2021-04-25

●良い評判を聞いたので期待して『今ここにある危機とぼくの好感度について』、第一話をU-NEXTで観たけど、ぼくは駄目だった。まず、主人公の松坂桃李が、小泉進次郎を安易にいじったようなキャラで、ベタすぎるというか、ひねりがないと感じたし、世界はそんなに分かりやすくないとかナレーションで言わせているわりに、大学の「権力者」たちの描き方が分かりやすい紋切り型すぎると思った(大学の権力者たちの描き方の工夫のなさをみて、立派な俳優たちをこれだけ贅沢に使って、これなのか、と、観はじめた当初から嫌な気持ちになった)。なんというか、底の浅い風刺とキレの悪い演出というのが観はじめた時点での印象。

(お飾りとしての無能なトップがいて、その下に、実際に力をもつ、保身を最優先する忖度と空気の読み合いの理事たちがいて、さらにその下に、権力者の意向を忠実に内面化したアイヒマンのような実務係としての渡辺いっけいがいるという権力構造は、それなりにリアルなのかもしれないが、その描かれ方が、退屈なお約束の儀式を見せられているようだった。うんざりするほどみせつけられている「現実」の弛緩した再現にすぎなくて、風刺やアイロニーにもなっていないので、嫌な気持ちになるだけで、笑えなかった。)

物語の展開にも説得力がなくて、いまどき、論文が発表されていて、それに対して何らかの疑惑があれば外部の誰かが勝手に検証するのではないか(小保方さんの事件では、話題になった論文を、2ちゃんねらーたちが勝手に検証しておかしいところが指摘され、疑惑として浮上したのではなかったか)。ノーベル賞を狙えるような注目されている学者の論文ならなおさら。だから、疑惑が持ち上がってしまえば、ポスドクの告発者だけ黙らせても意味がないのではないかと思ってしまう。

(後で否定されるためのギャグとはいえ、「新聞を買い占めろ」というのには、えーっと思った。その場ですぐ「意味ない」と気づくはず。)

なんというか、フォーマットとして紋切り型のドラマをつくって、最後に鈴木杏の演説だけ立派なことを言わせても、水戸黄門の印籠の代わりに鈴木杏の演説にすげ替えただけとしか思えなかった。このドラマの「問題意識」を、鈴木杏が直接口で説明しているわけだけど、だったら、この演説があればドラマいらないじゃん、と思ってしまう。

組織の上層部は皆腐っていて、無名で地味でピュアなポスドク(+新聞部と地味で気弱そうな教授)だけが「正義」を背負っているという構図も紋切り型と感じた。地味で冴えないが芯は強い、みたいな鈴木杏のキャラも紋切り型で、なんかもう一工夫ないのかなあと思ってしまう。一話完結の話ではなく、この物語がこの先も展開して、そのなかで鈴木杏の別の側面が現われる、これはまず最初の一手だ、ということなら、まあ、ありと思うが。

鈴木杏の演説に松重豊の心が動かされて局面が突然変化するのだけど、それまではお飾りとして空虚な存在だった「学長」が、一転してその地位を利用して状況をひっくり返すという展開もまた、きわめて「水戸黄門」的な紋切り型ではないかと感じた。だがこれもまた、最初の一波乱で、まだ次の展開---学長の立ち位置の変化や理事たちとの押し引き---があるのかもしれないが、少なくとも「この段階(この一手)」としては面白くないと思った。

(このドラマの設定で面白いと思ったのは、鈴木杏が五年限定の期限付き雇用であるのと同様、松坂桃李もまた、五年間の期限付き雇用で、立場は同じなのに対立する位置にあるというところ。松坂桃李は「権力者の側」にいるだけで、はじめから使い捨てなので、権力者ではない。)

最初は安易だと思ったが、最後まで一貫して、松坂桃李が徹底的にサイコパスで、一ミリも人の心をもっていないところは、ちょっと面白かった。少し心が動かされたと思うと、次の場面ではあっさり酷い奴に戻っている。この点は、松坂桃李という俳優を嫌いになりそうなくらいに徹底していた。

一話は面白くなかったが、この先の展開にまったく期待できないというわけでもない(もう少し先まで様子をみたい)、という感じだった。

2021-04-24

●『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』の一話、二話をNetflixで観た。円城塔によるゴジラ。今のところ、ゴジラ要素よりSF要素の方が強め。さすがというか、当然というか、SF設定が濃くて隅々まで隙が無い感じ。本格的なSF感のあるアニメは最近あまりなかったので、たんじゅんにとても楽しいし、楽しみ。

