2021-04-28

●『大豆田とわ子と三人の元夫』第三話、角田晃広回。おそらくこのドラマで元夫たちが離婚した松たか子にいつまでも執着するのは、彼女との過去は「良いもの」であるが、その良さは一方的に松たか子によって与えられたもので、自分はそれに対して何も返すことができていないという思いからなのではないか。前回の岡田将生は、「苺タルト」を彼女に返すことで執着から逃れられた。今回の角田晃広は「花束」を返す。過去に、松たか子が買ってきた花束を自分の母親が捨てた。その捨てられた花束を彼女に返すことになる。

この回で、松たか子角田晃広は対比的に描かれる。松たか子は社長としての責任から、自ら嫌われ役を買って出る。一方、角田晃広は器が小さく、自分の利益が少しでも犯されることを嫌い、恩着せがましく、偉い人に対して八方美人だ。おそらくその器の小ささによって、自分の母が松たか子に辛く当たることの防波堤になれなかった(間接的にしか描かれないが、離婚の大きな理由の一つはこれだろう)。

では角田晃広は、松たか子に何を返すのか。それはまさに、自分の「器の小ささ」そのものを松たか子に与えることで、責任感の強い彼女を少しだけ救う。自分自身の欠点・弱点とも言えるものを、逆転させて「花束」に変える。これは、自分自身の特性が彼女を救うことになったということであり、捨てられた自分自身が「花束」となり得たということだ。これによって、角田晃広は自分自身をも救い、過去から少し自由になったのではないか。

(だからこのドラマで、元夫たちと松たか子が「いい感じ」になる場面は、縒りが戻る徴候とは逆の、執着が切れる徴だと言える。)

松たか子には「現在」しかなく、いわば「現在」にあっぷあっぷしている状態と言える。対して元夫たちは、松たか子との「過去」と、新たな女性との「未来」の引っ張り合いの間にある。だが今回、その「未来」を構成すべき新たな女性たちとの関係がことごとくフェイクであることが露呈した。このドラマでは、ドラマチックな展開は基本的にフェイクであるようだ。俳優(瀧内公美)が語るドラマのようなセリフはまさにドラマからの引用であり、石橋菜津美が語る「派遣切り」や「パワハラ」の物語は、いかにも「現代的な社会問題」からの引用なのではないか。ここでは、いかにもそれらしいものこそが疑わしいようなのだ。ならば、親友の彼女との関係という、石橋静河松田龍平のこれもまたありがちでドラマチックな展開も、どこまでも怪しい匂いがするものとなる。

(今のところ、過去の方向でも未来の方向でも、アンチ恋愛ドラマであるようにみえる。)

●気になるのが、これまで、松たか子セキュリティホールであり、元夫たちにとっては松たか子への媒介として機能していた娘(豊嶋花)の方針転換が、今後どのような影響をみせるのかという点だ。

●このドラマでさすがやってんなあと思うのは、たとえば今回は、会社に所属する若手建築士の野心作が予算の都合でボツになって、不満に思った建築士は会社を辞め、社内にも対立が出来てゴタゴタしている状況で、社員たちが帰った後の会社に一人ぽつんと戻ってきた松たか子(散らかったペットボトルを拾うというアクションが、松たか子の孤独と疲労を的確に表現する)が社長のデスクで見て癒やされているいるのが、ヘイダル・アリエフ・センターの写真だということ。これはザハ・ハディッドの建築で、ということは勿論、建たなかった新国立競技場への匂わせということだろう。建たなかった若手建築士の野心作と、建たなかったザハ・ハディッドの野心作が重ねられている。松たか子は、社長として経理の意見を受け入れボツにしたが、個人としては若手建築士の方に思い入れをもっていることが、この場面で現わされていると思う。

●あと、みんなが無責任にいい加減なことを言っている様子が、松たか子には「ピヨピヨビヨ」と聞こえるというのは、デヴィッド・リンチが確か『オン・ジ・エアー』でやってたことだな、と思った。