●歴史的な、と言っていいと思われるバーネット・ニューマン展が終わる。結局、一度しか観に行けなかったけど、今、佐倉ではニューマンの絵が展示されているのだ、ということは、常に心のどこかにひっかかっていた。それが終わる。だからといって、ニューマンの作品が消えてしまうわけではないのだが。
ぼくにとってニューマンの作品は一種のトラウマのようなものとしてある。ぼくとニューマンの作品との関係は、学生時代に非常に親密かつ濃厚であったけど、その後、距離をとって、とはいえ、その存在はずっと気にかかっていた。でも、焼けぽっくいに火がつく、ということはまずないだろう、という感じ。
●この機会に、東京新聞に掲載されたニューマン展のレビューを、ここにも掲載します。同じく、東京新聞に載った、山方伸さん(「ながめる まなざすDivision-2」アップフィールドギャラリー 6/4〜6/22)と福居伸宏さん(「アステリズム」小山登美夫ギャラリー 8/7〜9/4)の展覧会のレビューも、一緒にアップします。

バーネット・ニューマン(川村記念美術館)


バーネット・ニューマン(1905−1970)の日本で初めての個展。ニューマンは、ニューヨーク生まれの戦後アメリカの画家で、ジップと呼ばれる、線でもストライプでもない独自の「色の帯」を用いて、彼以前にはあり得なかった新しい絵画のあり方を示した。小規模な展示だが、作品は粒ぞろいである。


「存在せよ 1」という作品では、赤く均一に塗られたカンバスのちょうど中心に、細く白いジップが縦に引かれている。ジップは一見、画面を左右二つに分割しているようにも見えるが、同時に、この細い帯によってこそ、二つの部分が結びつけられているようにも見える。たんに、均一で茫洋とした拡がりでしかなかったであろう赤い平面は、夜空を引き裂く稲光のような白く細い帯の出現によって枠付けられると共に活気づけられ、生き生きとした「赤い拡がり」として立ち上がる。そしてまた、赤い拡がりの生き生きした現れは、中心にある白い帯に、それがたった今そこに塗り込められた(生まれた)かのような新鮮さを与える。白い帯が赤い拡がりを活気づけ、赤の活気が白の鮮度を持続させる。


ニワトリが先か卵が先か。どちらが主でも従でもなく、相互に規定し合い、活気づけ合う「拡がり」と「帯」は、どちらが先とは言えず、ほぼ同時に、しかし決してゼロになることはない瞬間的なズレを伴って明滅するように現れ、一枚の絵画を一挙に存在させる。それはまるで、世界が生まれた始原の瞬間が、生まれ出る力や衝撃を保持したまま、永遠にそこに封印されているかのようだ。


晩年の大作「アンナの光」では、ジップは後から塗られるのではなく、カンバスの塗り残しとしてある。あらかじめ存在していたカンバスの地が、オレンジ色が塗布され、塗り残されることで結果として色の帯のようにあらわれる。色を塗ることが塗られていない部分の意味をも変える。本作は大作であるから、画面の構成を眺めると言うより、色彩そのものに体ごと包まれる。だが、フレーム全体に対してオレンジの拡がりは左にズレていて(左右の塗り残しの面積が異なる)、そのズレは観ている間じゅうどうしてもどこかで気にかかっている。しかし実はこの気がかり(ズレ)こそが、ジップの効果と同様、オレンジの色彩を活気づけ、その単色の拡がりを新鮮なものとしつづけているようだ。

山方伸(「ながめる まなざす Division-2」アップフィールドギャラリー)


写真は、全てを等しく「見えるもの」として一元化してしまう。山方伸の作品を見ることで感じるショックは、まずは、写真という装置がもっているこのような性質を露わにしていることによる。


山方伸の写真には何が写っているか。まずは坂道や斜面、土地の高低差、遠くにそびえる山などの地形であり、地形の上に建つ、家や小屋、電柱、石垣、塀、柵、杭といった人工的な建築物である。そして、木々や畑の作物、雑草など、その表面を覆う植物も見られる。家の屋根や壁には影が射し、老朽化した建物には塗料の剥離跡や汚れも見える。