(関係ないが、Netflixは最近大幅に値上げしてきた。動画配信は、U-NEXTとNetflixを利用しているのだけど、観る頻度はU-NEXTが八割から九割で、Netflixは二割にも満たない感じなので---海外ドラマをほとんど観ないし、Netflixオリジナル作品の多くをあまり好まない---これを期にやめようかとも思ったが、「Netflixじゃないと観られない旬の作品」というのが少数だがあるので、やめられない。)

2021-04-23

●聞いた話。下水には「雨水」と「汚水」の二種類があって、通常は別々に処理される。「雨水」は、(量的な制限が必要な場合はあるとしても)そのまま川や海などの環境に戻しても問題はないが、「汚水」はきちんと処理した上で、環境に戻さなければならない。しかし、東京都の下水施設では、「雨水」と「汚水」とをひとまとめに処理するという。「汚水」を「雨水」から分けて処理すれば、処理しなければならない水の量は少なくて済むので、施設のランニングコストなどを考えても合理的なはずなのに、なぜ、二つを混ぜて処理する水の量を増やすなどという非効率的なことをするのか。それは、東京都は下水設備を突貫工事で作ったからだ、と。つまり、「つくる」段階では、「雨水」設備と「汚水」設備を分けてつくるより、一緒にしちゃった方が楽だし安くつく。ただ、当然だが、長いスパンで、その施設をずっと使い続けることを考えれば、一緒にすることで、仕事量もコストもずっと高くつく。

そして、出来れば聞きたくなかった話だが、雨量が多すぎて、下水処理施設の容量を超えてしまった場合は、(「汚水」と混じった「雨水」を)そのまま海に流すそうだ。

2021-04-22

萩尾望都の本、つい読んでしまった。特に熱心なファンというわけでもないのに、興味本位で首を突っ込んで他人のデリケートな事情をのぞき見してしまった罪悪感が強く残る。

(とはいえ、この本から最も強く感じられたことは、語られている個々の出来事よりも、語り口から立ち上がる、出来事のすべてを貫く「それらを語っている人格」への尊敬の念だった。語られていることの信憑性は、エビデンスによってではなく、それを語っている人格への信頼によって支えられる。そのような意味で、ここに語られているのは主観によってしか捉えられない世界の真実だろう。)

(どちらか一方の主観としてしか語れない真実というものがおそらくあって、それは俯瞰して見た途端に消えてしまう。故に徹底してその主観を真に受けなければならない。もちろん、もう一方の主観からしか語れない別の真実もあるはず。双方は同一空間上に並べられないので、対立することすら出来ない。排他的で両立不能な異なる真実が並立するのが世界であり、故に基底としての「世界」は存在しない。相容れない二つの絶対があるということで、これは相対主義ではない。)

2021-04-21

●kiki vivi lilyの声が好き過ぎる。

kiki vivi lily - ココロオドル with nobodyknows+ (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=-LPyKQKjnp8

kiki vivi lily / Brand New (Session at Red Bull Music Studios Tokyo)

https://www.youtube.com/watch?v=h795slSPgp8

kiki vivi lily / 80denier (Session at Red Bull Music Studios Tokyo)

https://www.youtube.com/watch?v=nR8vhArzrGM

YouTubeで、改めてビートルズを聴いてみた。

I Don't Want To Spoil The Party (Remastered 2009)

https://www.youtube.com/watch?v=zqVDvLDLsjI

I Am The Walrus (Remastered 2009)

https://www.youtube.com/watch?v=t1Jm5epJr10

Taxman (Remastered 2009)

https://www.youtube.com/watch?v=l0zaebtU-CA

Paperback Writer (Remastered 2015)

https://www.youtube.com/watch?v=SepZDSkY4Ro

Happiness Is A Warm Gun (2018 Mix)

https://www.youtube.com/watch?v=nIR6AAjEg5U

All I've Got To Do (Remastered 2009)

https://www.youtube.com/watch?v=anMW41uvb_s

Wait (Remastered 2009)

https://www.youtube.com/watch?v=qJngWval8Bc

Being For The Benefit Of Mr. Kite! (Remastered 2009)

https://www.youtube.com/watch?v=bJVWZy4QOy0

For No One (Remastered 2009)

https://www.youtube.com/watch?v=ELlLIwhvknk

What You're Doing (Remastered 2009)

