2023/01/15

●『冷たい血』。VHSを黒川さんにデータ化していただいた。90年代半ば、『Helpless』『チンピラ』『WiLd LiFe』『我が胸に凶器あり』と、ひたすら驚嘆させられた青山真治に対して、初めて疑問と反感を抱いた五作目(1997年の作品)。この疑問と反感はその後、亡くなるまでずっと尾を引いた。改めて観直すと、この作品に反感を抱いた自分は若くて尖っていたのだと思う(既に30歳だけど)。反感を持つのも分からなくはないが、でも、そのような態度は「若い男性」にありがちな、マウントを取るということとも近い、ある意味「有害な男性性」の発露のようなものだと思う。青山真治の「男の子」性を嫌だと感じる自分自身もまた逃れようもなく「男の子」だった。

この作品の主題として置かれる「愛を証明する」という問題について、ぼくは一ミリも理解できないし、リアリティも感じない。ただの深刻ごっこ、文芸ごっことしか思えないと、当時は思った。今でも同様に理解できないが、今では、ぼくには理解できないとしても、それが重大な問題であるような人も存在するかもしれないとは思う。

その上で、マッチョな男が、ファルス(拳銃)を失い、文字通り胸の内に空虚を抱えて存在する、そのありようを映画として時空化する造形はとても見事だと思うし、映画作家としての青山真治の力量を改めて強く感じた(明らかに、これ以前の作品とは違うやり方を意識的に模索しているし、それがかなりの程度うまくいっているように思われる)。球場での心中の場面など、ああ、「心中」をこう撮るのか、と感心した。

(この作品は「空虚」を肯定するのではなく、マッチョな男はファルスを取り返す。しかし、取り返したファルスは以前と同じものではない。既に全ての銃弾が撃たれた後で、弾を撃つことはできない。引き金を引いても空振りしかしないファルスと―-そして右の肺を失った空洞と―-共に、彼は今後生きていく。)

この作品は黒沢清の『復讐 運命の訪問者』、『復讐 消えない傷痕』と同じ年のもので、リアルタイムで観た時には、黒沢清の乾いていて屹然とした「空虚」に対して、湿った弱さと文学臭を含む「空虚」をあまり好ましくは思えなかったが、それは当時のぼくが黒沢清に過剰に思い入れしていたからで、今から見ると、十分に拮抗していたのだと感じる(黒沢清の乾いた即物性に対して、意識的に文学趣味を強く匂わせるとか、哀川翔に対して石橋凌とか、そういう対抗心はあったのではないだろうか)。

とはいえ、それでも、物語のありようや主題のたて方にかんしては、今でもすんなりとは受け入れられないし、少なくない抵抗を感じもする。

(『WiLd LiFe』『冷たい血』『シェイディー・グローブ』という「個人主義カップル三部作」について、まとめて考え直してみたいという気持ちが、ちょっとだけある。)

●日記を検索したら、『冷たい血』を前に観たのは(97年から十年後の)2007年の9月だった。そしてさらにそれから十五年と数ヶ月。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

2023/01/14

●びっくりするほどリアルで生々しく、そしてどこまでも幸福な夢をみた。目覚めて、ベッドの上にいる自分を認識したとき、え、今のは夢だった、マジで、嘘でしょう、と、愕然とした。夢の余韻でしばらく動けなかった(夢の最後の方で、靴下だけで靴を履かずに外を歩いていることに気づき、イベント会場を出るときに、靴を履かないいまま出ちゃったのか、と思ったことをはっきり憶えている、イベント会場から駅まで歩く間に、とても奇妙な、恐竜を小さくしたような動物が路上で眠っているのを見た、容易に跨げると思った低い柵を跨ぐのに思いの外苦労して、しばらく立ち往生もした)。こういう夢を、毎日とは言わないが、頻繁にみることができれば、現実がそんなに幸福ではなくても充分に生きていけるのではないかと思った。

ぼくは悪夢体質で、頻繁に悪夢をみるが、悪夢をみるのはいつもシラフで眠るときで、アルコールが入った状態での眠りでみる夢は、ほとんどいつも幸福だ。アルコールと相性のいい体を持って生まれたことに感謝したい。

●夢をみたのはこの記事を読んだからかもしれない。夜、外で裸で寝ても死なない程度の温暖な気候さえあれば、それだけで人はけっこう生きていける。

gigazine.net

2023/01/13

●『水星の魔女』。実質13話の12話。「えーっ」という感想。予想していなかったというより、望んでいなかった展開。ここまでやってしまうと、今まで積み上げてきた物語の構築をすべて台無しにしてしまうのではないか。このあと、一体どういう展開を考えているのだろう。

