2020-06-16

●普段なら、強く興味をもつ作家が候補にあがりでもしない限り芥川賞に特別な興味はないのだが、今年は「新人小説月評」をやっていて、芥川賞の対象となる小説をすべて読んでいるので(だから当然、候補作はすべて読んでいることになる)、発表された芥川賞候補の五作の並びをみると、「へー、そうくるのか(どのような理由で、あれら多数の小説たちのなかから、これらが選ばれるのか…)」という感じで、感情に何かしらの動くものがある。

(芥川賞の権力というのは、選考委員の先生方というよりあくまで日本文学会にあるのだなあ、と。そもそも候補作にならなければ受賞できない。)

2020-06-15

●字数の少ない原稿を書く時にパズルをやっているような気持ちになることが多い。ここを五字分削ったから、こっちを五字分増やせるとか、この部分の表現を変えると二字分減らすことが出来るとか、この言い方だと言いたいこととはややずれてしまうけど、きちんと書くには文字数が必要なので近似値で妥協するか、とか、いや、妥協しないで別の表現の仕方をもう少し模索しよう、とか、もしかするとこの部分はざくっと削っても大丈夫だから、こっちをなくして、ここを詳しく書くか、とか、二字削って一字足すみたいな単位のことを、ちまちまと延々繰り返して、決まった字数と言いたいこととをすり寄せていく。内容とはほぼ関係のない(知的な刺激のない)むなしい作業だけど、これをやらないで、書きたいことを書いて文字数ぴったりに収まることはないので、やるしかない。頭や時間を使うべきところはここじゃないのだけどなあ、と思いながら。

2020-06-14

●今月いっぱいで配信が終わってしまうみたいなので、U-NEXTで『ヒッチコック/トリュフォー』(ケント・ジョーンズ)をぼんやりと観ていた。十人もの映画監督にインタビューしていて、それが全員男性だというのはどうなのかと思ったりもするけど(2015年につくられた映画がこんなにベタに---素朴に---シネフィル的でいいのかとも思うけど)、映画を断片的にバラして観ることの独特の面白さというのは、やはりあるなあと思った。

映画を見終わって、本棚から『ヒッチコック映画術トリュフォー』を取り出して(何十年ぶりかに)パラパラ読んだ。下の引用は、映画のなかでインタビューを受けている黒沢清が「悪魔的」と言い、ウェス・アンダーソンが「フレームが完璧」と言っていた『汚名』の《映画史上最も長いキスシーン》について、本のなかでヒッチコック語っている部分。

《じつを言うと、あの長いキス・シーンは俳優たちにとてもいやがられた。ふたりともおたがいにずっとぴったりくっつきあったまま演技しなければならないのが苦痛で耐えられなかったようだ。演りづらいというんだよ。で、わたしは言ってやったよ---「演りづらくてもいいんだ。大事なことは、ただひとつ、スクリーンにどう映えるかなんだ」とね。》

《(…)あの長いキス・シーンは抱きあっているふたりの男女の欲望の昂まりに対応して構想されたものだ。だからこそそのロマンチックなムードを、ドラマチックな調子を、くずさず、断ち切らずに最後までもっていくことが絶対に必要だった。ふたりをひきはなしてしまったら、たちまちすべてのエモーションが失われてしまう。だから、ふたりはおたがいに絶対はなれられない。しかも、そのまま抱きあった姿勢で動いたり演じたりしなければならない。電話が鳴ると、抱きあったままそこまでいって受話器を取り、電話で話している最中もずっとキスしつづける。それからまた、ふたりはそのままの姿勢で愛しあいながらドアのところまでいかなければならない。ふたりがけっしておたがいの身をはなさず、ずっと抱きあっているということが絶対に必要だった。それに、キャメラも、ここでは、観客の身がわりになって、このふたりの長い熱っぽい抱擁に加わる三人目の人物となるべきだとわたしは感じた。(…)》

《ところで、このはげしい愛の心理的昂まり、エモーションを絶対に断ち切ってはならないというアイデアはどこから得たかというと、じつは、数年まえにわたし自身がフランスで目撃したある光景の記憶によるものだ。わたしはブーローニュからパリに向かう列車に乗っていた。エブタルという小さな町をゆっくりと通過するところだった。日曜日の午後だった。車窓から、赤いレンガ造りの大きな工場が見えた。その壁に向かって、若い二人連れが腕を組みあって立っていた。青年は壁に向かっておしっこをしていた。若い娘はその青年の腕をしっかりとつかんだままはなさず、青年のしていることをじっとながめていた。それからわたしたちの列車のほうをふりむき、列車がとおりすぎてしまうと、また青年をじっとながめる、というふうだった。わたしは、そこに、まったく愛の現場そのものを見る思いだった。これこそ、ほんとうの愛の姿だと感じた。》

