2021-01-25

●『精神分析にとって女とは何か』第二章「精神分析的臨床実践と女性性」(鈴木菜実子)。とても興味深く勉強になった。まず思ったのは、人の心というものを「個」として切り離して考えることの困難だ。樫村晴香が「人間-でないもの」で、《超自我とは、父親の模倣ではなく、父親がその父親にもっていた両価的ないし敵対的関係の取り込みで、それはほぼ無限に遡る》と書いていたが、それは当然、母と娘の関係にもあてはまる。セラピストは、治療者の内にある母との関係の影響だけでなく、その母と、母の母との関係の反映もくみ取る必要がある、と。心の古層は、自分が生まれるよりずっと前から積み重ねられている。

《一次的女性性は、胎児の頃から生じる生物学的・解剖学的影響に加えて、社会的・心理的影響にも左右される。ここで言う社会的・心理的影響とは、乳児を両親や家族が特定の性として扱うことによる、言語的・非言語的なメッセージによるものである。養育者(主に母親によるであろう)の世話は、それにともなって喚起される身体部位のさまざまな感覚によって身体イメージを生成する助けになるだけでなく、そこで養育者のまなざし、声掛け、さらには乳児に向ける種々の情緒や空想もが乳児のジェンダーアイデンティティの形成に寄与する。

母親と女児との相互作用は、女児の出生前にまでさかのぼることができる。妊娠中の母親の空想や期待は、乳児に対する母親の最初の反応に影響を及ぼす。妊娠した女性は、それまで赤ん坊について抱いてきた空想をまとまった形の空想へ統合しようとする。妊婦とその母親との同一化が促され、すべての発達段階に由来する両価性や葛藤が再現されうる。これらが生まれてくる赤ん坊に影響を与えるという意味で、母親自身の母親との関係、母親自身の女性性の感覚は、女児が自分の身体、性差をどのように発見するかに影響する(Greenacre 1953)。母親となった女性は、自分の娘の身体にたやすく同一化することができ、母親と娘が一体であるという空想を抱きやすい(Chodorow 1978)。こうした母親のもつ空想は、女児が母親と同一化することを促進する環境となりえるし、女児が女性であるという原初的な感覚を持つことに関わってくる。》

《性的な虐待体験に対しての否認と抑圧は、本人からはもちろん周囲や社会からも非常に強いために、たとえば近親者によってなされた虐待を見て見ぬふりをされることも少なくない。また、虐待の背景にはその前、三世代に渡って同様の虐待パターンを見ることができることもよく知られている。母親自身が外傷を体験しており、弱く、不安定で、自分の女性性や身体を肯定的にとらえることができない場合には、そのことが女児と母親との関係や母親の身体の認識、そしてそこに生じる空想に影響を与えることになる。娘が父親からの性的虐待を受けているのを見て見ぬふりをしていた母親自身が、かつて兄から性的虐待を受けており、「男とはそういうものだ」と自分の母親から見て見ぬふりをされていたといった例もある(McDougall 2004)。母や祖母の世代の女性たちの女性らしさの表れの中には、かつては文化的に受け入れられていたために、外傷体験が組み込められていることが見過ごされてしまうことがある。母親の中には自分の受けてきた外傷的な性的体験をこともなげに、何の説明もなく娘に伝え、そのことで世代から世代へと外傷を無意識に伝達してしまうものもある。こうした母親は娘のこころを自分の外傷的体験を貯めておく場所、植民地のように使用することになる(Silverman)。》

《治療において、こうした性的な外傷体験の詳細を聞く時に、セラピストは強烈にエロティックで性的な反応が喚起されることがある。また、恐怖や吐き気をもよおしたり、感情を切り離したり、激しい症例では自分がコントロールできなくなり、代わりに外傷を受けたように体験してしまったりするということもある。大規模な投影同一化にセラピストがさらされるわけだが、これをまずセラピストが消化し、解釈を通して変形することが求められる(Lisman-Pieczanski 1997)。当然だがこうした治療には困難がつきものであり、セラピストと治療を支えるために、セラピスト自身の教育分析や適切なスーパービジョンなど、さらなる人的リソースが必要とされる。》

