2021-05-02

●『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマ本体には「泣く」要素はほとんどないのだが、エンディングでこの曲が流れると毎回泣きそうになってしまう。

STUTS & 松たか子 with 3exes – Presence I feat. KID FRESINO (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=IRDoeQZ12-Y

《心の中に残る後悔が/浅い眠りの中で蘇る/あの日のあなたはとても輝いて見えた/夢はもう覚めた》

この四行、渋すぎる。「夢はもう覚めた」という一行には、輝いていた過去の夢がもう覚めてしまったという後を引く感じと、その夢はもう覚めた夢なんだという突き放す感じとの両方が重なってあるのが渋い。一行目に「後悔」があって、それは二行目で「浅い眠りの夢」として立ち上がったもので、それが三行目の「輝き」にかんするものだということによってノスタルジーが惹起されかかるのだが、四行目でその夢が既に「覚めた」ものであるという認識がたちあがることで、ノスタルジーか急速に相対化されて、ある苦さの感触だけが残る。感情の揺れ動きが短い時間内に畳み込まれることで、後悔とノスタルジー、その惹起と否定とが重なり合い、ある「過去」が「現在」において独自の質をもった苦さとして形作られるが、それは目覚めた時間のなかで瞬く間に過ぎ去っていく。

(ぼくが作詞家だったら、「心の中」と「眠りの中」とで「中」が重複してしまうのを避けようとすると思うのだが、それは本質的なことではなく別にどうでもいいことなのだ。)

(いやむしろ、「こころのなか」「あさいねむりのなか」と、おなじ「なか」が位置をずらされて(5、6音目と、8、9音目)反復することに意味・効果があるのか。)

2021-05-01

●『今ここにある危機とぼくの好感度について』、第二話を観た。

確かに、このドラマの制作者たちとぼくとでは、「現実に対する苛立ち」を共有してはいると思う。だが、フィクションをただ「苛立ちの共有の確認」としてだけ用いるというのは、フィクションに対する態度として支持できない。

このドラマの面白くなさは、弛緩し、単純化された「現実」がただ平板に反映されているだけで、そこにひねりも批評もないというところにある。だから、ただ気分が悪くなるだけで、笑えない。わざわざドラマを観なくても、新聞やネット記事に似たような話が出てくる。そういう話がそのまま(というか、過度に単純化、一般化されて)出てくるだけなので、このドラマとして独自の「面白がる」要素がほとんどない。いや、「現実」がそのまま反映されているのならまだ良いかもしれないが、過度に単純化され、図式化されているので、偏見を助長する紋切り型になってしまっているとさえ思われる。ここには、正義が負けて悪代官が勝つ、逆転された「水戸黄門」(単純な「勧善懲悪」の裏返し)があるだけなので、負けた側の苦さや悔しさもそれほど伝わってこないし(かろうじて、鈴木杏の演技によって表現されているが)、権力の側がなぜそんなに強いのかという理由も分からない。

(現実に対する批評、あるいは、現状の構造に対して何かしらのひねりが加えられること、によって、はじめてコメディとなり得ると思うのだが、ここにあるのはただの現実の紋切り型化された反映なので、面白くないのだと思う。)

(前回が「水戸黄門」で、今回が反転された「水戸黄門」というのでは、この作品によって生まれる新たな批評的視点や構造がないということだと思う。)

大学側の権力の描き方も、それに対するプロテスト側の描き方も、工夫がなく紋切り型にみえる(特にプロテスト側のイメージが古すぎる上に、抵抗の策が弱すぎる)。今回、どちらの立場とも言えない存在として波乱を起こす役割りにある「変人教授」のキャラにしても、「駄目な昭和のおじさん」の紋切り型でしかなく、工夫が感じられない。不正を隠蔽しようとする権力者たちがあり、それを暴こうとするプロテスト側がいて、そのどちらともいえない第三項である「昭和の駄目おじさん」が暴れたことが、結果として権力者側の利益となった。このようなドラマの構造は簡単過ぎないだろうか。

