わたし」はそのままで、人間と世界の重ね描きだと言える。だとすれば、一見、ドミノ倒し的、線的因果関係的に書かれているようにみえる物語のなかにも、世界的、非人間的、相互干渉的な要素は、既に混じり込み、練り込まれているということでもあるはず(文化的な洗練というのは、そのような練り込まれたものであるはず)。そして我々は、そう意識しないうちに、その匂いを嗅ぎつけてもいるはず。考えるな、感じろ、という格言は、その非人間世界の感触を嗅ぎつけろという意味でもあると思う。
●人間が、物事の複雑な相互関係をイメージしようとする時、三次元的な図形をモデルとして思い浮かべることがせいぜいだろう。いや、がんばれば、なんとか四次元空間をイメージするくらいまではいけるかもしれないとは思う。しかし、それ以上を考えるとするとイメージによっては捉えられず、おそらく数学の力を借りるしかなくなるのだろう。数学ができないぼくとしては、こうなったらもう超感覚的第六感を身に付けるしかないのではないかとさえ、最近半ば本気で思っている。実際、「意識」には線的な因果関係しか捉えられないとして、イメージにはもうちょっと複雑なこと(四次元的なことくらいまで)が出来るとして、さらに、イメージ以前の「脳全体」の組成の複雑さを信じるとすれば、イメージよりももうちょっとは複雑なところまで捉えられるんじゃないかという期待がある(まさに「考えるな(イメージするな)、感じろ」の領域だけど)。だがまあこれは、表象の(あるいは「経験」の)成り立たない世界なので、それを検証したり反省したり出来ないし、ましてや他人に(というか、自分にすら)説明のできない、とても危険な領域なのだが。だけど、例えば「作品を制作する」という過程は、感覚(経験)不能な「脳全体の働き」の総体を、感覚(経験)可能なものにまで圧縮するということだとは、普通に言えるんじゃないだろうか。
だから、感覚可能なもの(作品)から感覚可能なものを読み取るだけでは足りなくて、感覚可能なものそれ自体は縮減され記号化されたもの(いわばエンコードされたもの)で、そこから、感覚出来ない「脳の働きの総体」のようなものをデコードする必要がある。ただこの時、デコードはエンコードされたものの正確な反復(同一物の回帰)である必要はない。デコードそのものが、それをデコードする個別の個体(脳)においてその都度新たに出現する「脳の働きの総体」だとも言えるものになる(しかない)。これは、線的な因果関係の物語からそうではないものの匂いを嗅ぎ取るということと同じことだと思う。だからその時、感覚可能なもの――エンコードされたもの――として出てくるものは(いわゆる「純粋芸術」のようなものである必要はなくて)類型的で紋切型であってもまったく構わないということでもあると思う。