《一方で、歴史的・文化的・社会的な外的現実は、女性性にまつわる理論の変化を促し続けてきた。(…)性的マイノリティに関する知見や、生殖補助医療に関する発展も、これまで精神分析が想定してきた女性像、さらには人間のこころのあり方を刷新する可能性をもっている。(…)時代と文化の変遷は、かつては病理とみなされていたことを、多様な女性のあり方の一つとして理解し直すことを私たちに要請している。》

《他方で、精神分析の女性性に関する理論は、あるいはこころに関わる理論は、「いま・ここ」にある現象のみと切り結ぶものではない。私たちを取り巻く社会的状況が変化し、かつての女性像が過去のものになっていったとしても、患者の母親、さらにはその母親の母親が生きてきた歴史と体験は、子どもである患者のこころに影を投げかけ、こころの中で生き続けている。精神分析は、こころの中にある一世代、二世代、あるいはもっと以前の女性の体験による影響にも目を向けることになる。精神分析的セラピストたちは、「かつて・あそこ」で女性/母親たちが体験した苦しみが落とした影に無意識に同一化している患者の部分にも向き合わざるをえない。そこには過去の女性性の理論が現在のものとして息づいている。それゆえ、ときに精神分析の女性観は、現実に今、存在する女性の変化に後れを取っているように見えることもあるのではないだろうか。そしてもし、この精神分析理論の中にある歴史性に自覚的でないならば、精神分析的な治療者は時代遅れのジェンダー観や患者の個別の母子関係を過度に一般化する有害な治療者になりかねないだろう。》

2021-01-24

●大学に入った年から25年くらいずっと西八王子に住んでいた(今、住んでいるのは、どこまでもひたすら平らな土地だが、西八王子は至る所に高低差があって、散歩がとても楽しかった)。ツイッターで西八王子情報を出している日高良祐さんという人のアカウントがあって、懐かしくて見入ってしまった。下のリンクの写真を、どこで撮ったのか、誤差一メートル以内で正確に分かる。この場所で立ち止まって、何度も、何枚も写真を撮ったから。

https://twitter.com/ryskhdk/status/1352541306787033089

下の牧場も、よく散歩で訪れた。《このへんまじ景色が良すぎる》。ほんとにそうだ。

https://twitter.com/ryskhdk/status/1345237303216640000

2021-01-23

機械学習によるイメージ生成をみると、そこで生まれるイメージから、「頭のなかから直接取り出したような質」を感じ、「手=身体を介すること(メディウムを介すること)」の意味を考え直さないわけにはいかないと思わせられる(端的に言えば、ひどく動揺させられる)。

●下のリンクは、以前、VECTION(西川アサキ + 古谷利裕 + 掬矢吉水 + もや)の議論で、西川さんによって持ち込まれ、取り上げられたものなのだが、ぼくはこのイメージ群に魅了されてしまい、眼をもっていかれる、という感じで釘付けになってしまった(AIが学習している時、その内部、その過程がどうなっているのか、ということを示すためのもの)。

The OpenAI Microscope is a collection of visualizations of every significant layer and neuron of eightimportant vision models.

https://microscope.openai.com/models

中を見ると、たとえば下のような感じになっている。

https://microscope.openai.com/models/inceptionv1_caffe_places365?models.technique=deep_dream

https://microscope.openai.com/models/vgg19_caffe/conv1_2_conv1_2_0?models.op.feature_vis.type=channel&models.op.technique=feature_vis

https://microscope.openai.com/models/inceptionv4_slim/InceptionV4_InceptionV4_Mixed_7c_concat_0?models.op.feature_vis.type=channel&models.op.technique=feature_vis

https://microscope.openai.com/models/inceptionv1_caffe_places365/inception_4d_output_0?models.op.feature_vis.type=channel&models.op.technique=feature_vis