途中で、母親のヤバさが全面に出てきて、この母親はやっぱヤベー奴だとゾクゾクしていたのだが、だからといって、娘を一気にそこまで押しやってしまうのはどうなのか。確かに、これまでの展開でも「母親に洗脳されているヤバい感じ」はちょこちょこ出ていたが、スレッタが、あまりに急激に、魔女(≒ニュータイプ)というより「怪物」になってしまった。

(あと、パターナリステックな「父」たちが死に始めていて、そんなにあっけなく死んじゃうの、みたいな戸惑いもあった。)

一方に母親に洗脳されているヤバい感じがあって、しか他方に、ミリオネなど学校の友人たちとの関係によってまともな感じで成長していくという側面があって、その危ういバランスの押し引きが今後も続くのかと思っていたら、(多くの場合に肯定的に受け取られる)素直でまっすぐで一途なキャラのネガティブな側面(極端な方向へと一気に振れてしまう)が全面に出てきた。

これが、単に観客の感情を波立たせてアテンションを集めようというだけの安易で極端な鬱展開でないのだとしたら(そうであって欲しいが)、この物語がどこに向かっていて、何をしようとしているのか、すっかり分からなくなってしまった。

2023/01/11

●昨日からの続き。引用、メモ。マリリン・ストラザーンにおける〈イメージの方法〉」(里見龍樹)より。

http://www.jsos.net/nlpapers/NL126_01-18.pdf

●イメージがイメージを生む(イメージの意味は「別のイメージ」によって明かされる)

《ストラザーンの議論において重要なもうひとつの点は、上でみたような、「イメージ」あるいは「感性的形態」への「客体化」というかたちでの社会関係の把握や実現が、そうしたイメージ・形態(形象)の反復的な交替・連鎖というかたちで行われるということである。『ジェンダー(贈与のジェンダー)』の少し後に書かれた『部分的つながり』(…)の中でストラザーンは、あるイメージ・形象が、別のイメージによって取って代わられ、さらにそれがまた別のイメージによって置き換えられるという交替・連鎖の過程あるいは運動を、ワグナーの用語を借りて「除去=置き換え(obviation)と呼び(…)、それを次のように規定している。》

《(『部分的つながり』からの引用)あるイメージが創出する効果は、また別のイメージとして提示されることができる。ある像(figure)は、それと対になる像(count-figure)を「生み出す」ものとして見られるのである。(…)》

《先に見たギミの加入儀礼における、<笛→男性器→樹木→内部の空洞→有袋動物→女性器>というようにジェンダー化されたイメージが次から次へと喚起・開示されるシークエンスは、こうした「除去=置き換え」の典型的な例として見ることができる。ワグナーとストラザーンにおけるこの概念において重要なのは、ちょうど、自己の内的能力、あるいは自己を構成している諸々の社会的関係が、他者におけるそのあらわれというかたちでのみ開示・実現されるという「メラネシア的社会性」のモデルにおいてと同じように、ある形態あるいはイメージの意味---それに含まれているもの---は、それがさらに別のイメージに取って代わられることによって明らかにされるという関係である。ここでは、イメージからイメージへの、いうなれば横方向の移動が想定されているのだが、これは、「意味作用(signification)」の図式に基づく通常の「解釈」、すなわち具体的・感性的なイメージ(シニフィアン)から、それが意味・表象しているもの(シニフィエ)、たとえば社会関係へと至る縦方向の運動---人類学者を含む通常の社会科学的な分析を構成するところの---とは根本的に異質である。》

●所有について。ここでストラザーンが「流れ(ネットワーク・交換)」だけでなくその「停止・切断(貝貨・モノ・人格)」を問題にしていることは重要だと思う。アクター・ネットワーク理論では、後者がどうしても希薄に思える。

《論文「ネットワークを切断する」(Strathern 1996)は、所有権、とくに知的所有権を、一方でラトゥールらのアクター・ネットワーク理論に批評を加え、他方でソロモン諸島マライタ島の南部に住むアレアレ(`Are`are)の人々の葬儀についてのドゥ=コッペの民族誌(…)を参照しつつ論じるという複雑な構成をもっている。(…)これらのイメージにストラザーンは、「流れ」とその「停止」、あるいは「ネットワーク」とその「切断」という対比、より正確には、「流れ」が「止まる」(「ネットワーク」が「切断」される)ことによってある種のイメージ・形象が形成されるという関係を見出す。ここでは『ジェンダー』において「人格」が社会関係の主要な「客体化の形態」として位置づけられていたのと同様、「人」がしばしば「血」(親族関係の実体)や財の流れを止め、貯め込む形象として見られている。そしてストラザーンの議論の要点は、西洋世界における所有権もそれと同じ「流れの停止」あるいは「ネットワークの切断」として成り立っているということにある。》

