2021-04-27

●テレビドラマが、ある程度「わかりやすさ」や「お約束」「紋切り型」に譲歩しなければいけないということは理解する。分かりやすい物語をみてすっきりしたいという欲望に奉仕することを要請されているだろう。とはいえ、『大豆田とわ子と三人の元夫』を観ると、地上波のテレビでここまでできるのかという驚きがあり、『今ここにある危機とぼくの好感度について』には、地上波ではがんばってもここまでなのかという失望感がある。いや「今ここにある危機…」だって、物語-主題という意味ではある程度は先鋭的とも言えて、意義があるとは思うが…。この二つのドラマの違いは、脚本や演出の洗練度以外になにかあるのだろうか。

一つ言えるのは、「大豆田…」には、必要以上のものがたんまり入っているということはある。さらっと観ても特に負担無くなめらかに面白く観られるが(おそらく地上波ではこれは必須だろう)、さらっと観るだけなら不必要にも思える作り込みがいろいろある。

たとえば、松たか子は中堅の建築会社の社長で設計士でもある。その仕事場でみられる図面や建築模型やスケッチが、けっこうちゃんとしている。比べるのはなんだが、(ぼくはこのドラマをとても好きだけど)『結婚できない男』の阿部寛は、住宅を手がける建築家としてそこそこ名が知られているという役だったが、ドラマの中で彼のつくる住宅は、規格品ばかり使う普通の建売住宅みたいにしか見えないし、たしか『まだ結婚できない男』で、店舗の内装の仕事を受けるのだが、そのためのスケッチもすごくダサいものだった。だけど、それでもドラマとしてはちゃんと面白い。一方、「大豆田とわ子…」の松たか子の会社の若手のホープみたいな人物の設計した野心作のスケッチは、そこそこちゃんと野心作に見えるものではあった。そして、その野心作ではあまりに予算がかさむため、社長の松たか子が自ら修正案をつくるのだが、それもまたちゃんと、あー、野心作を修正するとこうなるよね(悪くはないが軸がブレて冴えない、みたいな)、という感じのものになっていた。

 (「大豆田とわ子…」に描かれる、簡単に何が正義が確定出来ないような、繊細で多様な力の作用の表現---たとえば、松たか子の、社長として社員に対する振る舞い方や、社員たちの関係など---に比べると、「今ここにある危機…」に描かれる「大学」の権力構造は、分かりやすくはあるが、通り一遍であり、あまりに雑にカリカチュアされているように思われる。)

たとえば音楽。エンディング曲は(今のところ)、STUTS & 松たか子、feat. KID FRESINO、BIM、NENEとなっている。STUTSも、KID FRESINOやBIMやゆるふわギャングも、もちろんとても活躍している人たちではあるが、地上波ゴールデンのドラマの主題歌としてはややポピュラリティが足りないだろう。そこに、松たか子をボーカルとして入れることで、先鋭性とポピュラリティを両立させることができている。ここが重要なのだが、たんに尖った人と有名人とを適当にコラボさせているというだけでなく、このコラボレーションに必然性があるような作品としてちゃんと成立させている。こういうことをちゃんとやれているところに、「テレビにまだある可能性」が感じられる。また、挿入歌をグレッチェン・パーラトが歌っていたり、ドラマ本編になにげに長岡亮介が出ていたりもしている。つまり、尖ったところが、尖っていると目立たない形で入っている。松たか子松田龍平のドラマが観たい人には、それは必要ないものかもしれないが、しかし邪魔にもなっていない。このような贅沢は、これを贅沢と意識しない人に対しても、なにか「贅沢感」のようなものとして感じ取られるのではないか。

(これはある意味、メジャーな文化・資本が「尖った人」を懐柔して、自分の養分として取り込んでいるとも言えるのだが、尖った人たちを養分として取り込むことで活性化しようとする意欲すら失っているようにみえる現在の地上波テレビの世界で、これは希有のことであるように思われる。)

(ただ、伊藤沙莉のナレーションは、良いと言えば確かに良いのだが、あまりに「映像研」からそのまんま借りてきている感じがして、絶賛するのには抵抗を感じる。)