2020-02-04

●最近は、毎週月曜にアップされる「ゆっきゅんと絵恋ちゃんのやってこれなんです」を、とてもたのしみにしている。

第21回「逆してあげる状態」ゆっきゅんと絵恋ちゃんのやってこれなんです

https://www.youtube.com/watch?v=ZixqZWEMfCc

この話、すごくよい(↓)。

第16回「クリスマスのアリバイ」

https://www.youtube.com/watch?v=hMsDh4Cjbds

2020-02-03

●『映像研には手を出すな!』、5話は良かった。アニメ内現実とアニメ内虚構との関係やバランスが、こんな感じだったらぼくにも受け入れられる、という感じだった。

それにしても、「金森氏」はなんと優秀なプロデューサーだろうかと思う。オタク系、クリエーター系の人物を描く物語では、プロデューサーは往々にして悪役として登場しがちだと思うのだが---たとえば『げんしけん』のハラグーロとか---ポジティブな意味で(クリエーターに対する批評的なカウンターとして、同時にクリエーターを支える役割として)理想的なプロデューサー像が描かれるのは希なことではないか。

2020-02-01

●RYOZAN PARK巣鴨保坂和志の小説的思考塾vol.8。今回は「描写」について。

とても興味深かったのは、保坂さんが小説における描写を「身振り」や「居ずまい」のようなものだと考えているところだった。今、しゃべりながら、このような身振りをしている。しゃべっている内容が本筋であり、身振りはそれに付随して出てくるものとも言えるが、しかし、身振りがあることによって伝わることがあり、さらに、身振りをすることによってこそ、それにひっぱられて(本筋である)言葉が出てくるということもある。身振りがあることによって、「しゃべる」ということの基底がつくられているともいえる。描写をすることによって、表現すべき何かが出来するための(文の地平における)地がつくられ、表現の発動の準備がなされる。描写についてのこのような考え方を、他ではあまり聞いたことがないが、なるほどと納得するものだった。

そのことと関連があると思うのだが、記述の順番についても語られた。たとえば『勝利』(コンラッド)では次のように書かれる。

《次の日、アルマと呼ばれるあの娘に出会ったとき、彼女は稲妻のようにすばやい視線を彼の方に送った。いとしさをあらわに示したその一瞥は、彼の心に深い印象とひそかな感動を与えた。それは昼食前の、ホテルの庭での出来事で、楽団の女たちが、リハーサルと呼ぶにせよ発声練習と呼ぶにせよ、とにかく音楽室での朝の稽古を終えて、別館の方にぶらぶら戻る途中のことだった。》

ここではまず、アルマによる《稲妻のようにすばやい》印象的な一瞥があったことが示され、後から遅れて、それが起こった状況が語られる。なんということもないようにも思われるが、これはなかなかできることではない、と。通常は、出来事の起こる順番にひっぱられて、ある場面を順番に描出するなかで、場面内の重要な出来事として「印象的な一瞥」を描くが、その場合は往々にしてべたっとした記述となり、印象的な一瞥が際立たなくなる。そうではなく、記述の順番と出来事の順番との関係はけっこう自由に行き来しても大丈夫であり、むしろ出来事の順番を無視しても「思いついた順番」で書いてしまった方が書きたいことが伝わる場合も多い、と。

身振りとしての描写が表現の体勢のようなものをつくり、思いついた順番で書いていくことによって表現の特質のようなものが生じるという考えは、書くことの身体性を重視する保坂さんらしい考えだと新鮮に感じた。また、谷崎の『吉野葛』を例に挙げて、描写と写生文とは違うと言っていたこともまた、身体性の惹起ということとかかわっているように感じられた。物事をいくら詳細に描き込んだとしても、それが視覚像にのみ収斂していき、「身振り」のような形で表現の体勢の準備・惹起(開かれ)につながらない場合もあり得る、ということではないか(ここは多分にぼくの解釈が入っています)。保坂さんが、「描写そのものを読ませる」ような小説に対して割と否定的なのは、詳細な描写が逆に「身振り」の自由度を狭め、抑制する方向に働くこともあるからではないか、と思った。