《(…)たとえ特許の申請においては、或る発明に必要な諸条件からなる、理論的には無限に広がる「ネットワーク」が、暫定的な境界付けによって「切断」されなければならない(…)。他方、こうした「切断」によって成立する、特許・所有権の対象となるモノ、たとえば加工された細胞は逆に、それを成立させたさまざまな要素から成る「ネットワーク」を集約・凝縮(condense)して含み込むものとして、「メラネシア的社会性」論における「人格」の形象と類似の仕方であらわれることになる。》

《(…)ドゥ=コッペによれば、アレアレにおいて生きた「人」は、異なる人々・世代の間で流通・循環(circulate)する「からだ」と「息」と「影」(あるいは「名前」)という3つの異なる要素からなる複合体として考えられている。こうした人の死に際しては、生前の人を構成していた他者との多様なやり取り・交換---言い換えれば「社会関係」---が停止され、諸要素はすべて貝貨に交換され清算される。このようにアレアレにおける貝貨は、「流れ」すなわち諸要素の交換・やり取りという社会関係の停止・切断を具現し、かつそうした諸関係を自らの内部に凝縮・集約して抱合するモノあるいは形象としてある。》

《このような視点は、ここでドゥ=コッペに代表されているところの、交換関係を第一義的な「社会関係」として、したがってある種特権的な記述・分析対象として位置付けてきた伝統的なメラネシア人類学に対して明確な緊張関係にある。》

●コードとイメージ(ここで、「コード」が交換関係で、「イメージ」がその停止と類比できる)

《この論文(「歴史のモノたち」)でストラザーンは、それ自体としては意味をもたない個別的な「モノ」や偶発的な「出来事」が、社会的・文化的なシステムという「文脈」の内部に位置づけられることではじめて意味を獲得するという、人類学的な物質文化研究と歴史人類学に共通する想定---そして、そうした想定のメラネシアなど他地域への無批判的な適応---を批判している。そして彼女は、モノや出来事についてのこれとは異なる見方を、ワグナーによる「コード/イメージ」という二分法を援用することで示そうとする(…)。ワグナーによれば、西洋的な社会科学を支えてきた、ある対象を「文脈」の中に位置づけて解釈するという「コード」あるいは「コーディング」の操作に対し、「イメージ」とは、ストラザーンの多くの著作がまさしく同じ用語で論じているように、通常「文脈」と呼ばれるような諸々の関係を、自らの中へと包含しているようなモノ・象徴のあり方をいう(…)。》

《ここでストラザーンが注目するのは、彼女がこれまで主流の社会・文化人類学から遠ざけられ、周辺化されてきたという博物館(…)のあり方である。というのも、美術館と同様に、展示物に対する美学的な鑑賞態度が一面で行われうる博物館は、その限りにおいて、文脈化されない「モノとしてのモノ」(…)の宇宙として、「イメージ」それ自体として保ちうる場としての意義をもっている。》

《(…しかし)こうした類似は部分的なものに過ぎず(…)博物館でのモノの形態との向き合いにおいて「われわれ」が得るのは、西洋近代における「美学」の観念がすでに含意しているように、基本的には個人的な審美的=感性的体験に過ぎない。それとは異なる、単に審美的なだけではない体験のためには、「われわれ」はそのモノに関わるメラネシアその他の地域の社会的・文化的文脈を知る必要があるが、しかしそうした知識に基づく体験は、すでに「イメージ」それ自体を離れた「コード」でしかない。こうした必然的な不一致のために「われわれ」は、いずれもそれ自体としては不十分でしかない2つの立場の間を行き来することしかできないのだ(…)。(…)「イメージ」の体験を求める上で、「われわれ」あるいは人類学者に可能なのは、「イメージ/コード」というそうした2つのアプローチの間の移動、往復運動それ自体を記述の方法へと内在化することである(…)。》

