2019-12-28

●映画を観られるようになるためのリハビリ。『稲妻』(成瀬巳喜男)をDVDで観た。すばらしかった。また、少しずつ映画が好きになってきている感じ。

(ぼくはこの映画が大好きで、成瀬のなかでは『流れる』と並んで一、二を争うくらいで、冒頭からあらゆるカット、あらゆるモンタージュ、あらゆる空間設計が素晴らしいと思うのだけど、特に、終盤、家族のごたごたに嫌気がさした高峰秀子が、衝動的に、郊外---世田谷---で一人で住むために二階の部屋を借りるのだけど、この二階の部屋の空間がほんとうにすばらしい。)

(この映画には、独身の女性が下宿する二階の部屋が三つでてくるのだが、そのどれもが素晴らしい。)

2019-12-27

●引用、メモ。小鷹研理さんのツイッターから。

https://twitter.com/kenrikodaka/status/1209711630239404033

《M1のぺこぱのつっこみを見てて、真っ先に連想したのが、なだぎのディラン・マッケイ。そういえば、最近見ていいなと思った、涼宮ハルヒキョンの延々と続く自分語りにも、ディラン・マッケイを感じてた。過剰な「自分語り」「自分ツッコミ」は、自らを、語る主体から語られる客体へと反転させる。》

《ところで、自らの語りの殻の中に閉じこもるような自己愛的・自己防衛的な所作に当然付帯するであろう、くどくどとしたイヤらしさみたいなものが、彼らの場合、なぜ、あれほどまでに解毒されているのだろう。ここには、一人称と三人称との間の、例ののっぴきならない位相関係の反映があるように思う。》

《世界(他者)と自己の間に生じる摩擦を、過剰な語りによって不断に調停していくことで、自らを他者化し、かえって難局を突破していくようなリアリティーを、とりあえず、ここではディラン・マッケイパースペクティブ命名しておこう。来年の授業とかで、少し掘り下げて考えてみたい。》

(小鷹さんが書く通り、ぺこぱの特徴は、ナルシシズム云々にあるのではなく、ボケを否定しないツッコミにあるように思う。ボケ---非常時---に対して、まず「とまどい」として脊髄反射的に否定的反応を示してしまうのだが、まさにその反応が発動している最中にある種の「思い直し」が生じて、否定が反転して肯定---受け入れ---に変化する。否定が肯定へと折り返す。この、肯定への変化---受容的巻き込み---が、否定的反応が起きている時間の幅のなかで起こるところが面白い。そしてそのような折り返しを可能にする「時間の幅」は、起きている状況を自分に対して再説明するかのような「反省的自己記述」(による結論の先延ばし)によって確保されているようにみえる。)

https://twitter.com/i/web/status/1210437625447772166

《「笑い」も「痛み」も「恐怖」も予期と応答のズレに対する反応の三つの異なる位相であると考える。笑いは、ズレを想定内のものに書き換え、痛みと恐怖は、行動によってズレを解消するように働きかける。そのようなかたちで、いずれも自我の安定的な運用に寄与している。対して、僕が考えたい位相は、》

《笑いの予感、痛みの予感、恐怖の予感の圏域に留まる、まだ明確にラベリングされない無意識の震えのことであり、ズレによって不安定化する自己に対して、即時的な処方箋を与えることなく、不安定な状態を維持したまま、むしろ不安定性を利用して、じわりじわりと自己の変態へと誘っていくようなもの。》

《(しばし「ボディジェクト指向」における痛みの予感について考えている。)》

https://twilog.org/kenrikodaka/hashtags-R4

《以下、「痛いと叫ぶべきときに笑った患者、ミッキー」 p66-69 (『脳の中の天使』V.S.ラマチャンドラン)》

《「ジョークやユーモラスな出来事はみな、次のような形式にしたがっている。あなたはまず、段階を追ってストーリーを語り、聞き手をしだいにまちがった予想に導いていく。そして最後に予想外のひねりをもちこみ、そこまでの内容をそっくり再解釈せざるをえなくして、落ちをつける。」》

《「(中略)ふくらんだ予想がしぼむことは必要条件だが、十分条件ではない。もう一つ、新たな解釈がささいなことでなくてはならないという、重要な要素がある。(中略)道を歩き始めた医学部の学部長が、目的地に着く前にバナナの皮ですべってころんだとする。」》

《「もし頭がぱっくり割れて血が噴き出したら、あなたは助けに駆け寄り、救急車を呼ぶだろう。笑いはしない。だがもし、彼がけがをせずに起き上がり、高価なズボンについたバナナの汚れをふきとったら、わっとわらいだすだろう。これがドタバタ喜劇と呼ばれるものだ。」》