山や斜面は何百年、何千年と、ほぼその姿でありつづけている。対して、壁に射している影は数時間もすれば消えてしまう。建物や庭先の木は、何十年という単位でそこにあり続けるが、徐々に老朽化したり、成長したりする。雑草や木々の葉は季節ごとに変化する。そびえる山、斜面や石垣、家の壁、トタンで組まれた小屋、板で組まれた柵などは、水平な視線に対してそれを遮るように立ち上がっているものたちだが、その成り立ちや堅牢さや耐用年数は皆異なる。


実際にその場所にいてそれを見ている人にとっては、歴史性も重要度も意味も関心の度合いもそれぞれに違うものたちが、モノクロ写真では黒から白までのトーンに一元的に翻訳され、全て等しく「見えるもの」として並列される。感光紙には絵画のようなマチエールの違いもない。写真は、人に対しても物(世界)に対しても無関心で、ただ自らの光学-化学的メカニズムに忠実に世界を視覚化する。


山方伸は写真という非人情のメカニズムに忠実であろうとする。だがそれは写真装置が自己主張するための作品ではないし、視覚の専制的優位を主張するものでもない。むしろ真逆だ。あらゆる物事を一元化するからこそ、世界の無数の表情を同じ強さでひしめくようにフレーム内に共存させ得る媒体となる。眼差しはそこから、地球規模での造山運動、人工物に流れる時間、瞬く間に移ろう影などの異なるリズムやスケールの出来事が、この瞬間、この世界で同時に進行している様を感知し、撃たれる。

福居伸宏(「アステリズム」小山登美夫ギャラリー)


身近にあって、よく知っているはずなのに、はじめて出会ったかのように目の前に現れてくるもの。逆に、知らないはずなのに、どこかで見たことがあるかのように現れるもの。親しいのによそよそしい、よそよそしいのに親しい。福居伸宏の撮る風景は、この二つの感覚が行き来する、その振動のなかから立ち上がる。


真夜中の都市が、そこにある光源だけによって撮影されている。曇天の雲が、都市の照明を反射して再び地上に返す。その無機質で柔らかい光が、人工的な建造物を照らす。皆が知るありふれた光景だが、そこには人がまったく写っていない。人工の光で浮かび上がる真夜中の無人の都市は、風景自身が自ら発光しているような満遍ない光をまとっている。まるで人間ではないものによって見られた像であるかのようだ。実際それは、都市が自分自身のみを光源として可視化した自画像であり、その薄明かりの感触は、人が想像し恐怖する夜の暗さとは異質の、無機質な「真夜中の薄明るさ」と言うべき独自の質感をもつ。


デジタルカメラは、その薄明るさから、詳細で密度のある像を定着させる。構図が広くとられ、画面の隅々まで均質にピントが合わされた風景は、近寄ると驚くほど細かいところまでよく見える。ぼわっと広がる鈍い光の感触とは食い違うみっしりと密度のある細部に、眼は誘われ、次第に高揚し、切りなく細部を凝視せずにはいられなくなる。人の不在や光の冷たさと相反して、そこは確かに自分たちが存在する世界と同等な密度が感じられる。表情や感触が強く刻まれることで、細部がフレームという単位を越えて混じり合い、頭のなかで再び都市が構成し直されるかのようだ。


ありふれた風景の見慣れない姿を見せるだけでなく、確かに見ているはずなのに忘れていた何かに再会させてくれるという感触が福居の作品にはある。それは写真の像がただ見られるためのもので、例えば前から車が来たら避けるという配慮や注意から離れて風景を吟味可能にすることと関係がある。見ることへの特化と人の不在や光の異様さが、見る人の関心を日常や社会的関係から離脱させ、日々の忙しさや気がかりからこぼれ落ちていた記憶までが発掘され、眼差しはそれと再会する。