そして、トリュフォーのコメント。

《ところで、さきほど俳優たちの苦しい姿勢が逆にスクリーンには快く美しくエロティックにすら映えるということについてですが、たとえ俳優たちが監督の意図を理解してくれないで焦立つばかりだとしても、演出上の興味ある問題を提起するものではないかと思います。ふつう、あるシーンを撮る場合、ほとんどの監督がセット全体の文脈のなかで考える、つまり、セットのなかで実際に眼で見た〈らしさ〉の印象を大事にするような気がします。それが構図のなかで、つまりスクリーンのなかで、どんなふうに見えるかという、空間の割合を考えることはめったにないのではないか。わたしは、自分で映画を撮るときや、とくにあなたの映画を見るたびに、そのことを考えるのです。偉大な映画、純粋に映画的な映画というのは、じつは、ワンカット、ワンカットの撮り方がスタッフにもキャストにもまったくばかばかしくみえるところからこそ生まれてくるのではないか…》

《たとえば『汚名』のあの長いキス・シーンがそうですし、『北北西に進路を取れ』の寝台車のなかのケイリー・グラントエヴァ・マリー・セイントのキス・シーンもその典型的な例でしょう。ふたりは壁に寄りかかって、抱きあい、キスしたまま、壁に体をこすりつけるようにして二回転する。スクリーンではそれがまったく完璧で自然にみえるけれど、撮影現場ではじつに不自然なスタイルだったのではありませんか。》

《つまり、映画監督は、ある一定の構図のなかにリアリズムを確立するためには、その周囲の空間がひどく不自然で非現実的になることを見越しておかなければならないということですね。たとえば、ふたりの男女が立ったままキスしているようにみえるクローズアップを撮るためには、じつはふたりをテーブルのうえにのせてひざまずかせなければならないといったような。》

2020-06-13

●Sweet William feat. kiki vivi lily

Talk to me (feat. kiki vivi lily)

https://www.youtube.com/watch?v=OerkQrbL7do

Tempo de sonhar (feat. kiki vivi lily)

https://www.youtube.com/watch?v=6HpWEECz4IU

●Sweet William feat. Jambo Lacquer

休花 (feat. Jambo Lacquer)

https://www.youtube.com/watch?v=gcZD-R3fH6k

●Sweet William feat. J.Lamotta

Life's too short (feat. J.Lamotta)

https://www.youtube.com/watch?v=WN94CMt-cTI

●Sweet Williamと青葉市子

Sweet William と 青葉市子 - からかひ (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=7dKSIgP49Rc

Sweet William と 青葉市子 - あまねき (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=90sin6nP144

2020-06-12

●寝る前に何か一本映画を観ようと思って、U-NEXTで『男の顔は履歴書』(加藤泰)を観たのだが、選択を間違えた。心安らかに眠れなくなった。凄すぎて観ていて辛い。その密度に傷つけられる。傑作は、まるで現実のように人の心を傷つけることがある。

2020-06-11

●『こおろぎ』(青山真治)を、U-NEXTで観た。山崎努のやりすぎな感じがぼくにはちょっときつかった。食事の場面もちょっときつい。

鈴木京香山崎努が暮らしている別荘の前の斜面がとてもよかった。そこを車が降りてきたり、昇っていったりするのも、山崎努がいなくなった後でパーティーの客たちがぞろぞろとそこを歩いて下っていくのも、その斜面越しに下の道路が見えて、そこを自転車が通り過ぎるのも、よかった。それと、漁港のようなところにいきなり謎のバーがあって、そこに鈴木京香が吸い寄せられるように入っていくところは普通によかった。

あと、靴の扱いが面白い。最後の最後になって、別荘が二棟並んで建っているのだということが分かる、というのも面白い。軽くいなされる感じ。

(これはネタバレのようになってしまうけど) 伊藤歩がいきなりトラックにはねられた時には、思わず「えええっ」という声が出てしまった。不意打ちというのはまさにこのことだ。黒沢清の「勝手にしやがれ!!」シリーズのどれかでも、人が本当に唐突にトラックにはねられる場面があって、そこでも声が出てしまうのだが、おそらくそこからきているのだと思う。そこからきているのだとしても、それを「ここ」に置くというのがまさに驚きで、驚いてしまう。

2020-06-10

●今からみるとはるか昔のようなバブル崩壊以前(昭和)の匂いの強く漂う動画をみつけた。この鼻持ちならないスノッブな感じが懐かしい。村上龍近藤等則中沢新一岡部まり。当時の自分にとって憧れの上の世代だった人たちを、今、年下の「若者」として観ている感じになる。今のぼくからみると、当時の村上龍は小学生の男の子みたいな顔にさえみえる。

Ryu's Bar ゲスト 中沢新一 近藤等則 1989

https://www.youtube.com/watch?v=7w4ZSzEGfdA

(当時にはあった、いい加減なことを調子こいて喋っても許されるという雰囲気が、今ではまったく失われてしまったのだなあ、と。いい加減なことを調子こいて喋ることこそが知だ、とまでは言えないとしても、それこそが知を涵養する培地となるものだと思うのだが。)