2021-02-08

●『事故物件 恐い間取り』(中田秀夫)をU-NEXTで観た。最初の方の、大阪の芸人やテレビの世界を描写しているところがすごく充実していて面白かったのに、本格的にホラーの世界に入ってからは、いろいろ既視感を感じてしまう感じだった(まったく同じ幽霊が同時に二カ所にあらわれて、それをスマホで確認するというアイデアは面白かった)。

こんなにがっつりとホラーにしないで、主人公がテレビの世界で「事故物件住みます芸人」として人気が出ていく過程を描く話をメインにして、ホラーは、あくまでその物語の構成要素の一つとしてある、くらいの感じにした方が面白くなったのではないかと思った。

それと、気になったのは、本来、人智を越えた存在に対する恐怖であったはずのホラー表現が、単純に「暴力への恐怖」に置き換わってしまっているきらいがあるように感じられたこと(エグい暴力描写で怖がらせる、みたいな)。加えて、奈緒の恐怖の演技があまりに生々しいこともあって(観客の恐怖を引き出す媒介としての「恐怖の演技」、あるいは「恐怖という状態の表現」というより、ガチで怖がっている人を見ているように思えてしまう)、幽霊というより、卑近なものとしての暴力の気配を強く感じてしまって、観ていて少しキツかった。

というか、この映画を観て、「恐怖という状態に支配されていることの身体的表現」と「ガチで怖がっているように見える」というのは違うのだと言うことに気づいた。前者を観るのならいいのだが、後者を観るのは辛いし、キツいと思った。

2021-02-07

●劇場版『SHIROBAKO』をU-NEXTで観た。観ている時はけっこう盛り上がって、これは面白いと思っていたが、観終わってみると、急に気持ちがすっと冷めてしまった。それはおそらく、終盤の展開が「型通り」というか、お話の必然性よりも、「観客を盛り上げさせるための展開の形」の方を優先して、それに無理矢理合わせるように物語を展開させてしまっているからではないかと思った。

序盤に、すっかり寂れてしまった武蔵野アニメーションの様が提示され、たくさんいる登場人物たちも、皆、それぞれなんとか仕事をつづけてはいるけど、いまひとつパッとしないという状況が示され、いろいろ厳しいなあというところに、武蔵野アニメーションに、事故のようにして劇場版のオリジナル作品の製作の話が舞い込んでくる。現在の状態でこの仕事を受けるのは無謀なのだが、主人公の宮森は、現状を打破するためにもこの話を受けることを決め、かつて一緒に仕事をした人たちに声をかけはじめる。このあたりまでの展開はすごく面白かった。

元々、テレビシリーズ24話分で蓄積された魅力的な登場人物たちの厚みがあるので、それぞれの人物の現状(成長や変化)が示されるだけで描写として充実するし、人物たちが再結集する様が示されるとわくわくしてくる。ただ、この時点で懸念を感じたのは、ここで作られているアニメの企画や物語、キャラクターやメカ類のデザインなどがあまり魅力的に思えないこと。いや、魅力的に思えないというより、作品としての方向性や統一感が見えないことだった。とはいえ、それはちょっと贅沢な要求でありすぎるだろうと思って観ていた。

見終わった時点で不満足が残ってしまった原因は、作品のクライマックスとして設定されているであろう、最後に置かれた二つの困難(1.完成直前に、元々その作品を作ろうとしていた製作会社からいちゃもんをつけられる、2.封切り直前になって、監督が出来に満足していない様子を示す)の「乗り越え方」に具体性がなかった(説得力が感じられなかった)からだと思う。

(1)の困難にかんしては、ボイスレコーダーに音声が残っていたことで解決するのだが、録音があるのなら、これは最初から大した困難ではないことになる。弁護士に任せておけばいいような案件で、女性二人が大げさに相手の会社に乗り込んでいくまでもない(その必然性がない)のではないかと思ってしまう。(2)にかんしては、封切り直前で、ギリギリのスケジュールで作り直すその過程はまったく示されず、その代わりに、製作された作品の(作り直された後の)クライマックスシーンが示される。この場面をつくるのは、たしかにとても大変なことだろうとは思う。しかし、この場面そのものが面白い場面だとは、ぼくにはあまり思えなかった(作っている作品が面白そうに思えないという弱点が、最後に拡大されてしまった感じ)。だからこれも、クライマックスのためのクライマックスのように感じてしまった。

この物語に、不自然に大げさなクライマックスなど必要ないはずなのに、クライマックスを不必要に派手なものにしようとしているのが納得できなかったのだと思う。

2021-02-06

●おお、「文學界」で成田悠輔さんの連載が始まっている。第一回は、「測らない経済」というアイデアというか、コンセプトが示され、その具体的なイメージは次回以降に示されるということだけど、次がはやく読みたい。今後の展開が楽しみ。

