2019-10-07

YouTubeに、筒井康隆の有名な短編小説を原作とした「熊の木本線」というドラマがアップされていて(石田純一主演の、かなり古いドラマだ)、ぼくは原作を読んでいないので、どんな話なのだろうと思って観てみた。奇妙な話というよりも、文学というものの典型のような話だと思った。

「真理」というものが信じられ、しかし真理は、真理であるからこそ忌避されている。そのような信仰を共有した集団がある。そこに、外から、その信仰とは無縁の、無知の者がやってきて、無知であるが故に(それとは知らずに)まったく偶然に、「真理」を口にしてしまう。「真理」は思わぬ回路からの事故としてやってくる。偶然にも口にされてしまった「真理」によって、その集団はいわば存在論的に凍りつく。

《ぼくが真実を口にすると ほとんど世界を凍らせるだらうという妄想によって ぼくは廃人であるさうだ》。ただこの話では、視点は、災厄として「真理」を受け取る集団にではなく、「無知の者」の側にある。観客も主人公ももはや「真理」など信じてはいなくて、「真理」を信仰する人たちは、忘れ去られ、閉ざされた、過去の側に存在する。だから本当ならば、それを口にしてしまったとしても、その人にとっては「真理」など意味がないはずだ。

しかしそうではなく、この物語は、一度は忘れた(抑圧した)はずの「真理」が、それを偶然に口にしてしまうという形で回帰してくるという話だと言える。つまり、偶然口にしたのではなく、本当は「真理」があることを知っていた。今でも「真理」を信仰しているが、それは抑圧されている。無知の者は本当は無知ではなく、だから、「真理」が口から出ることによって脅かされるのは、信仰を共有する集団ではなく、それを忘れたはずなのに口にしてしまった者の方なのだ。

この話にあるのは、そのような、ちょっとベタすぎるような精神分析的構造だろう。

(「真理」に意味はない。ただの呪文であり、それを口にした者には真理の意味は分からない。ただ「真理がある」という事実が「真理」として返ってくる。)

これでは単純すぎるというか、ベタすぎるように感じるのだが、しかしそれでも、このような構造があると、その物語には一定の力があるように感じられるというのが面白い。

 

 

2019-10-05

(にわかの思いつき程度のメモ)

アイドルにとってまず重要なのは、キャラでも、ルックスでも、スキルでも、コンセプトでもなく、曲の良さと、曲と声(歌唱法)とのマッチングで、それ以外の要素(キャラ、ルックス、スキル、コンセプト、あるいはパフォーマンス)は、あくまで基盤としてそれがあった上で、その上にのってくるものなのではないか。あと、(実年齢とは関係なく)「大人じゃない感」か。

だからアイドルとはあくまで音楽の媒体であり、ポピュラー音楽の一つの形式だといえるのではないか。

●音楽の形式としてのアイドルとは、先鋭的なもの、尖ったもの、新奇なもの、あるいは高度に洗練されたもの、が、「特別に高いスキルをもっているというわけではない若い女性」という依り代の上に降ろされることで、緩さや円みや隙がつくりだされる形式化の一つであり、それによって、そこに触れるための敷居を低くするという作用をもつものなのではないか。古い言葉で言えば、それはアバンギャルドキッチュ化の一種であるとも言える。

(だがここで、「特別に高いスキルをもっているわけではない」という言い方は必ずしも正確ではない。アイドルには、アイドルという形式における洗練があり、アイドルという形式におけるスキルの高度化がある。たとえばハロープロジェクトなど。)

あくまで「敷居を低くする」であり、ポピュラリティをもたせるということではない(アイドルという形式は現代ではサブカルチャーでありアングラ---地下アイドル---ですらある)

(これはやはり、日本的ガラパゴス的な現象なのだろう。たとえば韓国のアイドルはあくまで国際標準を狙っているようにみえるが---ビルボードチャートで一位となった男性アイドルBTSなど---日本は基本としてドメスティックであろう。ドメスティックであることの奇妙なありようが海外の人にうける、ということはあるとしても。)

その奇妙なおもしろさ。しかし、そういうものを、諸手をあげて賞賛してよいのかどうか、躊躇がないわけではない。とりわけ、それのメディウムがなぜ「若い女性」でなければならないのかという点で疑問がもたれるのは当然だろう(最近では、必ずしも「若い女性」である必要はないが---たとえば男性であっても---若い女性の形をしている」必要はあるようだ)。女性アイドルと男性アイドルとではかなり異質の文化であり、対称的ではないようだ。

(たとえば、女性アイドルに対する、女性ファンの占める割合の高さ、など。)

●ある音楽の形式が、ある特定の女性(あるいは女性グループ)を依り代とすることで、形式が属人化するという傾向もあるように思われる。ある形式がある人物を依り代とする時、ファンが推すのはまずその人であり、次にその人に降りた形式であるように思われる。ファンは、あくまで「人」を推すことを通じて、形式を受け取る。だが、それがたんなるキャラ化と異なるのは、アイドルは音楽のための依り代であり、「曲が良い」ということがまず前提とされているという点があるからではないか。

(あるいは形式)は、アイドル自身がつくったものでも、選んだものでもなく、大人から与えられ、つまり「大人にやらされている」ものだ。まず最初に、「先鋭的なもの、尖ったもの、新奇なもの、高度に洗練されたもの」、あるいは「資本」を持った大人(主体)がいて、アイドルはその大人=主体の依り代となる。