(国広富之は、善人だけど気が弱そうで、強い押しには屈してしまいそうなキャラに、はじめから見えてしまうので、実際にそうなっても、ああ、やっぱりということにしかならない。プロテスト側の人物たちが特に、皆、ひねりもないし厚みも無いように見えてしまう。)

(不正疑惑が湧き上がっている時に、当事者の辰巳琢郎が何をしているのか、どういう態度なのかがまったく分からない、というのはどうなのか。本当に一番悪い奴のことが描かれない。)

(このドラマで構造的に面白いと思える点があるとすれば、松坂桃李鈴木杏が、立場的にはほぼ同じ境遇なのにもかかわらず、立ち位置的には真逆にあるというところだ。だからこそこの二人は、あと一歩で互いに心が通じ合いそうになりながらも、最後には決定的に相容れないという悲劇となる。逆に言えば、敵同士であるはずなのに親しみが生まれる。この点には、批評性を感じる。)

このドラマが、今後面白くなっていくかもしれないという期待は、第二話によってほとんどなくなったように思うのだが、ただ一つ気になるのは松坂桃李の存在だ。このドラマで紋切り型を逃れているのは彼だけだろう。おそらくこのドラマは松坂桃李のビルディングスロマンであると思われるのだが、ならば、松坂桃李の人物像を最終的にどこに持っていこうとしているのか、このドラマで、この人物にあり得る変化または成長とは、どういう形としてあるのか、という点には、まだ興味が残っている。なので、次回も(期待はしないで)観る、と思う。

(松坂桃李の、ほとんど多重人格者のような場当たり的な振れ幅の大きさ、キャラの掴めなさは確かに面白い。松坂桃李のキャラだけが、この作品によって新に生まれた何か、になり得る可能性があるように思う。)

第一回を観た時の感想と、ほぼ同じ事しか書いていない……。

2021-04-30

●『疾風怒濤精神分析入門』(片岡一竹)を読んでいると《ことほど左様に》という言い回しがでてくる。94年生まれだという若い筆者からこのような言葉が出てくることを意外に感じた。ぼくは、現在の人でこの言い回しを使う人を菊地成孔くらいしか知らない。グーグルで検索してみようとして「ことほど左様に」と打ったら「宇多丸」とサジェストされるので、ライムスター宇多丸も使っているのだろう。

ぼくには、この言い回しは、一昔前の、何事にも一家言あるような文化人が使うものというイメージがあり、そういう言い回しをあえて使うことに対する恥ずかしさのような感情がある(「何事にも一家言ある」という言い回しも同様で、普段なら避ける語彙をここではわざと使ってみた)。

小説などでも、饒舌に語る文体として擬古文を使う例があると思うけど、同様に、菊地成孔宇多丸のような、ラジオの人気パーソナリティーで喋りの達者なサブカル系の人が意図的に古い言い回しを使うというのは分かるところもある。古い言い回しの方が定型性が強いので即興的にリズムを作りやすい。ある定型のなかに言葉をはめ込んでいく感じで喋ることで、言葉が立て板に水のように流れると同時にリズムと抑揚ができる。講談調というのか、文語的な感じに寄せる方が喋りが上手く聞こえる。これはディスっているわけではなく個人的な感覚の問題だが、ぼくにはこれが恥ずかしい。

特にぼくは、ラジオで映画について語る時の宇多丸口調(宇多丸文体)が恥ずかしい。古い言い回しを使うというだけでなく、割と堅めの批評文や翻訳文の「堅い感じ」の形(と、堅めの語彙)をなぞってリズムをつくっている感じを恥ずかしく感じてしまう。

(恥ずかしいということは「嫌だ」ということとは違ってて、常にむずむずする居心地の悪さによって「気持ちよく乗れない」、あるいは「気持ちよく乗ろうとする時に常に湧いて出てくる躊躇がある」という感じのことだ。)

