2019-03-06

●『それから』(ホン・サンス)DVDで観た。ホン・サンス的と言うしかないような、絶妙に居心地の悪い(気まずい)空気を醸し出していて、どう受け止めてよいのか分からず、うーんとうなりながら所々苦笑、みたいな感じ。それはいつものホン・サンスの感じであり、ホン・サンスの映画はどれも皆同じようなものだとも言えるのに、しかしその都度その都度ちゃんと生々しく居心地が悪いので慣れることがない。慣れることがないから、飽きることがない。

時間や登場人物の同一性の微妙な混乱(特に、冒頭からしばらくの間は、カットとカットがどうつながっているのか初見ではまず分からないようなつなぎ方をしている)が、おそらく「慣れない」感じの原因の一つでもあるだろう。後から考えれば、ごく普通に現在時と回想がモンタージュされていると解釈出来るのだけど、最初にそれを観る時には何が起こっているのかよく分からなくて混乱する。この作品に限らず、ホン・サンスのナラティブにおいては多くの場合で時系列の混乱が重要なのだけど、その混乱のさせ方は作品によってかなり違っていて、「時系列の混乱のさせ方」の予想のつかなさ---その自在さ---が、ホン・サンスがいつもホン・サンス的であるのに、その都度常に新鮮であることと関係があると思う。

『それから』においては、最初の混乱は、物語がしばらく続くと解消される。そのことで、混乱を混乱として受け止めていた時の経験のレイヤーと、混乱していたものの謎が解けて事の成り行きを理解した後に事後的に構成される経験のレイヤーとが生まれる。

『それから』の最後の場面でも、最初は、観客はここで何が起こっているのか(というか、今観ている場面を物語のどの位置に配置すればよいのか)分からない。分からないことによる緊張は、場面が進んでいくことで謎が解けて、緩和される。謎が解かれることで、謎を謎として感じて緊張していた時間に対する、事後的なまなざしが発生する。そしてそれと同時に、この「最後に置かれた場面」によって、『それから』が語る物語に対する事後的な視点もまた生まれることになる。

だけど、一つ一つの場面でその都度生じていた「絶妙な居心地の悪さ」は、それらの出来事をひとまとめにして「過去の出来事」とするような事後的な視点の発生によって解消されるわけではない。むしろそれによって、もう一つ新たに「気まずさ」が追加されるように思う。

(最後の場面での、男の女に対する---そして過去に対する---妙な距離感は何なのか。本当に女のことを「忘れていたのか」疑わしいと感じられてしまうような男の不自然な態度が、男が語る「事の顛末」が本当に事実なのか疑わしいという疑念を抱かせ、作品の幕切れをなんとも煮え切らないものにしているように思われる。そしてこの「煮え切らなさ」こそが、ホン・サンスを常に新鮮にしているものなのではないかと思う。)

●しかし本当にそうなのか。ホン・サンスの映画はけっこう観ているはずなのだけど、ホン・サンスの何がどう面白いのかということについて、その核心がつかめている感じが未だにない。面白いと感じるのに、なぜ面白いのかよく分からない。

●タクシーのなかで夜の雪を見る場面がすばらしかった。

 

2019-03-05

●『二百年の子供』では、大江健三郎の小説でいつも「ひかり」とか「あかり」と名付けられている長男が「真木」と名付けられており、いつも「真木」と名付けられている長女が「あかり」と名付けられているので、読んでいてどちらがどちらなのかを何度も混乱してしまう。

(そしてこの混乱が、この小説で一番面白いかもしれない。)

大江健三郎の小説において「未来(「わたし」が死んだ後の「この世界」)」の感触がリアルであるのは、長男の存在があるからではないか。自立することのできない(生存するために常に他者の援助を必要とする)長男が存在することによって、作家にとって「わたしの死後」は、長男が、(長男を援助する)わたしがいなくなった世界で生きることになるということを意味する。だから、「わたしの死」が問題となる時に、自動的に「わたしの死後のこの世界」の問題が必然的にくっついてくることになる。「わたしの死」の問題と「わたしの死後のこの世界」の問題が、長男を媒介とすることで絡み合って切り離せなくなる。わたしが自分の死を意識する時には必ず、わたしのいなくなった後も持続しているこの世界が(そのような世界に存在する長男を媒介として)意識されることになる。

(逆に言えば、たとえば長男と長女との間のパートナーシップ---それは「わたし」の死後に長男の生を支えることになるはずの重要な関係だ---が描かれる時に、そこに「わたしの死」の気配が混じり込むということでもある。つまり、長男と長女のパートナーシップを書いている「わたし」の視線には幾分か死の気配があり、それは「死後からの視線」を感じさせる。長男と長女との関係を見る時、そこに「わたし」は「わたしの死後(わたしのいなくなったこの世界)」のありようを見てもいる。)