https://www.youtube.com/watch?v=7Sba2LbhkVY

She Loves You (Remastered 2009)

https://www.youtube.com/watch?v=nGbWU8S3vzs

2021-04-20

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第二話。今回は岡田将生回。このドラマに軽さ(軽やかさ)を生んでいるのはおそらく、松たか子が三人の元夫の誰かと復縁するという(湿った)展開になる可能性がほぼないということを確信させる雰囲気を松たか子が出していることによるだろう。前回は松田龍平と、今回は岡田将生と「いい感じ」になる場面はあっても、それが縒りを戻すきっかけになるとはまったく感じられない。松たか子には鉄壁がある。ただし、その壁に対して、娘(豊嶋花) が呪いを呼び込む重大なセキュリティホールとして存在する(うさぎのヌイグルミ)。

元夫たちは、松たか子に対して未練を抱いてはいるが、もう一方で、恋愛に至る展開に発展しそうな新たな女性との出会いが三人とも既にある。元夫たちにとって松たか子は「良い過去」としてあり、それに対して出会った女性たちは「新たな未来」への可能性としてある。元夫たちは、過去と未来との引っ張り合いとしての「現在」を生きている。松たか子はといえば、過去に対する未練もなく、未来につながる新たな出会いもない(前回は斎藤工、今回は川久保拓司が、未来への可能性として登場するが、発展する前に可能性は潰える)。だから松たか子には、今のところ「現在」しかなく、その現在は主に、会社、家庭(娘)、親友(市川実日子)によって構成される。また、セキュリティホールである娘によって、その「現在」に(既に過去として視界から外れているはずの)元夫たちが入り込んでくることになる。

今回が岡田将生回であるというのは、この回で岡田将生は一応、過去(松たか子)に対する執着を捨てることができたということだろう。終盤、松たか子岡田将生からかけられた言葉を「苺タルト」として受け取る。岡田の言葉が「苺タルト」たり得るのは、松にとって岡田は「元夫」ではなく「会社の顧問弁護士」であるからだろう。だから松は岡田に、夫婦ではなくなっても、共に現在を生きていると思っていると言い、その言葉が今度は岡田にとっての「苺タルト」となり、それが岡田に執着を捨てさせる。

●このドラマのきびきびしたリズム。たとえば、洗濯かごをひっかけてコーヒーをこぼす松たか子に対して、角田晃広が撮影機材でコップを落としそうな時に、さっと手で食い止める松田龍平との対比がさっと示される。あるいは伏線。松田龍平が、自ら口にした「恋の六秒ルール」の呪いに、自らがハマってしまう。そして、小道具としてのノコギリの活躍。

●エンディング曲、毎回ラッパーが変わるシステムなのか。今回はBIMと 岡田将生。BIMはドラマに2カット出ていた。

2021-04-19

保坂和志の「小説的思考塾 配信版 vol.3」の話題で強く興味を感じたのは、卵としての過去という話だった。ドゥルーズは、ニワトリが産むのは卵だが、卵がニワトリになるとは限らない(突然変異で「別のものになる」可能性がある)とし、卵が先かニワトリが先かという議論で、答えは卵が先なのだとする、と。ニワトリは、ニワトリでないものの突然変異した卵から生まれた、と。

同様に、過去というのは卵であって、つまり過去とは、必ずしも「現在」に行き着くとは限らない、様々な可能性が存在する場所だと考えられる、と。過去から、様々な分岐があり得、その様々な分岐のなかのたまたま一つが「現在」であるに過ぎない。同じ過去のなかに、今、我々が属している「現在」とは「別の現在」の可能性が孕まれている。だから、我々がたとえば過去の写真に強く惹かれるのは、そこにノスタルジーを見いだしているのではなく、「別の現在の可能性」がそこには裸のままであるからなのだ、ということになる。

この話から、ぼくはエリー・デューリングの「レトロ未来」という概念を想起した。というか、ぼくは保坂さんの『ハレルヤ』という本の書評に、保坂さんの小説からエリー・デューリングを想起されたということを書いていたのだったと思い出した。以下、「おとぎ話が跳ねる経験とレトロ未来」(「群像」2018年11月号)から。