「名調子」に抵抗があるということだが、とにかくぼくは、流暢な饒舌が恥ずかしい。饒舌であっても、流暢でなければ恥ずかしくない。たとえば吉田豪は、語りを定型に当てはめることもないし、流暢になることもない感じがする。

(うーん。ここで書かれていることは上手く繋がっていないかも。昔の、何事にも一家言あるような文化人の口調をあえて使う---語彙のレベルで継承する仕草をみせる---ことの恥ずかしさと、流暢な文語的な語り口調---名調子---の恥ずかしさとは、別の問題として考えるべきか。)

(流暢な文語的語り口調に恥ずかしさを感じるのは、歴史的に、近代文学、近代芸術以降の感じ方で、そして今や、それこそが「古い」と言うべきものなのかもしれないのだが。とはいえ、伝統的な語りものそのもの---「講談調」ではなく「講談」そのものとか---に対する抵抗はない。)

(なぜ、映画評の流暢な語りが恥ずかしくて、ラップは恥ずかしくないのか。この感じ方は矛盾した、恣意的なものに過ぎないのではないか。とりあえず、ここには散文と詩の---機能や目的の---違いがあると言えるのだが、この違いもまた、近代以降の分類でしかないとも言える。)

(根本的な問題は、散文か詩かということではなく、外側に既にある形に当てはめられたリズムなのか、内側からその都度あらたに生成されるリズムなのか、という違いにあるのだと思われる。勿論、こんな簡単な二分法はありえなくて、この二つは常に同時にあり、重なっているはずだが。)

2021-04-29

●『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』、五話まで観た。たとえば、庵野秀明にはヴィジョンはあるがロジックはない、のではないか。ぼくが『シン・ゴジラ』にいまひとつ乗れないのはそのためだろうと思う。円城塔は、ゴジラを「存在させる」ためのロジックをつくろうとしているようにみえる。

(6=9がメビウスの環で解ける、というのには興奮した。)

2021-04-28

●『大豆田とわ子と三人の元夫』第三話、角田晃広回。おそらくこのドラマで元夫たちが離婚した松たか子にいつまでも執着するのは、彼女との過去は「良いもの」であるが、その良さは一方的に松たか子によって与えられたもので、自分はそれに対して何も返すことができていないという思いからなのではないか。前回の岡田将生は、「苺タルト」を彼女に返すことで執着から逃れられた。今回の角田晃広は「花束」を返す。過去に、松たか子が買ってきた花束を自分の母親が捨てた。その捨てられた花束を彼女に返すことになる。

この回で、松たか子角田晃広は対比的に描かれる。松たか子は社長としての責任から、自ら嫌われ役を買って出る。一方、角田晃広は器が小さく、自分の利益が少しでも犯されることを嫌い、恩着せがましく、偉い人に対して八方美人だ。おそらくその器の小ささによって、自分の母が松たか子に辛く当たることの防波堤になれなかった(間接的にしか描かれないが、離婚の大きな理由の一つはこれだろう)。

では角田晃広は、松たか子に何を返すのか。それはまさに、自分の「器の小ささ」そのものを松たか子に与えることで、責任感の強い彼女を少しだけ救う。自分自身の欠点・弱点とも言えるものを、逆転させて「花束」に変える。これは、自分自身の特性が彼女を救うことになったということであり、捨てられた自分自身が「花束」となり得たということだ。これによって、角田晃広は自分自身をも救い、過去から少し自由になったのではないか。

(だからこのドラマで、元夫たちと松たか子が「いい感じ」になる場面は、縒りが戻る徴候とは逆の、執着が切れる徴だと言える。)

