2019-12-21

●RYOZAN PARK巣鴨保坂和志の小説的思考塾vol.7(以下は、ぼくの主観や解釈が---おそらく勘違いなども---入っていて、正確なレポートではないです)。

今回は、いくつかの実例が示されながら、けっこう実践的なことが語られた。たとえば、村上春樹の「ウィズ・ザ・ビートルズ」(「文學界」八月号)という小説の一部が引用され(僕はこれを読んでいないが)、その細部が批判的に検討される。1964年に高校生だった語り手の《僕》は、学校の廊下で「ウィズ・ザ・ビートルズ」というLPレコードを《大事そうに胸に抱えてい》る《彼女》とすれ違う。そして《僕》の記憶ではそのレコードは、日本国内盤でも米国盤でもなく、英国のオリジナル盤であることが《はっきりしている》、と書かれる。

しかし、まず第一に、1964年当時、日本ではロックは一般的にシングルレコードによって受容されていて、アルバムとして聴かれるのは一般的でなかった。さらに、現在と違って「輸入盤」が普通に出回っているような環境ではなかった。湯浅学によれば、その頃、「ウィズ・ザ・ビートルズ」のオリジナル盤など、日本には十枚もなかったのではないか、と。だから、普通の高校生であるはずの《彼女》が、学校の廊下で「ウィズ・ザ・ビートルズ」を大事そうに胸に抱えている---そしてそれをそれとして《僕》がすぐに理解する---というシチュエーションはちょっとありえないだろう、と。

(若い作家が知らないで書いてしまうならともかく、村上春樹はこの時代に生きているのだから、知っているはずなのだと思うのだが。)

つまり村上春樹の小説において、1964年という時代も、「ウィズ・ザ・ビートルズ」というアルバムも、ビートルズの存在も、薄っぺらなイメージであり、小説を組み立てるために使える「都合のよい駒」でしかなく、それ自体として尊重されていない、と。ほかにもこの小説には、精神疾患にかんして、「今の情報を当時の人が知っていたかのように」書いてしまっている部分がある。当時の人が、「現代の人がもつ感覚による言動」を示してしまっている、と(当時は今よりもっと深刻なタブーであり、故に差別や偏見も根深く、大きかったはず)。

小説にとって、時代背景も、風景も、人物も、作者にとっての「都合のよい駒」であってはならず、それ自体として自律した厚みをもっていなければならないはずだ、と。そのような「それ自体として自律した厚み」は、小説を書くときの助けにもなる(細部が豊かになり、リアリティが増す)が、都合よく操作できない異物でもありえる。それが重要だ、と。

村上春樹だけでなく、ほかにも、日本の現代作品や作家が個別にとりあげられ、引用され、具体的に批判的に言及された。小説では「説明」をせざるを得ない場面もでてくるが、その説明自体が面白くないと、小説は面白くなくなる。「恐ろしいことに芥川賞作家になってしまっているけど、この人はいつまでたっても下手で説明ばかりする…」。

●それらの「悪い例」に対して「良い例」として挙げられていたのが千葉雅也「デッドライン」だった。

物事が説明なしにいきなり描かれる(説明がなくても事後的にかなりの程度、理解できる)、説明せざるを得ないところでも説明がおもしろく書かれる、人物がたくさん出てくる(人物の出入りが激しい)がそれぞれ厚みがある、一人称からの視点の逸脱や、過去形と現在形が入り交じるなど、いわゆる「小説の規範」(規範は書き手にとっての「壁」である)から逸脱が随所にみられ、融通無碍に書かれているが、「規範からの逸脱」それ自体が自己目的化されているわけでもない。《家賃はけっこうしそうだった》と書かれるが、小説ではなかなか《けっこうしそうだった》とは書けない。