たとえ、実際に描かれる未来像にあまりリアリティが感じられないとしても、そのようなことから「未来(わたしがいなくなった後のこの世界)」の存在の感触が小説のなかに織り込まれるのではないか。それを読むことを通じて読者もまた、自分の死後としての「未来」を意識することになる。

●おお、すごい。『霊的ボリシェヴィキ』BD&DVD化決定!(キングレコード映像制作部)。何度も観返したい。

https://twitter.com/i/web/status/1101771807688806400

霊的ボリシェヴィキ』の感想。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20180222

2019-03-04

 

●お知らせ。325日に、京都で、「虚構世界はなぜ必要か?」刊行記念のトークイベントをやります。ゲストは西川アサキさんです。

https://twitter.com/100000t_A/status/1102078968713293825

場所は「Bonjour! 現代文明」です。

http://bongenbun.com/

●アニメ『ペンギン・ハイウェイ』をDVDで観た。なんというか、メーテル的な、「私はあなたの少年の日の心の中にいた青春の幻影」的な。いまどき、照れもなくひねりもなく、どストレートに、これを、ここまで堂々とやりきってしまうのはすごいな、と。観ている方が恥ずかしくなってしまう感じを突っ切っていくほどの照れのなさというか。最初の方はいろいろ鼻につく感じもあったのだけど---再生を中断しようかと何度か思ったのだけど---中途半端に屈折をみせることもなく、あまりに堂々と正面突破しにきているので---アニメとしてのクオリティの高さもあって---結局は押し切られてしまった。これを手放しで「すばらしい」と言うのには躊躇があり、敗北感のようなものもあるのだが。

とはいえ、この作品に「押し切られた」のは、堂々とした紋切り型に押し切られたというよりも、アニメとしてのクオリティの高さに押し切られたという感じだと思う。だが、たとえクオリティが高いとしても、この「照れのないストレートさ」がなければ、「このお話」を最後まで観られなかったかもしれない。

(こういう保留---いいわけ---を書くのは、「観ている側」の照れの問題かもしれない。ペンギンかわいいし、「お姉さん」には憧れるよね、と素直に言っていればいいのかもしれない。こんなことを書かずにいられない時点で「負け」ているのかもしれない。)

(妹が、「お母さんが死んじゃう」と言ってくるシーンは、とてもよいシーンだった。)

(主人公が、最初に軽く嫌な感じの印象で登場して、そのうちだんだん馴染んで気にならなくなって、最後にはしっかり感情移入させられている、という展開にもっていくのは、「成長」を描く物語のキャラクター造形の典型的な形なのかも。対して、初期宮崎駿のキャラクターは---レナとコナンにしろ、シータとバズーにしろ---観客に最初から無条件に好意を抱かせるようにつくられていて、はじめから完璧にいい奴だからいきなり直に作品世界に入り込めるが、故に、彼女や彼らは「成長」はしない。この割り切りは実は当時としては新しかったのかも。)

 

 

2019-03-03

●VECTIONのメンバーで、成蹊大学に「人工知能学会 金融情報学研究会」に聴講に行った。

●文喫の「エクリ」のイベントには、個人としてだけでなく、VECTIONでチームとしても参加していて(VECTIONのテキストはまだ発表されていないが、近いうちにエクリに発表される予定)、イベントに合わせて「VECTIONハンドタオル」を作ってみた。原画をぼくが作って、掬矢吉水さんがデザインした。

http://ekrits.jp/roppongi/?fbclid=IwAR3kTdwHAUf2iCgNT_VBkySmTS_36PBjTIhI774plIn9bCoyD5erUlC_fO4

 

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2019-02-28

●Huluで、予備知識もなく、なんとなく『宇宙をかける少女』というアニメ(2009年、サンライズの作品)の一話目を観てみたのだけど、ちょっと面白かった(時々、気まぐれに未知のものを観てみるのだけど、そうそう「ひっかかり」のあるものに出会えるわけではない)。清々しいくらいに「あからさまなオタク受け狙い」な要素---隠喩的下ネタ連発とか---が満載なところに、思わず顔がほころんでしまう、というくらいの感じだが。

●しばらく全く使っていなくて忘れていたのだけど、ツタヤディスカスならば、『野のなななのか』も『この空の花 -長岡花火物語』もDVDをレンタルできるということに気づいた。こういうものの常だけど、しばらく使っていないとパスワードを忘れてしまうし、どのメールアドレスで登録したのかも忘れてしまうので、手続きに少し手間取った。