松たか子には「現在」しかなく、いわば「現在」にあっぷあっぷしている状態と言える。対して元夫たちは、松たか子との「過去」と、新たな女性との「未来」の引っ張り合いの間にある。だが今回、その「未来」を構成すべき新たな女性たちとの関係がことごとくフェイクであることが露呈した。このドラマでは、ドラマチックな展開は基本的にフェイクであるようだ。俳優(瀧内公美)が語るドラマのようなセリフはまさにドラマからの引用であり、石橋菜津美が語る「派遣切り」や「パワハラ」の物語は、いかにも「現代的な社会問題」からの引用なのではないか。ここでは、いかにもそれらしいものこそが疑わしいようなのだ。ならば、親友の彼女との関係という、石橋静河松田龍平のこれもまたありがちでドラマチックな展開も、どこまでも怪しい匂いがするものとなる。

(今のところ、過去の方向でも未来の方向でも、アンチ恋愛ドラマであるようにみえる。)

●気になるのが、これまで、松たか子セキュリティホールであり、元夫たちにとっては松たか子への媒介として機能していた娘(豊嶋花)の方針転換が、今後どのような影響をみせるのかという点だ。

●このドラマでさすがやってんなあと思うのは、たとえば今回は、会社に所属する若手建築士の野心作が予算の都合でボツになって、不満に思った建築士は会社を辞め、社内にも対立が出来てゴタゴタしている状況で、社員たちが帰った後の会社に一人ぽつんと戻ってきた松たか子(散らかったペットボトルを拾うというアクションが、松たか子の孤独と疲労を的確に表現する)が社長のデスクで見て癒やされているいるのが、ヘイダル・アリエフ・センターの写真だということ。これはザハ・ハディッドの建築で、ということは勿論、建たなかった新国立競技場への匂わせということだろう。建たなかった若手建築士の野心作と、建たなかったザハ・ハディッドの野心作が重ねられている。松たか子は、社長として経理の意見を受け入れボツにしたが、個人としては若手建築士の方に思い入れをもっていることが、この場面で現わされていると思う。

●あと、みんなが無責任にいい加減なことを言っている様子が、松たか子には「ピヨピヨビヨ」と聞こえるというのは、デヴィッド・リンチが確か『オン・ジ・エアー』でやってたことだな、と思った。

2021-04-27

●テレビドラマが、ある程度「わかりやすさ」や「お約束」「紋切り型」に譲歩しなければいけないということは理解する。分かりやすい物語をみてすっきりしたいという欲望に奉仕することを要請されているだろう。とはいえ、『大豆田とわ子と三人の元夫』を観ると、地上波のテレビでここまでできるのかという驚きがあり、『今ここにある危機とぼくの好感度について』には、地上波ではがんばってもここまでなのかという失望感がある。いや「今ここにある危機…」だって、物語-主題という意味ではある程度は先鋭的とも言えて、意義があるとは思うが…。この二つのドラマの違いは、脚本や演出の洗練度以外になにかあるのだろうか。

一つ言えるのは、「大豆田…」には、必要以上のものがたんまり入っているということはある。さらっと観ても特に負担無くなめらかに面白く観られるが(おそらく地上波ではこれは必須だろう)、さらっと観るだけなら不必要にも思える作り込みがいろいろある。

たとえば、松たか子は中堅の建築会社の社長で設計士でもある。その仕事場でみられる図面や建築模型やスケッチが、けっこうちゃんとしている。比べるのはなんだが、(ぼくはこのドラマをとても好きだけど)『結婚できない男』の阿部寛は、住宅を手がける建築家としてそこそこ名が知られているという役だったが、ドラマの中で彼のつくる住宅は、規格品ばかり使う普通の建売住宅みたいにしか見えないし、たしか『まだ結婚できない男』で、店舗の内装の仕事を受けるのだが、そのためのスケッチもすごくダサいものだった。だけど、それでもドラマとしてはちゃんと面白い。一方、「大豆田とわ子…」の松たか子の会社の若手のホープみたいな人物の設計した野心作のスケッチは、そこそこちゃんと野心作に見えるものではあった。そして、その野心作ではあまりに予算がかさむため、社長の松たか子が自ら修正案をつくるのだが、それもまたちゃんと、あー、野心作を修正するとこうなるよね(悪くはないが軸がブレて冴えない、みたいな)、という感じのものになっていた。