《お金から解放されるにはまずお金が必要だという世界観の中に住むかぎり、私たちがお金から解放されることはない。薬物から解放されるためにはまず薬物で落ち着く必要があるという中毒者の泥沼そのものだからだ。》

《真に必要なのはBIや金ではない。稼げない人間、働けない人間でも何の引け目も感じずに生きられるような経済観と人生観への転換なのだ。》

《そもそも経済は測ることの支配だ。順位を付けられるものたち、数えられるものたちに注目し、交換や増殖などの変換を加えると経済が発生する。しかし、今日の世界を見渡せば、数えられるものは驚くほど少ない。というか、数えたり順位を付けたりして意味があると私たちがとことん思えるものはどんどん減っている。》

《歴史を振り返っても、測ることが廃棄されたことはほとんどない。かつて、経済が壊れているという感覚は「資本主義」や「市場原理主義」、「新自由主義」の問題だと語られていた。それに対置されたのが、「社会主義」や「共産主義」、そして微温的な「社会民主主義」だ。だが、そのいずれの主義も計測主義には手を触れなかった。人の労働を測ること(物象化)への嫌悪は示しても、小麦や布を測ることを停止しようとはついぞ考えなかった。あくまで数量を量り、値段をつけることは前提として、数量と値段の計算と配分をどう変革するかに腐心した。》

《測定こそ始原だというワナを逃れて、測らない経済は想像できないだろうか?》

(成田悠輔「未来の超克」第一回 測らない経済(序)より)

2021-02-04

●以下は、『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』(仲正昌樹)の第三章「大衆は「世界観」を欲望する」の「陰謀論という「世界観」」という節からの引用。アーレントの分析は、びっくりするくらい「今の日本」にあてはまる。なお「※」は、ハンナ・アーレント全体主義の起源』の引用部分からの孫引き。

(今の日本と、第一次大戦後のドイツやロシアと違っている点は、特定の政党が「世界観」を与えるのではなく、自然発生的にあらわれた「陰謀論」が、SNSや口コミで拡散されるということくらいか。《それは人間が愚かだからとか邪悪だからということではなく、全般的崩壊のカオスの状態にあっては、こうした虚構の世界への逃避こそが、とにかく最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるように思えるからなのである》、《この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている》と。)

(アーレントによると、全体主義を支えるのは(特定の所属先をもたない)大衆であり、全体主義の運動は国家的なものではなく、国家を超えた、また、国家に抗するようなものだととらえられているところが、一層リアルであり、不気味でもある。)

《(…)不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる「世界観」。それを与えてくれたのがナチズムであり、ソ連ではボルシェヴィズムでした。》

《(※)人間は、次第にアナーキーになっていく状況の中で、為す術もなく偶然に身を委ねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直した、狂気を帯びた一貫性に己を捧げるかという前代未聞の二者択一の前に立たされたときには、常に論理的一貫性の死を選び、そのために肉体の死すら甘受するだろう---だがそれは人間が愚かだからとか邪悪だからということではなく、全般的崩壊のカオスの状態にあっては、こうした虚構の世界への逃避こそが、とにかく最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるように思えるからなのである。》

《とにかく救われたいともがく大衆に対して全体主義的な政党が提示したのは、現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を支配すべき選民であるとか、それを他民族が妨げているといった架空の物語でした。》

《(※)全体主義運動は自らの教義というプロクルステスのベッドに世界を縛りつける権力を握る以前から、一貫性を具えた嘘の世界をつくり出す。この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている。ここにおいて初めて根無し草の大衆は人間的想像力の助けで自己を確立する。そして、現実の生活が人間とその期待にもたらす、あの絶え間ない動揺を免れるようになる。》

《空想世界といっても、現実世界から完全に切り離されたものではなく、現実を(かなり歪曲した形で)加工したものが基盤となっています。大衆が想像力を働かせやすいエピソードをちりばめながら、分かりやすく、全体として破綻のない物語を構築するためにナチスが利用したのが「反ユダヤ主義」と、ユダヤ人による「世界征服陰謀説」でした。》

《(※)周知のようにユダヤ人の世界的陰謀の作り話は、権力掌握前のナチスプロパガンダのうち最大の効果を発揮するフィクションとなった。反ユダヤ主義は十九世紀の最後の三分の一以来、デマゴギープロパガンダの最も効果的な武器となっており、ナチスが影響を与えるようになる前、すでに一九二〇年代のドイツとオーストリアで世論の最も強力な要素の一つになっていた。》