たとえば、ガルシア=マルケスの描写の「技術」について触れた場面。

サンティアゴ・ナサールの家は、かつて二階建の倉庫だったもので、壁には荒削りの板が使われ、山形のトタンの上では禿鷹の群れが船着き場のごみ屑をじっと狙っていた。それが建てられたのは、河が盛んに利用され、数多くの艀とともにときには豪華船さえもが危険を冒して、海から河口の沼沢地を通り抜け、ここまで遡ってきた頃だった。》(『予告された殺人の記録』)

まず、河に近い家の描写のなかに、船着き場のゴミを狙う《禿鷹の群れ》がモンタージュされ、そこから歴史的な記述へと移行していく。描写のなかに新たな運動の要素(餌を狙う禿鷹)を招き入れ、さらに別の視点(歴史)と接続する。このようなモンタージュは真似る(学ぶ)ことの出来る「技術」であるが(マルケスの文章はかっこよく、そのかっこよさは明確に意図的につくられている)、ここにある「技術」は、描出による対象の明確化の技法であるよりも、記述における注意の移動や、記述の流れの運動性の獲得にかんするものであろう。ここでもまた、「描写は身振りである」という考え方が貫かれているように感じた。何かを引き出すために有効な身振りの手順のようなものとして、マルケスの「身振り」は真似をすることができる、と。

●また、学ぶというか、エクササイズとして、ある作家の描写の構造を、そのまま、自分の身近にあるものの描写へと、対象を置き換えて、書き換えてみることも有効だ、と。たとえばカフカの描写を、現代の風景に置き換えて書き直してみる、というような。これもまた、他者に身体においてなされた「身振り」を、自らの身体において真似して(再現して)みる、ということに近いかもしれない。

●それと、散文には「量」が重要だという話も印象に残った。小説には、はじまりと終わりがあるが、それはどちらも大して重要ではなく、その中間をいかにして充実させて持続させるのかということが重要で、そしてその「中間」を、どれだけ持続できるか、どれだけ(それ自体として面白いものである)記述を重ねられるのか、という、ある程度以上の「量」が必要になってくる、と。

●『カンバセイション・ピース』で、話者の《私》が二階の窓に腰をかけて外を見ていて、その後、階段を降りていってもなお、「視点」は二階に残り続けている場面について。これは、視点の移動というより、視点が身体に「置いて行かれた」感じ(視点が身体からふっと離れて、身体が移動した後も視点がそこに留まった感じ)で、幽体離脱のような感覚に近いのではないかと思った。視点が身体に「置いて行かれてしまった」感じと、この二階の場面の「誰もいない」感じとは、どこかで響いているのではないかと思った。

 

2020-01-31

Netflixに何故かデヴィッド・リンチの短篇があった。『ジャックは一体何をした?』、約17分の作品。出演しているのは、コーヒーを運んでくるウェイトレスの女性以外は、リンチとサルとニワトリのみ。

場所は、鉄道の乗換駅の近くにある警察の取調室だろうか。どうやら事故かなにかで鉄道が全面的に泊まっているようで、外からは汽笛やざわめきが聞こえる。そこで、容疑者であるらしいサルが、刑事であるらしいリンチから、ある(ニワトリをめぐる)情痴殺人についての尋問を受ける。

この作品の肝は、サルの顔に人間の口を貼り付けて、サルにセリフを喋らせているという一点にあるだろう。あと、サルと人間(リンチ)が向かい合って対等に対話することからおこる、スケール的不協和も重要だろう(人間にとってはやや小さくて、サルにとっては大きすぎるという、セットのスケール感も絶妙)。

サルに言葉を喋らせるといって思い出すのはなんといってもルゴーネスの「イスール」という小説だ(ルゴーネスの小説でサルはチンパンジーだが、リンチの映画ではもっと下等で小刻みに動く小さいサルだ)。だが「イスール」において言葉を学ばされるサルのイスールは死の間際まで話すことはせず、その言葉の不在は《イスールが話さないのは話そうとしないからだ》と書かれるように、沈黙は逆説的に彼に豊かな内的性質や意思があることをほのめかしている。