ハンドアウトのペーバーには、検討されるいくつかの小説の引用が載っている。それらはスマホによって書き写されたのだが、つまらない説明をする小説は、文が、スマホが「予測」する通りの展開をみせるので書き写すのが楽だったが、「デッドライン」の文章は、スマホの予測とはまったく違う展開なので、書き写すのが大変だった、と。そのようなレベルでも、「デッドライン」の文では紋切り型ではないモンタージュがなされていることがわかる、と。

●小説では、(作家自身より)頭のいい人の「頭の良さ」は書けない。「デッドライン」には徳永先生という「頭の良い人」が出てきて、「頭の良い人」を書くことに成功しているようにみえるが、これは、徳永先生の「頭の良さ」が書かれているというよりも、徳永先生という「変な人」のおもしろさが書かれている、とみるべきではないか、と。

●小説を書く上において、登場人物は多い方がよい(出しっぱなしで、そのまま二度と登場しなくてもよい)し、人物は実際の知り合いをモデルとする方がよい。それによって、ちょっとした一言でも厚みやリアリティがでる。人物は悪く書かない(よく書く方がより頭を使う)。そして、人物は時間の経過によって変化する(印象が変わる)ということを意識する、と。

●あと、第一作には自分がもっているすべてをそそぎ込むこと。出し惜しみをしてはならないし、納得できないものは何度でも捨てて書き直す覚悟が必要だ、と。すべてをそそぎ込んだ第一作目がなければ、その次はない、と。

2019-12-19

ヴェンダースアメリカの友人』をU-NEXTで観る。昨日につづいて、映画を観られなくなってしまったことへのリハビリのとして。これもすんなり最後まで観られた。

(ここ数年、ずっと観返したいと思っていたのだがソフトがみつからず、最近、U-NEXTのラインナップに加わったのだった。)

アメリカの友人』を前に観たのは、ずいぶん昔だ。おそらく、偽日記をはじめるよりも前だったはず。

(ロードムービー三部作や『パリ・テキサス』などは、何度か観返す機会があったが、『アメリカの友人』はなかなか観られなかった。)

ヴェンダースという名前、および『アメリカの友人』という映画の存在を知ったのは『シネマの記憶装置』によってで、読んだのは八十年代はじめ頃だと思う(確か「スピルバーグなら聡明に避けるような罠に、いちいち自らひっかかりにいっているような映画」というような「褒め方」がされていたと記憶している)。そして、『アメリカの友人』がはじめてのヴェンダースで、観たのは八十年代中頃のいつか。高校生だったか、浪人していた頃だったか。

なにより、風景というか、街の空気(ハンブルク・部屋から見下ろされる港・かもめ・夜・寒さ)のヴィヴィッドな描写が新鮮だったという印象が残っている(ロビー・ミューラーというカメラマンの名前はすぐに憶えた)。そして、ブルーノ・ガンツの、いかにも「病に蝕まれているおっさん」という存在感(顔色の悪さ)と、デニス・ホッパー疲労が凝固したような存在感。

最初にこの映画を観た時は、物語を追えなかった。というか、追う気が起きなかった。ただ場面場面を、人のたたずまいを、風景を、空気感や光の移り変わりを追っているだけで充分に魅了された。そういう風に観る映画だと、映画自身が言っているように思えた。これがヴェンダースなのか、と思った。

(物語が分かっても、特にサスペンスとして観る必要もないし、そうなっていないところがいいのだ、と。)

(ニコラス・レイサミュエル・フラーのような大御所だけでなく、ヴェンダースと世代の近いダニエル・シュミットジャン・ユスターシュなど、映画監督がたくさん出演していて自主映画みたいな素人っぽい「内輪ノリ」感も新鮮だった。)

(とはいえ、『ベルリン・天使の詩』以降のヴェンダースをみると、ヴェンダースの映画においてぼくが好きだと思っていたものの多くは撮影のロビー・ミューラーに由来していたのではないかとも思えてくるのだが。)