●上のような画像(イメージ群)を観る時、心がざわざわして不穏な感じになり、しかし、眼は魅了されて釘付けにされる。それは、おそらくそれらが、人間の脳のローカルな部分がそれぞれバラバラにやっていることを、塊(一つの感覚や意味の単位)としての統合がまったくなされないままで(なされるより前の形で)、ぽろっと出しちゃっているように見えるからなのではないかと思う。つまり、これらの画像は、意味として加工される前の(視覚的な)無意識のマテリアルというか、知覚のマトリックスが、裸のまま露呈しているようなものだということではないか(それぞれの画像が、個々のニューロンであり、そのニューロンの偏りを表現している?)。自分の背後にあって自分を支えるものであるが、今まで見えなかったもの(しかし、ずっとそれらと共にあったもの)と、光のなかで正面から対面してしまっている、と。だからこそ、それを観ると動揺する(こころがざわざわする)のに、そこから目が離せなくなる。

それは、意味はないが、とても親しいものであり、しかし同時に、直視してはならないもの(直視すると「自分」という統合が崩れてしまいかねないもの)、ということではないかと思う。

(文化的に近いものがあるとすれば、ドラッグカルチャーにともなうサイケデリックなものだろうか。)

●あるいは、下のリンクで生成されている画像をみると(アクセスの度に新たに生成される)、抽象絵画の「紋切り型」(だが、かなりクオリティの高いもの)が生成されているように感じられる。

∞ stream of AI generated art.( Explore the infinite creativity of this AI artist that was trained on a carefully selected set of cubist art pieces.)

https://art42.net/

このような絵を描いた画家は歴史上には存在しないのだが、しかし、いかにもありそうな抽象絵画であり、このような絵を描いた(埋もれた)20世紀初頭の画家が発見されたというフェイクニュースがあったとしても信じてしまうように思われる。この画家は、そこそこ良い画家だ。つまりここでは、美術史によって裏打ちされるような(非常に抽象化された)「絵画的感性(ペテンタリーな趣味)」が学習されているのだと思う。

上のジェネレーターは、学習対象がキュビズムの絵画ということなのだが、美術史における「キュビズム周辺の無意識」が正確にトレースできているように思われる。機械学習は、「感性」や「無意識」をとても正確に学習することができるようにみえる。

これだけのクオリティの絵が自動的に生成されてしまうと思うと、絵を描きたいという気持ちはどうしても折れそうになってしまう。

2021-01-22

●(昨日からつづく)そういえばぼくは、自分の本(『世界へと滲み出す脳』)のなかで「小市民シリーズ」論(「互恵関係と依存関係」)を書いていたのを思い出した(『巴里マカロンの謎』を読んでいる時にはそれを忘れていた、というか、意識していなかった)。自分で書いたテキストを読んで、「小市民シリーズ」のあらすじをぼんやりとだが少し思い出した。以下、「互恵関係と依存関係」(『世界へと滲み出す脳』)からの引用。なお、これを書いた時点では三作目の『秋季限定栗きんとん事件』はまだ出ていなかった。

《〈小市民〉シリーズの、小鳩くんと小山内さんとの「互恵」関係が、はじめから決して対称的だとは言えないのは、このことからも分かるだろう。小鳩くんが解決する「謎」は全て基本的に他人事であり、彼の欲望はたんに(純粋に)「謎を解く」ことである。彼が他人から鬱陶しいと思われるのは、他人事に(依頼されてもいないのに)口を突っ込むからであろう。対して、小山内さんの「復讐」は、常に自分の事情であり、自分の問題であり、自分の欲望である。謎は、私の外側にひろがる世界に関わるが、復讐は、私がその一部である世界に関わる。》

《二人の関係は、実際に「依存(愛情)」の入り込む余地のない、お互いの存在を「利用する」ための関係として契約されている。しかしここで「互いを利用する」とは、ふりかかる面倒なことから逃れるために、ということにおいてだろう。(…)しかし小山内さんは割合簡単にそこから踏み出してしまう。小鳩くんは、自分と関係ない謎に思わず首を突っ込んで、それを解こうとしてしまうこと、そしてその「解」を得意げに他人に披露しようとしてしまうことを、抑制しようとしている。(…)そのことを知っているのに、小山内さんは小鳩くんの「推理癖」を自分の(抑制すると誓った)復讐への欲望を満足させるために利用しようとする。》

