2021-05-09

●最近は、一万円で本三冊買えない。たとえば、3850円の本、1980円の本、4840円の本(税込み)を買うと、もう一万円を越えてしまう。ただ、この一年以上は、交通費と飲み会代の支出が大幅に減ったので、割と躊躇無しに本を買うようになった。

2021-05-08

●なるほど。激辛好きの人のことも、激辛なものを我慢して完食するみたいな動画がYouTubeに沢山あることも、意味がよく分からなかったのだけど、そういうことなのかという納得があった。

《リリーさんが病んでたとき、どんな料理にもタバスコかけまくるぐらいの味覚障害だったんですけど、中森明菜が料理にタバスコかけまくってたのも、地下アイドルが蒙古タンメン中本大好きなのも、どこか同じような理由がある気がします。》(吉田豪)

https://twitter.com/WORLDJAPAN/status/1390620240665452546

《鬱で動かない脳を、香辛料の刺激で無理やりたたき起こせるから調子が良くなると感じるんですよ。昔自分もよくやりました。》(早川清一朗@ライター)

https://twitter.com/hayakawaseiich2/status/1390624830383263748

抑うつ状態は味覚も痛覚も鈍るから辛い物とか味の濃い物が美味しく感じるし、唯一感覚の刺激がはっきりしてるのでむしろそれしか受け付けられない…私がそうだった(今もそう)》(なまけモン)

https://twitter.com/non_biri_5/status/1390641973795594243

(激辛の食物を完食するということの意味は、困難なことを成し遂げることの充足感、達成感が、自己肯定感を高めることに繋がるというだけではなく、辛さによるフィジカル→メンタルへの直接的作用ということもあるのだな、と。あるいは、辛さがメンタルをアゲるというのは、物質的、隠喩的の双方から作用するのかもしれない。激辛を食べている人の動画を観ることで自分もアガる、ということもあるのかもしれない。)

2021-05-07

●最近のアイドル曲をYouTubeで聴く(情報はほとんど「アイドル三十六房」から)。

MIC RAW RUGA(laboratory)/SEE YOU(Let's Dance)

https://www.youtube.com/watch?v=gvnOdAe-jSY

Newruru 「透明ロンリネス」MUSICVIDEO

https://www.youtube.com/watch?v=q9s1GplARMs

SONOTA / インドアミュージックマン -Official Music Video-

https://www.youtube.com/watch?v=OAN08hrIxqA

ミ米ミ - 檸檬なあの娘 (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=A_AiWTP5U4c

今日が終わる前に - 柊ゆいの from ピューパ!! (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=VrOuJXCPwjA

Vanilla - ピューパ!! (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=JF2IQTORxOM

SZWARC - Emotion (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=3Rb9r6cTS7M

不要不急 feat.KOMA / FEATURES #features_jp

https://www.youtube.com/watch?v=Q9XxBn0kgIw

RAY - 世界の終わりは君とふたりで/The End of The World with You (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=5IEz5dtQeV4

せかいシティ【LIVE MUSIC VIDEO】「世界はもうぼくのものなのに」

https://www.youtube.com/watch?v=06N9EbZmclA

KOTO / BACK TO THE UNIVERSE

https://www.youtube.com/watch?v=nmZEYL4gths

 

2021-05-06

●neteはいろいろ評判の悪いプラットホームになってしまったけど、74本も記事を投稿していて、これを全部移動させるのは面倒なので、しばらくはnoteへの投稿を続けるつもり。で、そのnoteの全体のヴュー数がようやく10万を越えた。切りのいいこの機会にリンクを貼っておく。

note.com

noteには基本的に、(1)過去の(美術)作品写真と、(2)雑誌などに掲載されたもので本になる予定のないテキストの、二種類を投稿している(すべて無料で見られます)。

●『大豆田とわ子と三人の元夫』の第四話で、市川実日子が浜田信也と食事して楽しかったと言ってたのは実は嘘で、ばっくれていたことを松たか子が知って、その後、喫茶店でパフェを食べてる市川実日子松たか子が対話する場面がすごかった。こんなセリフの応酬がありえるのかということにびっくりする。小津映画の野田高梧か、というくらいすごい。「人のことは言うよね」「人のことは言うよ」とか「そういう意味でいったんじゃないよ」「そういう意味で言っていいよ」とか。

●また、ドラマ冒頭で松たか子が、子供の頃に書いた「もうひとつの人生」という文言の「書き初め」を片付けの途中で発見するという小さなエピソードがあるが、もしかすると今後、並行世界展開(SF展開)というのもあり得るのか。このドラマのことだから、あり得ないとまでは言い切れない。

そもそも、三人の元夫との生活というのが、三つの異なる並行世界とも言えるし、娘が、医者になるという目標を諦めて、若いうちに金持ちと結婚すると言い出したのも「もう一つの人生」だし、松田龍平市川実日子への思いを貫いて松たか子と結婚しない並行世界もあり得るので、SF展開なしでも、充分に並行世界を意識させるドラマ構造ではあるが。

2021-05-05

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第四話。こんな展開あるのか、という驚きの回。市川実日子は、誘拐される人であると同時に誘拐する人でもあった、と。また、今回はじめて松たか子の「労働」が描かれなかった。

今回の中心にいるのは市川実日子だと言えるが、松田龍平を媒介とすることによって市川実日子石橋静河とが対比的に示されるとも言えるし、三人の元夫のなかでの松田龍平の特異性が露わになるとも言えるので、松田龍平回であるとも言える。元夫たちのなかで松田龍平のみが松たか子に対する執着をもっていないように見えたのは、松田にとっての執着は松たか子ではなく市川実日子にあったから、ということになる。