《これまでにお話ししたように、ドイツではユダヤ人の同化がかなり進み、見た目だけでは普通のドイツ人と区別がつかない人が多く、学者、法律家、ジャーナリスト等、知的職業の人の割合がかなり高かった。その一方で、ユダヤ教の信仰や習慣を強く保持している人もいました。ドイツが急速に工業化を進めたのに伴って、東欧から多くのユダヤ人が移住してきましたが、そういう人たちは、いかにもユダヤ人という風体で、特定の地域に集まって貧しい暮らしをしていました。》

《私たちの中国人や韓国人に対する偏見がそうですが、自分と見た目がほぼ変わらない人が、自分から見て違和感のある振る舞いをしているのを見ると、余計に気に障るということがあります。ユダヤ人に対する偏見を拭えない人、自分は能力があるのにどうしてもっと認められないのだろう、社会がおかしいのではないかと不満を持っている人にとっては、本来ドイツ人とは全然違う異分子、「外」から圧力をかけている連中の一部が、表面的に姿を変えて、「民族共同体」の「内」にも潜り込んでいて蝕んでいるかのようにも思えてきます。ゴビノーやチェンバレンの人種理論は、そういう見方を正当化してくれます。ユダヤ人は格好のターゲットだったのです。》

 

2021-02-03

●火曜 The NIGHTでは、たこやきレインボーがゲストで、司会の矢口真里が「あれ、たこ虹ちゃんたちは四人組みだっけ」と問うと、メンバーは「一人は今、実家に帰ってます」と答えた。この緊急事態宣言の時期に「実家に帰ってる」とはどういうことだろうと軽く違和感を覚えたのだが(たこやきレインボーはメンバー全員で共同生活をしている)、それきり忘れてしまった。そして、夜が明けると下の記事が出ていた。

たこやきレインボー春名真依、不適切発言により活動自粛(音楽ナタリー)

https://natalie.mu/music/news/414845

どのような不適切なことを言ったのかは記事に書かれていないが、ネットで検索するとでてくる。考えすぎで、たんなる杞憂であればいいのだけど、この件についてちょっと気になってしまった。

ファンの多くは、たんに言葉の意味を間違って憶えてしまっただけ、たんなる勘違いだと言っているが、「部分」だけ切り取ってみれば間違いなく差別的な発言であリ、もし、完全な勘違いで、本人に差別の意図がまったくないのだとしても、そのような「勘違い」がどのような情報経路によって生じたのかが、気になってしまう。どうして、よりにもよって「その言葉」を勘違いしてしまうのか、と。

このメンバーは二十歳で、若いとは言え子供というわけではない。そして、たこやきレインボーは大阪で活動するグループだ。ならば、この言葉にかんして、そして、この言葉をめぐる環境のデリケートさにかんして、まったく無知であるとは考えにくい。ぼくが気にしすぎなのかもしれないが、それが何にしろ、人がちょっと変なことを言い始めるというのは危険信号なのだと思う。

最近、ツイッター高知東生が、もう少しで陰謀論に陥ってしまいそうだったところを、「高知さんの情報は偏っています」と仲間が指摘してくれたことで目が覚めた、危なかった、といった発言していた。YouTubeで関連動画を次々と観ていったら、知らぬ間に「そっち」へ誘導されていた、と。また、おばあちゃんにスマホをプレゼントしたら、しばらくして「あの芸能人は朝鮮人だ」みたいなことを言い始めて、そんなことを言う人ではなかったのにと、スマホを調べさせてもらったら、YouTubeの「そっち系」の動画ばかりが履歴にあった、というような話も聞く(YouTubeの「おすすめ」や「関連動画」の罪はとても重い)。人の頭をいかれさせてしまうような情報に触れてしまう機会は増えているように思う。

だからこそ、たこ虹のメンバーが、たとえ「勘違い」であっても、そんなことを言ってしまうに至った情報摂取の経路(あるいは情報環境)が気になってしまう。所属事務所が《本人および家族と協議のうえ》で活動自粛としたというのは、懲罰というよりは保護であり、ケアであるのではないかとか思ってしまうのだった。

2021-02-02

●有名なプリ・ド・ローザンヌ。今年はコロナの影響で、それぞれのダンサーが、自分の所属するスクールやスタジオで踊っているところを撮った映像で審査するという形になっているようだ。ダンスだけでなく、ダンサーごとに、それぞれのスタジオの雰囲気の違い、空間の感じや光の射し方の違いが観られるのは楽しい。

(別に詳しいわけでも、強く興味があるわけでもなく、ただなんとなく流して観ているだけだが---だからこの程度の感想なのだが---観ていると知らないうちに時間が経っている。)

Prix de Lausanne 2021 - Video Edition - Day 1

https://www.youtube.com/watch?v=wpOrfRa5SUk