《「重要な違いは、一つめの場合には緊急の対処を要請する本物の警報があったという点である。二つめは、まちがい警報で、あなたは笑うことによって、近くにいる仲間に急いで助けに駆け寄って資源を浪費しなくてよいという情報を伝える。笑いは「だいじょうぶだ」という自然の信号なのである。」》

《「説明がつかないのは、出来事全体に、わずかにシャーデンフロイデ(他人の不幸や災難を喜ぶ感情)の傾向が伴っている点である。」》

《痛みの感覚は側頭葉の奥に畳み込まれた島で処理された後、前頭葉の前部帯状回に送られる。痛みの<不快さ>が生じるのはこの段階。『痛さを笑う』シンドロームの患者はこの経路に障害を持つ。つまり「島は基本的な痛みの感覚をもたらすが、それが恐怖につながらないという状態になる。」》

《「(中略)したがってそこには笑いの二つの重要な構成要素がある。警報を受けたという(島からの)切迫した明白な指示と、「たいしたことではない」という(前部帯状回の沈黙による)続報である。よって患者は、抑えきれない笑いを起こす。」》

《くすぐりも同じ構造。いっぱいに膨らんだ危険の予期とその解除。「牙や爪が肋骨に食い込んで命とりになるかと思ったが、それは波のようにくねるただの指だった。そして子どもは笑う。」》

《「このまちがい警報説はドタバタ喜劇を説明づける。(中略)まちがって想起された危険の予想をしぼませることによって、想像上の危険性に資源を浪費してしまう結果を回避する役割を果たしているのかもしれない。」》

《「ユーモアは、究極の危険性 --- 私たちのような自己意識のある生きものが、つねにかかえている死の恐怖---との無駄な闘いを防止するための効果的な対策として役立っているとさえ言えるかもしれない。」》

《最後に、「間違い警報説」による「挨拶におけるほほえみ」の解釈。》

《「類人猿は、ほかの類人猿が近づいてくると、、潜在的に危険なよそものが近づいてきたとみなすため、顔をしかめて犬歯をむきだし、戦う用意があることを示す。これがさらに進化して、反撃してくる可能性のある侵入者に警告を発する攻撃的なしぐさとして、儀式化された脅しの表情となった。」》

《「しかし近づいてきた相手が友達だとわかった場合は、その脅しの表情が途中でとまり、中途半端なしかめ面が慰撫と親しみの表情となる。この場合も、潜在的な脅し(攻撃)がだしぬけに中止される。これは笑いの必須要素である。ほほえみに笑いと同じ主観的感情がともなうのは不思議ではない。」》

2019-12-26

吉田豪の記事で、チックスチックスというグループが存在したことを知る。全然知らなかった。

渋谷系を掘り下げる Vol.7 吉田豪が語るアイドルソングとの親和性

https://natalie.mu/music/column/360757

(Jackson Sistersのカヴァー)Miracles  CHIX CHICKS(2009年)

https://www.youtube.com/watch?v=F471NaokUVw

Break up to make up PV CHIX CHICKS(2009年)

https://www.youtube.com/watch?v=vuZ6fe-5F2k

●なるほど、「ラブリー」みたいだ。
奈良沙緒理 HAPPY FLOWER
https://www.youtube.com/watch?v=MyGacwAiHuw

●アイドル三十六房のRグランプリで三位だったsommeil sommeilがよい。

南波一海のアイドル三十六房年忘れ!R-グランプリ2019 191226

https://www.youtube.com/watch?v=ConQtM--Wds&t=4827s

sommeil sommeil「愛の旅」

https://www.youtube.com/watch?v=zZyY0Q-9Xxw

2019-12-24

CY8ER、メジャーデビューなのか。

CY8ER - 恋愛リアリティー症 (feat.中田ヤスタカ) Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=2H-Y-59mViM

苺りなはむ---来年でアイドルとしてのキャリアが十年になる---が、(たとえば「豪の部屋」とかで)BiS脱退からCY8ERメジャーデビューまでの道のりをじっくり語るのとかを聞いてみたい。イメージの作り込みが重要で、あまり「素」(苦労話みたいなもの)を出したくない人なのかもしれないけど。

(CY8ERは、そのイメージの作り込みだけでなく、代表の苺りなはむや他のメンバーの来歴、グループの歴史まで含めて面白い。)

苺りなはむ(Wikipedia)より

《BiSの初期メンバー(「ヨコヤマリナ」名義)、アキシブprojectの発起人・代表兼メンバー(「横山 利奈」名義)。ソロ活動では主に愛称の「りなはむ」を使用していたが、2014年9月頃から現在の「苺りなはむ」名義で活動。2015年にセルフプロデュースユニットであるBPM15Q(現CY8ER)を結成。》

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%BA%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%AF%E3%82%80