ジャンケンのルールが分からないという市川実日子に対して、石橋静河囲碁のルールを一瞬で理解する。この点からも二人がこのドラマのなかで対比的に配置されているのは明らかだろう。石橋静河はすばやくルールを把握し、勝ち負けのゲームのなかで戦略的に勝ちにいく。市川実日子はルールが把握できないからこそ、勝ち負けのゲームとは異なる基準で動くことができる(異なる基準でしか動けない)。石橋静河が、松田龍平にとっては親友の彼女であるという「関係性の問題」は、実はそれほど重要ではなく、市川との対照性こそがドラマの構造上では重要だと思われる。

(ここで、勝ち負けのゲームを象徴するものとして「恋愛」があり、故に石橋は恋愛に積極的であり、市川にとってそれは困難であり邪魔であるようなものとなる。)

松田龍平ナチュラルに女性にモテる人であること、また、そうであるにもかかわらず男女の関係を避けようとする人であるということは、第一話で既に示されていた。また、松田龍平松たか子に対して執着をもっていなさそうだということも、一話で示されていた。だが、これらの特徴か松田龍平がもともと持っていた性質というより、市川実日子との関係によって、そのように振る舞うようになったのだ(なったのであろう)ということが、今回、新たに示された。松田龍平は、恋愛を受け入れない人のことが好きだから、自らもまた恋愛を放棄する。

(一話で松たか子が、四話で石橋静河が、松田龍平のマンションで流しの下の物入れに隠れる。二人が同じ位置を占める。つまり、この物入れに隠れる女性は松田龍平にとって「本命」ではない、ということになる。)

浜田信也にデートに誘われた市川実日子を、松たか子がドレスアップさせる場面で、着飾った自分の顔を鏡で見た市川は「母さんそっくり」と言う。市川は、(おそらく)虐待されている子供を救うために誘拐を行い、多額な祖母の遺産をそっくり「児童施設」に寄付する。彼女の破天荒な行動は基本的に「家族に恵まれない子供を救う」という方向性をもっている。これは彼女自身の境遇から来ているように思われる(だが市川は、自分のアイデンティティをそこに求められることを強く拒否する)。

三回結婚して三回離婚している(四十人の社員に対して責任をもつ社長である)松たか子と、恋愛という関係性を受け入れない(会社という組織に属することを拒否する)市川実日子ともまた、対比的な関係にあると言える。ここで市川の「サイパンに住んでる人がグアムに旅行に行く?」というセリフが思い出される。浜田信也と自分が似ていてとても気が合うが、付き合うことには消極的であるということの表現だが、これはそのまま、松たか子市川実日子とが基本的に異質な存在であるからこそ、二人の関係が三十年にも及ぶのだということの表現でもあるだろう。

●二人の子役の選び方、およびその衣装がすばらしい。演出とはこういうことなのだなあと思う。そして、横断歩道を渡れない市川実日子に付き添って横断歩道を渡る松たか子。二人の関係をこれだけのことで表現するのがすごい。

市川実日子が「最後の晩餐」と言っていたコロッケを買っている場面で少し嫌な予感が漂うのだが、そこに松田龍平がやってきてコロッケが彼にも与えられる(コロッケがシェアされる)ことで、少しホッとする。

2021-05-04

●八年ぶりくらいに書いた小説を、ある雑誌が掲載してくれそうで、とてもうれしい。掲載はまだかなり先になるようだけど、うれしいので書いてしまうのだった。

原稿用紙換算で三十数枚のごく短い小説で、八年前くらい前に「群像」に掲載された四つの短篇小説シリーズ(「「ふたつの入り口」が与えられたとせよ」「ライオンと無限ホチキス」「セザンヌの犬」「グリーンスリーブス・レッドシューズ」)のつづきとなるもの。

(小説を読んでくれた人が感想のメールのなかで「思弁的な空間」という言葉を使っていたのだが、自分がやりたいことはまさに思弁的な空間の構築なのだと思った。思弁的な空間性と思弁的な身体性の絡み合い、とか。)

実はぼくは、自分が過去につくった作品やテキストのなかで、自分で一番「手応え」を感じているのが、この短編小説シリーズなのだが、ほぼ誰にも評価されていない。

郷原佳以さんが「文學界」の「新人小説月評」で半期のベスト5の一つに挙げてくれたのと、beco cafeというブックカフェの店長が国内小説の年間ベストに挙げてくれて、その記念にカフェで磯﨑憲一郎さんとトークイベントをした、というのが数少ない反響だった。今回、小説を載せてもらえそうな雑誌を編集している人は、そのトークの現場にいた。

(前に書いた四作と、新しく書いた作品を合わせた五作をまとめて本にしたい、まとめて物質として残しておきたい、という気持ちが強くあるのだが、難しいかなあ…、と。自分のすべてが---合わせても原稿用紙換算で160枚程度しかならない---この短篇小説群に入っている、とさえ思う。良くも悪くも「自分はこうなのだ」と認めざるを得ない、というような何かとして。)

2021-05-03

●毎年、五月になると、毎日、かなり多量の文章を読み込み、それにかんする少なくない量のテキストを書くが、それは公表されることなく、おそらく数人の目に触れるのみだ。それでお金がもらえることと、稀に、幸福な出会いがあるということがモチベーションとなる。特に、幸福な出会いがあることが大きな喜びだ。だが、その喜びを他人に(本人にさえ)言うことができないというもどかしさ。