《二人はしばしば「小市民の誓い」を踏み外すが、その踏み外し方は異なる。小鳩くんは、目の前に「謎」という餌をちらつかされると、ついついそれに誘われて謎解きをしてしまう。謎解き、つまり理知的な分析による認識が、決して人を喜ばせるものではないこと、人は実は知など欲してはいないことを小鳩くんはその経験から知っている。(…)しかし、自ら謎に踏み込まなくても、謎は他者からの依頼として、小鳩くんのところに舞い込んでもくる。依頼として舞い込んだ謎に関わることは、自ら進んで謎に首を突っ込むことに比べ、同じ踏み外しだとしても、彼にとって比較的「罪が軽い」ことになるだろう。(…)(しかし、他者の要望に応えたものだといって、必ずしも他者から感謝されるとは限らない)。》

《小山内さんの踏み外しもまた、基本的には他者の介入による。自分自身の凶暴性、つまり恨みへの執拗なこだわりと、復讐を実現させてしまえる並外れた行動力とを自覚している彼女は、出来るだけ目立たなく、大人しく振る舞うことで、他者との摩擦を避け、利害の対立を避けて、自身の凶暴性のスイッチが入らないように抑制した生活をしている。小山内さんにとって、復讐することそれ自体が喜びを伴うものだとしても、小鳩くんが謎を欲しており、謎を解くことそのものを積極的な喜びと感じているのと同じようには、復習を喜びと感じているわけではないだろう。彼女にとって積極的な「良いもの」はスイーツであり、決して復讐ではない。小鳩くんは、もし、自らの知を発揮することによって人から疎まれることがないという条件があれば、自身の推理癖を抑制する必要は全くなくなるのに対し、小山内さんの復讐は、彼女自身にとってさえも、決して「良いもの」となることはない。つまり、小鳩くんは「良いもの」につられて、ついつい踏み外してしまうのだが、小山内さんは、それをせざるを得ない状況に「落とし込まれる」ことによって、踏み外してしまう。小山内さんの凶暴性は、他者からの避け難い攻撃によって発動される。》

《小山内さんは、自らがその一部である世界において、他者からの危害を受けているのだから、小鳩くんが依頼を拒否するようには、その世界そのものを拒否することは出来ず、その危害をくい止めることは出来ない。だからこそ彼女は、受動から一転して、復讐という能動へ打って出る。》

《だが『トロピカル』では、自らが囮となって犯罪を誘発し、さらに濡れ衣を追加して相手に負わせようとする。しかもその計画には、その「推理癖」を見越して、互恵関係の枠を大きく逸脱する形で、小鳩くんが組み込まれている。つまり小鳩くんを騙して利用している。この看過出来ない復讐の進展は、彼女の行動(能動性)がたんに復讐ではなく、自身の身を守るための行為であることで、(一応は)正当化されている。》

《(…)小山内さんにおいても、石和という元同級生への恐怖や、自身の身体に加えられる痛みや傷への恐怖が、防御をこえて相手に無実の罪を着せるところまで進展させてしまうのだ。小山内さんに「復讐」を促すものは、実は決して「愉しみ」などではなく、「恐怖」であったのだということがここではっきりする。そして、このような他者によってふりかかる「恐怖」に対して、探偵=小鳩くんによる「知」は何の役にも立たない。つまりここで、もはや「互恵関係」は成り立たない。この点がはっきりしたことで、二人の関係は必然的に破綻する。》

●上記のように、シリーズ二作目の『夏期限定トロピカルパフェ事件』の最後で、いったん二人の「互恵関係」は破綻する。そして三作目の『秋期限定栗きんとん事件』で復活するのだが、どうやって復活したのか、読んだのが十年以上前なので覚えていない…。