CY8ERWikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/CY8ER

BiS nerve PV バレットタイム Bullet Time(2011年)

https://www.youtube.com/watch?v=GgWt7j9vW7s

りなはむ/アキシブproject発足宣言(2012年)

https://www.youtube.com/watch?v=FVCUUp2QEio

【MV】BPM15Q『はくちゅーむ』(2016年)

https://www.youtube.com/watch?v=1criFbeN9PA

CY8ER - サマー (Official Music Video) (2019年)

https://www.youtube.com/watch?v=XC3N46u8Eeo

 

2019-12-23

●引用、メモ。「対象エピソードの主体」と「メタエピソードの主体」と「メタエピソードを想起する主体」の一致と不一致について(空間と因果)。

「なぜ「私」は、同一の「私」でいられるのだろう?」(青山拓央)講談社現代新書より

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69136

エピソード記憶の重要な特性は、いつ、どこで、なにをしたかに関わっていることだとよく言われるが、ここで主語(「だれ」)が省かれているのはなぜか。エピソード記憶の対象は、通常、その記憶の所有者自身が経験したエピソードであり、それゆえ、主語である「私」をいちいち明示する必要はない》

《だが、そこで言う「私」とは、あるエピソードを認識した主体としての「私」であって、そのエピソードにおける中心的な行為の主体では必ずしもない。

たとえば私は、十数年前、奥田民生さんのコンサートに井上陽水さんが乱入して、『荒城の月』を独唱し、すぐ去って行ったのを覚えているが、このエピソードの中心的な行為の主体は陽水氏である。

他方、私がその乱入を目にしたことに焦点を当てるなら、その主体は私であるが、こちらは、あるエピソードを認識した者としての主体だ。》

《「メタ」という表現を使用して、同じことをこう言い換えてみよう。〈陽水氏の乱入〉というあのエピソードの主体は陽水氏であるが、私がそれを見たというメタエピソードの主体は私である、と。以下の議論では、メタエピソードの参照先であるエピソードを(いまの例では〈陽水氏の乱入〉を)「対象エピソード」と呼ぶことにする。》

《メタエピソードの主体はつねに、エピソード記憶の所有者である「私」だが、先述の通り、対象エピソードの主体がその「私」であるとは限らない。》

《これらのエピソードを思い出す際に私は、メタエピソードの主体である私が、それを想起している私と、同一の主体であることも認識している》。

《当たり前のようで、これは不思議なことである。対象エピソードの主体(…)と異なり、メタエピソードの主体(私)は、その特性が──たとえば日本人の男性であることが──エピソードの内容に普通は反映されていない。事件現場を撮影しているビデオカメラが、普通はそのカメラ自身を撮影してはいないように。》

《現状、あるエピソード記憶の想起は、そのエピソードを「記録」した(認識して覚えた)脳自身によってしかなされない。》

エピソード記憶の大半(定義によっては、そのすべて)において、対象エピソードの主体、メタエピソードの主体、そしてそれらを想起する主体は、いずれも同一の「私」である。》

《それは、ヒトの身体が因果関係の結節点だからであり、身体のこのような在り方は論理的には偶然である。》

《それゆえ、その空間領域は、ある人物がもつさまざまな機能の因果的な結節点となっており、むしろ、そうした結節点であることが、その空間領域をある一個人の領域とする。》

《SF的でない普段の世界にて、「私」がやっていることを「私」がしばしば認識しているのは、前者の「私」と後者の「私」がたまたま近くにいるからだ(たとえば手と目が近くに在るために)。もちろん、ここで言う「たまたま」とは論理的な意味合いのものである。》

《もし、ある脳(の一部)で記録したエピソードが──クラウドと電子端末との関係のように──他の場所に在る複数の脳(の一部)で思い出せるようになったなら、その一致は保証されない。》

《このとき、ある人物を一個人たらしめているのは、空間領域のまとまりではなく、因果関係のまとまりだ。世界中に散在する諸物が1人の「私」を構成するのは、因果的な1つのネットワークによる。》

《空間領域のまとまりの消失は、エピソード記憶の土台を揺り動かす。言い換えるなら、因果関係のまとまりのみによって「私」が構成されるとき、エピソード記憶の概念は大きく変質するに違いない。》

2019-12-22

●「正しい」という判断にも、複数の異なる地盤があり得る。倫理として正しい、真理として正しい、美的に正しい、と。これらはそれぞれ別のことがらであり、それぞれ食い違う。真、善、美は、互いに相容れない部分をもつ。

倫理としては正しくないが、真理としては正しい、真理としては正しくないが、美的には正しい、美的には正しくないが、倫理的に正しい、倫理として正しくないが、美的には正しい、美的には正しくないが、真理として正しい…、などということがあり得る。

故に、「正しさ」もまた、絶対的な判断基準ではあり得ない。「正しい」からといって、正しいとは限らない。