2019-12-18

ブレッソンの『ラルジャン』をDVDで観た(日記を検索したら、前に観たのは2002年だった)。最近、映画やドラマを観られない(何を観ても、観はじめて30分くらいで興味が途切れてしまう)のだが、これは最後まですんなりいけた。

アニメを観ても、最近では興味が持続しない。特に、事件があってから京アニの作品を---あまりに辛くて---まったく観られなくなってしまっていて、そのため、アニメからいっそう遠ざかる感じになってしまった。

(事件の後、ある新聞社から京アニについてのコメントを求められたのだけど、「すいません、何も言えません」としか答えられなかったし、今でもまだ何も言えない。ただ、ようやく、「京アニ」という文字を書き、「京アニについては何も言えない」「京アニの作品を観られない」ということをこの日記に書くことは、出来るようになった。)

2019-12-17

●二つの「けっこう大変な仕事」を、なんとか期限内に終えることができた。ほっとしているが、頭はフリーズしている。「猫舌SHOWROOM 豪の部屋」と「矢口真里の火曜The NIGHT」を観ながら飲酒。

●もうちょっとだけ、昨日のつづき。『デッドライン』(千葉雅也)について。

視点が知子の方へ移動する時に、知子が「一人」であることが強く響くのは、知子という人物が、主人公からその「不在」を意識される人物であるということが、一つあるように思う。

主人公はまず、徳永ゼミに参加しながら《知子は最近来ないな》と思う。そして、製作に協力していた映画が上映される卒業制作の発表会でもまた、《知子の姿はなかった》ということを意識する。知子は、みんながいるときにいないことで「不在」が意識される(おそらく唯一の)登場人物であり、この不在が反転することで、主人公の視点から独立した存在として(一人でいる人物として)あらわれるのではないか。

2019-12-16

●六本木の文喫に千葉雅也・保坂和志の対談を見に行く。

●『デッドライン』(千葉雅也)のざっくりとした感想。文体があっさりしているのに、感覚的なものの濃度が濃いと思った。文体も描写も、さらっとしていながら、中身がみっしりつまっている感じ。記述の関心は割とさらさら移動していくが、移動の軌跡が単調ではなく、個々の感覚が粒だっていて、振り幅も広く、モンタージュの仕方も多様であるから、そのように感じられるのではないかと思う。

●全体に漂う、上品なゆるふわ感。2001年頃の日本は、今と比べればまだ随分余裕があったということなのか。それとも、東大(とは明記されていないが)の周辺は、今でも割とゆったりした感じなのだろうか。

(2001年、2002年を通過する話であるとはっきり書かれているにもかかわらず9・11にまったく触れていない---匂わすような細部もない、と思う---のは、おそらく意図的なのだろう。)

主人公は、大学院で現代思想の研究をしており、他に、友人の映画製作の手伝いなどもしている。バイトをしているわけでもないので時間に余裕があり、学生にしては立派すぎる部屋に住み、学生としては贅沢だと思われる食習慣をもち、車も所有しているし、さらに、新宿二丁目やハッテン場に躊躇なく出入りできるというくらいにお金の余裕がある。頭がいい上に、浮き世離れした生活が可能なくらいにお金持ち。主人公は明らかに、相当特権的な位置にいる人だといえる(この特権が最後には破られるものであるとしても)。

明らかに特権的な人であるが、その特権がことさら強調されるわけでもなく、かといって隠されるわけでもなく、それが当然であるかのように、嫌みもなく、あっさり示されるという上品さ。

●冒頭のハッテン場の場面での男たちの回遊するような歩行によって、小説のモチーフとなる運動が示され、この円環的な運動のモチーフは、作中で様々な形となって反復される。たとえば、東京の地理と時計のイメージが重ねられることで、空間的な移動と時間の経過とが重ね合わせられる場面(時計の針が一周するように、ただ行って、帰ってくるドライブ)や、ゲイである自分の欲望は、直線的に対象に向かうのではなく、欲望の対象から折り返すように自分に戻ってくるような性質をもつと主人公が語る部分など(円環的に運動と直線的な運動の対比)。