2021-01-21

●『巴里マカロンの謎』。米澤穂信「小市民シリーズ」の新作が去年出ていたことを知ったので、読んだ。このシリーズとしては11年ぶりの新刊ということだけど、タイトルからも分かる通り(「冬期限定…事件」という定型に従っていない)、シリーズの本流というより、やや軽めのインターリュード的な感じの作品だろうと思った。11年という間を開けたこのタイミングでインターリュード的な作品が出るということは、そう遠くはない時期に、とうとうシリーズを完結させる『冬期限定…事件』が書かれるということの布石ではないかと期待したい。

高校生が主役の、人の死なない、いわゆる「日常の謎」系のミステリとしては、同じ作者の「古典部シリーズ」が、アニメ化されてヒットしたりして有名だけど、ぼくとしては、よりひねくれの度合いの高い「小市民シリーズ」が好きだ。「古典部シリーズ」では、傍観者的デタッチメントの態度をとる主人公が、回りの人物たちに巻き込まれるようにして状況に介入していくという形だが、「小市民シリーズ」では、面倒ごとに自ら首を突っ込んでしまいがちな二人の(基本的にかなりヤバい)人物が、それまでの態度を反省し、できるだけ面倒に巻き込まれないように小市民的でいるために、互いに協力し合い牽制し合うという形になっている。だから、この作品は、装われた穏やかさ、装われたフラットさを基調としている。表面的には、事なかれ主義の男の子と、スイーツ好きでふわっとした女の子が主人公であるのだが(物語は男の子の一人称で語られる)、その奥に不穏な感じが常にあって、日常的な何気ない事件に見えたものの残酷な側面がチラッと覗かれる。とはいえ、不穏なものを暴露するという感じにはいかなくて、表面上はあくまで小市民的な穏やかさが(ところどころ破綻しながら無理矢理にでも)貫かれる。この、しれっと、しらじらしく平穏が「演じられる」感じが、この独自の距離感やひねくれ具合が、なんともいい感じなのだ。

上のように書いたのは、ぼんやりとした印象の記憶であって、この印象が具体的にどんな細部によってもたらされたのかということは、読んだのが十年以上前なのでほとんど忘れてしまっている。『巴里マカロンの謎』を読んでいて、「そう、この感じ、この感じ」と思い出して刺激されながらも、「ちょっと毒が弱め」とも思ったりして、改めてひさびさに「小市民シリーズ」を最初から読み直してみたいと思った(『春季限定いちごタルト事件』『夏季限定トロピカルパフェ事件』『秋季限定栗きんとん事件』)。それで本棚を引っかき回したのだが、読んでいたのは十年以上前だし、間に一回引っ越ししたこともあって、『秋季限定栗きんとん事件(下)』一冊しか見つからなかった。それ以外の三冊は買い直した。

2021-01-20

●「風の谷のナウシカ」はとても好きな曲で、時々聴きたくなる。ナウシカと言えば、宮崎駿島本須美であるより細野晴臣であり安田成美だ。

安田成美 風の谷のナウシカ

https://www.youtube.com/watch?v=fW7j44obuEQ

Nausicaä - Takako Minekawa & Ryuichi Sakamoto - Hosono Tribute

https://www.youtube.com/watch?v=_mvuDxs4Ot4

大橋トリオ 風の谷のナウシカ

https://www.youtube.com/watch?v=5QwbdCXhkMg

【弾き語り cover】 風の谷のナウシカ / 安田成美 【menon】

https://www.youtube.com/watch?v=v9xyxSnHUgQ

Tomi Covers "Nausicaa of the valley of the wind" 20210117

https://www.youtube.com/watch?v=wkwnE9aSI6c

風の谷のナウシカ Instrumental 小平市立上宿小学校 音楽委員会・音楽クラブ

https://www.youtube.com/watch?v=vR6hhv9ES2w&t=24s

篠原ともえ小林健樹 「風の谷のナウシカ

https://www.youtube.com/watch?v=KriqAddg4eU

【合唱曲】 風の谷のナウシカ ★東京多摩少年少女合唱団

https://www.youtube.com/watch?v=OT3Z8QIHFTI

●最近発表された気になった曲の、メモ。

nirvana  dodo · tofubeats

https://www.youtube.com/watch?v=pspVbSKogas

CHAI - ACTION - Official Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=tCIET0cWfYU