《「こことよそ」で話者は、過去(二十代の頃)の自分の明るさと暗さに触れている。若くあることそれ自体の圧倒的な明るさと、小説家志望でありながら未だ小説家ではないことによる屈折だ。しかし、未だ小説家ではないという暗さは、既に小説家であるしかない現在時の話者にとって、(ジュネにとってのフェダイーンの少年たちのように)それ自体が輝くような確定されない可能性の放射でもある。現在時にいる話者はそのような過去に触れる出来事を経験し、改めて驚き、跳びはね、喜んでいる。この小説を読むということは、読者が自らの過去ではないそれらの事柄をおとぎ話のように思い出して驚き喜ぶことだ。》

《「こことよそ」の現在時の話者は、過去に触れているだけでなく、過去の自分が現在の自分と出会う場面を想定しもする。しかし可能性の放射としてある過去の自分は、未来(現在)の自分に触れても響くものがない。この非対称性は、現在時の話者が過去の自分の無数の可能性のうちの一つの姿でしかないことを示している。》

《フランスの哲学者エリー・デューリングは「レトロ未来」という概念を提出している。難解な概念だが、乱暴に要約すれば、「未来」は実現されることを待機している出来事、私たちの前に広がる時間の領野といったものではなく、現在と並行して共存し、現在のなかで活動している潜在的なものとしてあるという考えだ。》

《「現在」は、「過去からみた未来」と二重化されている。ならば現在は、過去から伸びた未来の無数の可能性がそのまま潜在的に共存している場だということになる。未来は前にあるのではなく、潜在的な並行世界として横にある。「こことよそ」の二十代の話者のもっていた放射する可能性は、話者が既に小説家となった(小説家であることが確定した)現在において消えてしまったのではなく、過去の時点から複数の可能性のまま進展していて、レトロ未来として、現在と並行し潜在的に共存しているということだ。》

https://note.com/furuyatoshihiro/n/n3aecf4fff09c

●この話との関連で、パラジャーノフという名前が出てきて、その名前を久々に聞いて、おおっと思った。『ゴダールの映画史』(映画ではなく本の方)でゴダールが、映画というものが、今、一般的にそうであるようなものではなく、パラジャーノフのような形式の方が普通であるような現在もあり得たはずだと書いている、と。パラジャーノフは今、ソフトが高騰してしまっているけど、字幕無しでいいならYouTubeで観られるものもある。

ざくろの色

https://www.youtube.com/watch?v=aPtxS1c-fGA

アシク・ケリブ

https://www.youtube.com/watch?v=1E7R_zqgRcI

スラム砦の伝説

https://www.youtube.com/watch?v=wk56xsHKtSM

精神分析の話も多くあった。たしかに、フロイトは直に読んでも大丈夫だと思われるが、ラカンはもとより、ラカン関係の本は、精神分析的な思考法や用語法にある程度慣れていないと、なかなか入っていけないと思う(それに慣れるということが「概念の定義・配置・領域が変わる」ということだが)。たとえば、精神分析で用いられる「解釈」という語は、我々が普通にその語から受け取る意味とはずいぶん違った意味をもつ。以下、『疾風怒濤精神分析入門』(片岡一竹)より、「解釈に意味はない」という節の引用。

《だから解釈は、「ほう」とか「へえ」とかいう頷きでもよいし、話の趣旨と全く関係ない細部を追求するようなものでもよいわけです。

例えば、「私はその日、朝の十時に家を出て……、帽子を被って出たんですけど、……彼と会った時に睨まれているように思って……もう目を見ていられなくて……」というようなことを患者が言ったとします。

そこで普通のカウンセリングならば「それは辛かったですね……他にどういう時に同じような気持ちになりますか」などと、共感しながら聞き返すでしょう。あるいは、一般的にイメージされている精神分析では「あなたの父親に対する恐怖が彼に転移したのです、目とは、あなたに欠けている知性の象徴です」というように意味付けをするでしょう(これもまた、意味不明な解釈ですが)。

しかしラカン精神分析においては、「帽子を被っていたんですか。帽子が好きなんですか。よく被るの?」というような解釈をするものです。言うまでも無く、この話(パロール)において帽子は大した意味を持っていないわけですが、だからこそ分析家はそこに注目するのです。なぜならそのことで、この話をした時には思いもしなかった、帽子に関する問題が発覚するからです。そこから、何か重要なことが出てくるかもしれません。

分析家の解釈はたいていの場合突飛で。面食らわせるようなものです。しかしそういう一撃(クー)があるからこそ、全く新しいことが言えるようになるのです。なまじ自分の言ったことが理解され、共感されれば、それに味を占めてしまい、症状が改善されないまま、いつまでも同じような話をし続けるでしょう。それでは人生の転機など訪れません。》