一方、リンチの映画で(やや粗雑な合成によって)人間の---よく喋る---口を貼り付けられた饒舌なサルは、その饒舌さによって返って彼の内部の何も無さを強調しているかのようにみえる。言葉は単に、どこかからやってきて彼の顔に貼り付けられた口が勝手に喋っているもので、彼の動作や立ち振る舞いからは、内的な性質も意思も感じられず、ただ状況にせき立てられて反射的に動いているようにしか見えない。彼の言葉は口から出任せですらなく、言葉がどこか遠くから降りてきて、たまたまその口をついて出てきているだけのように見える。

その動きはまさに下等な獣の動きなのだが、しかしそこに「言葉」が貼り付くことで、その「下等な動物の動き」が人間に近づいてもくる。これは(たとえば「キャッツ」のように)動物を擬人化するのではなく、その逆に、人間を獣化しているかのようだ。獣化され、まさに下等な動物のように動く「ジャック」は、言葉を発することで、それでもけっこう人間のようにみえる。つまり、人間もまた多くの部分で獣とかわらない。ここに、人間と獣とがその境界付近で混じり合う、とても危険なゾーンが開けているように感じられる。

(サルの顔、姿、動きに、人間の口と言葉を強引に接合することは、サルの人間化というよりむしろ、人間のサルへの退行を強く感じさせるように思う。これは、前言語的なレベルでかなり「来る」感じだ。)

人間であろうとサルであろうと変わりはなく、「言葉」はどこか別の場所からやってきて、たまたまそこにある「口」に貼り付く。その時、言葉を喋っている「口」から分離した「顔」の他の部分が、人間も獣も区別出来ないような、境界的なゾーンに突入することで、ある表現性を得る。語れば語るほど、語られる内容(語る口)と、語る者の顔=表現とは乖離していく。分離したままで併走する言葉(内容)と顔(表現)との二つの流れは、擬似的対話(というより一方的な「尋問」)による圧迫の強度に押しつぶされるかのように、ある地点でスパークして、合流し(あるいは決定的に乖離し)、「声+顔=叫び」となる。分離していた言葉=内容と顔=表現が、「叫び」となってぶつかる場面が、この作品のクライマックスだといっていいと思う。

(しかしその前に「歌」の場面がある。リンチの映画に歌が出てくると、前後の脈絡と関係なく、いきなりやたらと幸福感が溢れるのも面白い。)

2020-01-30

●リンク先の「暮らしの手帖」の表紙の絵がすごく良い。マグカップによる知覚(マグカップが知覚する卓上)が表現されている。

それを実現するのが内と外との反転だ。外側が内側に畳み込まれ、内側が外に開く。反転は二重化されている。まず、マグカップの内側と外側とが反転し、さらに、それによってもたらされた「マグカップの知覚」にあらわれるそれぞれのオブジェクトにおいても、内側と外側が反転している(ピッチャーは自らの内部にある水を知覚しており、食パンは食パン自身---あるいはトースター?---を知覚しており、皿は自らの上に置かれた目玉焼きや葉物野菜を知覚している)。そこにあらわれるのは、我々が知る3+1次元の時空間とは別様に構成された時空間だ。それに触れる時、我々も幾分かはマグカップになる。さらに、カップから見られたパンにもなり、皿にもなる。

(おそらく、さらにもう一回反転することで、私は「私の位置」に戻ってくるのだが、その時は既に、私とマグカップ、そして皿との関係は、以前とは別のもの---主体-客体関係とは別のもの---になっている。)

(ピュリズム的な表現の延長線上にありながら、その裏表がくるっと一回、二回とひっくり返っているところが新しい。)

https://twitter.com/kuratechoeigyou/status/1220594609752952832

スクショ(↓)

 

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