中島愛 - GREEN DIARY (Full Ver.)

https://www.youtube.com/watch?v=fuqb5SkqLUc&feature=youtu.be

2021-01-19

フロイトの女性性についての理論への疑義を示しながらも、精神分析フェミニズムは、基本的には同じ方向を向いたパラレルなムーブメントなのだという見解が述べられていて興味深かった(精神分析が「声を与えられてこなかった者に声を与え」るものだというのは、なるほどと思った)。以下、『精神分析にとって女とは何か』第一章「精神分析フェミニズム---その対立と融合の歴史」(北村婦美)より。

《(…)よく引き合いに出される「解剖学的性差は宿命である(Anatomy is destiny)」といったフロイトの言い回しは、しばしば「生まれつきの生物学的性差がそのまま心理学的な女性性、男性性を決定づける」(…)という生物学主義と誤解されている。しかし、フロイトの主張をよく読むと、女性性はペニスのない自分の解剖学的形態に女性本人が気づいた時から始まるとされている。フロイトの女性論は、実は出生後に受けた心理的印象から女性性が発展してくるという、構築主義敵な考え方なのだ。フロイトは、女性性や男性性といたジェンダーは自然に当たり前に発展してくるのだという素朴な生物学主義に待ったをかけ、ジェンダーの生り立ちには生後の生育環境から受ける心理的影響も関係しているという発想を持ち込んだのである。》

《加えてフロイトは、ヒステリーを患う女性たちの話に耳を傾けることを通じて、それまで社会的には本当の意味で声を持たない存在だった彼女たちに声を与え、彼女たちの主体を立ち上がらせる手助けをした。催眠、前額法、そして自由連想と、当初は治療者が圧倒的な能動者として受動的な患者に命じたり影響を与えたりして「治す」という治療者-患者関係を取っていたフロイトは、徐々に治療のプロセスを進める主体性を患者へと委譲していった。もちろんフロイトは、最初から意図してこのような歩みを進めたわけのではない。けれども時代を振り返ってみると、こうした精神分析のムーブメントは、ジェシカ・ベンジャミンのいうように、女性が自分たちの声を獲得しようとするフェミニズムのムーブメントと、ちょうどパラレルに進んでいたことがわかる(Benjamin1988)。アンナ・O・ことベルタ・パッペンハイムは、精神分析の始まりを告げる『ヒステリー研究』に登場するもっとも有名な女性患者であるが、彼女はブロイアーとの「お話し療法(トーキングキュア)」後しばらくの療養期間を経て、当時ユダヤ人社会の中でも日の当たらない存在であったユダヤ女性や孤児たちの状況を調査したり、その権利を保護したりする運動を率いる人物になっていく。「家庭内に閉じこめられた娘」であり「ヒステリー患者」という受動の極みに置かれていた人が、かつて誰も挑戦したことのない課題に挑む能動的かつ創造的な人物へと立ち上がっていったのである。実際1909年、フロイトアメリカ クラーク大学で「症例アンナ・O」について講演しているのと同じ年、まさにその「症例アンナ・O」であったベルタ・パッペンハイムは、同じ北米大陸のカナダ トロントで、国際女性会議に出席するまでになっていたのだ。》

精神分析フェミニズムは、特に第二波フェミニズムの時代には対立関係にあり、まったく相容れないものとされていた。しかし両者は上記のように、声を与えられてこなかった者に声を与え、主体性を認められてこなかった者に主体を立ち上がらせるという意味で、同じ道を歩んできたのである。精神分析フェミニズムは、ジュリエット・ミッチェルやナンシー・チョドロウによって融合の道をたどり始め、そうして精神分析理論を用いたフェミニズム理論である「精神分析フェミニズム」が生まれた。そしてそれはジェシカ・ベンジャミンらによってさらに精緻化され、こんどは精神分析の内部に、新しいジェンダー論をもたらしつつある。》