そこで「やらされているもの」こそが、そのアイドルの像の(あるいは評価の)基盤を形作っている、といえる。ここには近代的な意味での主体性はない。しかし、やらされていることを「やっている」のは他ならぬその人であり、それをやらされていれば誰でも同じということにはならない。他ならぬ「その人」が「それ」をやらされているということが重要であり、依り代は透明な媒体ではない。

依り代の、依り代としての質が、「やらされる」形をもつことで顕在化される。アイドル本人の「主体性」を考えるのならば、自ら進んで他者の表現の媒体となることで、自らの媒体としての性質を顕在化しようとする、ということになるのか。

 

2019-10-04

●アイドルは、掘っていくと(掘るといってもYouTubeでだが)奥が深い。

Negicco / 圧倒的なスタイル 2008

https://www.youtube.com/watch?v=1gwe5yzrG3Q

Tomato n'Pine - キャプテンは君だ! 2010

https://www.youtube.com/watch?v=YXQvhgOVrmU

https://www.youtube.com/watch?v=i_-f4R2RmOE

Especia「くるかな」 2014

https://www.youtube.com/watch?v=HQz4GIOB8gg

tengal6 (現lyrical school)- tengal6  2010

https://www.youtube.com/watch?v=nKUQQrodaX0

伊藤万理華 まりっか’17  2015

https://www.youtube.com/watch?v=e0MHpLsXRPM

リトル☆レンズ スパイスィ→カレー  2009

https://www.youtube.com/watch?v=dhh7NpTbW4I

●(吉田豪の話で聞いていた)「ヌキ天」でのNegiccoの六週分の動画がYouTubeにあって、すべて観てしまった。

091014 ヌキ天 Negicco 総集編 特典映像あり

https://www.youtube.com/watch?v=8mqj5wZSiX8

090722ヌキ天Negicco6週目

https://www.youtube.com/watch?v=b_Xa-u3A6eE

https://www.youtube.com/watch?v=QLkAE56OGtI

2019-10-02

●お知らせ。聖蹟桜ヶ丘のキノコヤで井上実展が開催されます。期間は、1012日から121日まで。

井上実展@キノコヤ

https://www.facebook.com/events/570210896849472/

展示の初日、1012()に、井上実さんとぼくとでオープニングイベントとしてトークを行います。開始は1830分から。

アーティストトーク 井上実×古谷利裕(井上実展オープニングイベント)

https://www.facebook.com/events/396000668015057/

井上実HP

https://inoueminoru.wixsite.com/kaiga?fbclid=IwAR2kuTKPzbXTsAJOKKUImhMBh2Kr8-wyu8DlOD9LeJ9NvCfLODwecZv64W4

(この件をお引き受けした後に気づいたのだが、保坂さんの「小説的思考塾vol.6」の日と重なってしまっていた……。)

●以下の引用は、道元正法眼蔵』の「現成公案」から。まるで、「(図と地の)地にはスケールがない」というような底の無さを示している、井上実の作品について解説しているかのようだ、とぼくは思う。玉城康四郎の現代語訳による。

《魚が水を行くとき、いくら泳いでも水に果てしがなく、鳥が空をとぶとき、いくらとんでも空に限りがない。しかしながら、魚も鳥も、いまだかつて水や空を離れたことがない。働きが大きいときは、使い方も大きいし、働きが小さいときは、使い方も小さい。》

《このようにして、そのときそのときに究極を尽くしており、その所その所に徹底しているのである。もし鳥が空を離れるとたちまち死んでしまうし、魚が水を出ればたちまち命はない。したがって、水がそのまま命であり、空がそのまま命であることが知られよう。》

《それにもかかわらず、水を究め、空を究めてのちに、水や空を行こうとする鳥・魚があるとしたら、水にも空にも、道を得ることも所を得ることもできない。そうではなく、この所を得れば、また、その道を得れば、この日常現実がそのまま永遠の真実となる。この道、この所というのは、大でもなく、小でもなく、自分でもなく、他のものでもなく、初めよりあるのでもなく、いま現れるのでもないから、まさにそのようにあるのである。》

《人が悟りを得るのは、たとえていえば、水に月がやどるようなものである。月もぬれず、水もやぶれない。悟りも月も、広く大きな光ではあるが、小さな器の水にもやどる。月全体も大空も、草の露にもかげをおとし、一滴の水にもうつる。悟りが人をやぶらないことは、月が水をうがたないようなものである。人が悟りをさまたげないことは、一滴の露が天空の月をそのままやどすようなものである。》

《たとえば舟にのって、島も見えない海のなかに出て四方を見廻すと、ただ円く見えるだけである。どこにもちがった景色は見えない。しかし実際は、大海が円いというのではない。また四角なのでもない。眼に見えない海の性質というのはとても尽くすことはできない。一水四見といって、同じ水でも、人間にとっては水に見えるが、魚には宮殿であり、天人には瓔珞(玉の首かざり)であり、餓鬼には濃血である。海の場合も、ただ眼の届くかぎりが、しばらく円く見えるだけである。》

《あらゆるものの在り方を学ぶには、円い四角いと見えるほかに、海や山の性質は限りがなく、さまざまな世界のあることを知るべきである。自分の身の廻りのことだけではない、足下の一滴の水もそうであると知らねばならぬ。》