●知子は(紙で)指を切り、主人公は(歯で)口内を切る。

●主人公の視点が遠くにいる知子の視点に転移する二つの場面での「距離感」。これらの場面は、主人公による一人称の語りからふと切り離されて、そこだけぽかっと宙に浮いているようにあり、そして視点が移動する時、知子は一人でいる。通常、一人称によって語られる場合、登場人物は常に語り手との関係のなかで現れるが(つまり「ひとりぼっち」になれるのは語り手だけだが)、視点が移動する二つの場面で、知子は主人公との関係から離れて「一人」になり、そして場面もまた、主人公との関係の外にでる。この場面の距離感(飛び石のように他から切り離されてある感じ)が、大勢いる登場人物のなかで、知子という人物に独自の存在感を与えているように感じられた。

(知子は一方で主人公の分身のようであり、しかしもう一方で主人公からもっとも切り離されてもいる---語り手から独立して存在している---ようにもみえる。)

知子が「自分のことをあまり好きではない人が好きかも」というようなことを言い、主人公がそれに同意し、「それが一番エロい」と言う場面があるが、実はここで、知子と主人公の言っていることは一致していないように感じられた。知子が、自分を好きでない人こそを好きだと思う感覚は、「その方がエロい」というようなエロティックな感じとは異なるのではないか。それは、(主人公がノンケの男を欲望するといったような)欲望の形というよりも、知子という人の存在のあり方にかかわることのように感じられた。知子という人は、ありうる人間関係の外側に、どこかでぽつりと一人でいる、というようにして存在している人なのではないか。この場面に、知子と主人公が似ているけど違う、ということが的確に表されているように思う。

(主人公もまた、たとえば知子とKとの関係の外に一人だけで置かれているのだから、このことはもしかすると同じことの二つの側面---裏表---なのかもしれないのだが。重要なのは、知子と主人公の違いというより、「視点の転換がある」ということかもしれない。)

(この場面の最後に、主人公は「猫になる」。)

(対談では、視点の移動は映画なら普通にあることで、特別なことではないと語られていたが、ぼくは、視点の移動が知子においてのみ起こること、その時に知子が一人でいること、に、とても強く反応してしまったし、そのことは、知子という登場人物のあり方、そして、知子と主人公の関係のあり方において、必然的なことであるように感じられた。)

●引用。作中の徳永先生の荘子に関する講義でおもしろいとおもったところ。

《人間でも動物でもいいのです。他者と「近さ」の関係に入る。そのときに、わかる。いや逆に、他者のことがわかるというのは、「近さ」の関係の成立なのです。》

《「近さ」において共同的な事実が立ち上がるのであり、そのとき私は、私の外にある状態を主観の中にインプットするという形ではなく、近くにいる他者とワンセットであるような、新たな自己になるのです。》

《事実を共有すること。それは主観と客観の対立ではうまく捉えられません。》

荘子は魚と、ある近さにおいてワンセットになる。》

《ある近さにおいて共有される事実を、私は「秘密」と呼びたいと思います。》

《真の秘密とは、個々人がうちに隠し持つものではありません。具体的に、ある近さにおいて共有される事実、これこそが真に秘密と呼ばれるべきものなのです。》

《「荘子は魚になっていた、ということでしょうか」

 僕はおずおずと発言した。そのとき、安藤くんが僕の方に視線を向けたのがわかる。

 「ええ、そう言えますね」

 「逆に、魚の方も荘子になったわけですか?」

 「まさしくそうです」

 次に篠原さんが口を開いた。

 「つまり「なる」ということが、主観と客観の手前なのでしょうか?」

 徳永先生は頷いて、答える。

 「まさしくそうです

 ただし、自己と他者が「同じになる」のではありません。あくまで荘子荘子、魚は魚なのであって、にもかかわらず、互いに相手に「なる」のです。》