 (「大豆田とわ子…」に描かれる、簡単に何が正義が確定出来ないような、繊細で多様な力の作用の表現---たとえば、松たか子の、社長として社員に対する振る舞い方や、社員たちの関係など---に比べると、「今ここにある危機…」に描かれる「大学」の権力構造は、分かりやすくはあるが、通り一遍であり、あまりに雑にカリカチュアされているように思われる。)

たとえば音楽。エンディング曲は(今のところ)、STUTS & 松たか子、feat. KID FRESINO、BIM、NENEとなっている。STUTSも、KID FRESINOやBIMやゆるふわギャングも、もちろんとても活躍している人たちではあるが、地上波ゴールデンのドラマの主題歌としてはややポピュラリティが足りないだろう。そこに、松たか子をボーカルとして入れることで、先鋭性とポピュラリティを両立させることができている。ここが重要なのだが、たんに尖った人と有名人とを適当にコラボさせているというだけでなく、このコラボレーションに必然性があるような作品としてちゃんと成立させている。こういうことをちゃんとやれているところに、「テレビにまだある可能性」が感じられる。また、挿入歌をグレッチェン・パーラトが歌っていたり、ドラマ本編になにげに長岡亮介が出ていたりもしている。つまり、尖ったところが、尖っていると目立たない形で入っている。松たか子松田龍平のドラマが観たい人には、それは必要ないものかもしれないが、しかし邪魔にもなっていない。このような贅沢は、これを贅沢と意識しない人に対しても、なにか「贅沢感」のようなものとして感じ取られるのではないか。

(これはある意味、メジャーな文化・資本が「尖った人」を懐柔して、自分の養分として取り込んでいるとも言えるのだが、尖った人たちを養分として取り込むことで活性化しようとする意欲すら失っているようにみえる現在の地上波テレビの世界で、これは希有のことであるように思われる。)

(ただ、伊藤沙莉のナレーションは、良いと言えば確かに良いのだが、あまりに「映像研」からそのまんま借りてきている感じがして、絶賛するのには抵抗を感じる。)

2021-04-26

●けっこう身近なところでコロナに感染した人が出たようだ。具体的には書かないが、友人の友人の友人、というくらいの近さの人(つまり、間に二人を介して繋がる関係の人、ただ、この「間の二人」はかなり近い関係)。友人の友人くらいの近さの人が濃厚接触者としてPCR検査を受けたが陰性だったそうだ。

イギリスの変異種は、感染速度が速く、感染力もきわめて高い(30~70%髙い)ということを、2月の時点で「町山智浩アメリカの今を知るテレビ」に出演したソーク研究所のパオ博士(ワクチン開発にかかわっていた研究者)が言っていた。「これまでのロックダウンでは感染拡大が止まらなかった」とも言った。イギリスのロックダウンは、日本の緊急事態宣言よりもずっと強い規制だろうと思うが、それでも駄目だったということを意識しておく必要はあると思う。イギリスでは、感染者の徹底的な洗い出しと行動制限によって、ようやく感染者数の減少がみられるようになった、と。日本でそれが出来るのか不安。

(パオ博士が言っていたイギリスにかんする情報は、当然日本の専門家も2月の時点で既に知っていたはずだと思うのだが、実際に変移種が日本で拡大し始めるまでほとんどこの件についての警告や啓蒙がなされていなかったようにみえる。)

(アメリカでは既に、町山智浩藤谷文子もワクチン接種を済ませていて、現在はこの番組でコロナの話題はほとんど出なくなっている。)

町山智浩アメリカの今を知るTV With CNN #135②

https://www.youtube.com/watch?v=enPwXrW28vk