●双子のコンストラクション(同じ大きさの二枚の正方形の紙に、まったく同じ切り込みをいれて、その二枚を組み合わせてつくる立体)。一点。おなじものを十の角度から撮った。
●U-NEXTで、黒沢清『勝手にしやがれ!! 強奪計画』を観た。六作つづく「勝手にしやがれ!!」シリーズの一作目で、95年の作品。ワンカットごとに、これをはじめて観た時の興奮を思い出して胸が熱くなる。94年から95年くらいのこの時期に、現在につながる黒沢清の原型が出来たのだと思う。その前の『地獄の警備員』までの感じとは違っている。当時、その飛躍を、ワンカット、ワンカットから見いだして、興奮していたのだと思う。この変化=飛躍は、(企画や製作において制約の多い)Vシネマの量産によってもたらされたものなのだろうから、黒沢清にとっては一種の「妥協」として意識されていかのかもしれない。妥協ともいえるものが結果として飛躍となる。与えられた(制約の多い)条件を受け入れることによって、逆にそれが飛躍へと繋がる、という事実からも、ぼくは興奮や希望を与えられていた。
(そして黒沢清は、2000年くらいまで、驚くべき飛躍をしつづける。)
久々に観て、國村隼がすごく良いのに驚いた。この時、いくつくらいなのだろうか(調べたら55年生まれだから40歳だ)。おそらくぼくは、國村隼、菅田俊、大杉漣を、この映画ではじめて観た。この時、名前も知らずに印象に残った---この時点では---無名の俳優たちを、この後、何度も何度も繰り返し観ることになる。
(調べたら、國村隼は『ブラック・レイン』や『トカレフ』に出ているから、はじめてということはないか。ただ、印象としては「はじめて」という感じだったはず。)
あと、クレジットに「助監督 青山真治」とあった。『Helpless』はこの次の年につくられるんだった。『教科書にないッ!』は同じ95年だ。
(青山真治の『教科書にないッ』はもう観られないのか。VHSで一回か二回観たことがあるだけだ。)
●日々、たくさんの文章を読んでいて(自分で選んだわけではない、定められたもの)、この生活はあと一ヶ月以上続くと思われるのだが、読めば読むほど、(読んでいない時に)頭のなかで言葉がなくなっていく感じ。頭のなかが(無音であるというような意味で)無言の状態になる。
●ドローイング(7)。紙(B5)にボールペン。平面(紙)をもとに立体化したもの(双子のコンストラクション)を、再び、輪郭的に平面化する。
(紙がなくなってしまったので、便箋の裏に描いた。サイズが小さくなった。)
●ドローイング(6)。紙(B5)に、色鉛筆、蛍光マーカー、ボールペン。平面(紙)をもとに立体化したもの(双子のコンストラクション)を、再び、輪郭的に平面化する。
(紙がなくなってしまったので、便箋の裏に描いた。サイズが小さくなった。)