《可能なのは往復運動に過ぎないが、しかし、そうした往復運動はあくまでも可能である》。

2023/01/10

●台所のシンク周りを掃除していたら、百円玉一個と、231円玉二個を見つけたという夢を見た。231円玉は、銀色で百円玉と同じくらいの大きさだった。

●引用、メモ。マリリン・ストラザーンにおける〈イメージの方法〉」(里見龍樹)より。

http://www.jsos.net/nlpapers/NL126_01-18.pdf

●「内的能力」や「人格」は、客体化されることで「知られる」ものとなる

《『ジェンダー(贈与のジェンダー)』におけるストラザーンの議論について、筆者は別のところで概説している(…)。大雑把に繰り返すならば、メラネシアにおける社会的現実を記述するモデルとしてストラザーンが提示する「メラネシア的社会性」は、人は、自身の内的能力、あるいは自らを構成している親族関係その他の社会関係を、他者におけるその効果としてあらわれさせ(make appear)(あるいは明示、・可視化し(reveal、make visible))、そうすることによって自分自身の内的能力を知る(know)(知られるようにする(make know))という関係の上に成り立つものと考えられている(以上の単語はすべて、ストラザーンが一貫して用いている表現である)。それ自体としては不可知の、あるいは「かたち、形態(form)」をもたない、人の内的能力あるいは社会関係がそれにおいて「開示される」具体的な形態を、ストラザーンは「客体化[の形態](objectification)」と呼ぶ。彼女によればこうした「開示」は「適切な美学(aesthetic)を通じてのみ」、すなわち習慣化された一定の「形態」をとることによってのみなされうるのであり、逆に「不適切な仕方でなされたならば、関係はあらわれない」(…)。『ジェンダー』の、とくに第二部における中心的な記述の対象は、メラネシアにおける、こうした「美学的習慣(aesthetic convention)」、あるいは「美学的拘束(aesthetic constraints)」(…)の下で実現される「客体化」の多様な「形態」にほかならない(そしてこの「客体化の(美学的=感性的)形態」が、『ジェンダー』や『所有、実体、効果』において、「形象(figure)」や「イメージ」としばしば言い換えられている。》

《ストラザーンのこうした「メラネシア的社会」のモデル、とくに「社会関係」が具体的・感性的「形態」において「可視化」・「客体化」され、そうすることで「知られる」という関係を、(…)ニューギニア高地のアーサックの記述に見てみよう》。

《(…)バイエラでは、男性(既婚男性)の身体的健康の強さは妻が月経のたびにおこなう「秘密の」呪術に依存しているとされるのだが、この人々の思春期儀礼においては、少年たちが、集落を離れて森の中に身を隠し---自分たちを不可視化し---、将来の妻とのそうした関係を、「ショウガ女(Ginger Woman)」と呼ばれる女性の精霊との間で先取り的に取り持つことを試みる。それぞれの少年は森の中で、精霊のためにショウガ畑を植える---ちょうど夫が妻に呪術を行ってくれるよう働きかけるように---のだが、この贈与に対し「ショウガ女」が好意的に答えたかどうか、言い換えれば少年がこの精霊との間に肯定的な関係を結ぶことに成功したかどうかは、夫婦の関係においてと同様に、この儀礼の間に少年たちの肌が「成長」し、「大きく、美しく」見えるようになったかで「知られる」。》

《この過程において、少年たちの、「成長することができる」という内的能力は、言うなれば2種類の他者に依存している。すなわち、ショウガ畑を贈与することによって自身の身体を成長させてもらう女性の精霊と、そうした交渉の結果、身体が成長したかどうかを実際に「見て」判断してもらう村の人々がそれである。ハイエラにおいて、少年たちはそれらの他者を通じてのみ、自身の内的能力を実現し、そして「知る」ことができるとされている(…)》。

《(…)ストラザーンは、この著作のほぼ全体を、しばしば「われわれ」には強烈に特異なものと感じられるこうした「客体化の諸形態(objectifications)」を記述・分析するものと定義している。》

《(…)ストラザーンの議論として頻繁に参照される、「人格(personhood)」をめぐる議論も、『ジェンダー』において本来こうした「客体化」論の一部をなすものであることには注意が必要である。「人格は諸関係の客体化された形態である」(…)と述べられるように、そこでストラザーンは「人格」を、メラネシアにおける社会関係の「客体化」のもっとも基本的な「形態」---こうした「客体化」が「人格化(personification)」と呼ばれている---として、したがってひとつの「形象」・「イメージ」として位置付けているのである。》

●「贈与」と芸術批評

《(…)『所有、実体、効果』の第1章でストラザーンは、自身の民族誌の実践において、「イメージ」の体験、(…)視覚的イメージが決定的な契機をなしてきたと述べている。》

《(『所有、実体、効果』からの引用)こうした贈与は、……それを見た人々から反応を引き出そうとしているように思われた。それらは一般に、公開の文脈において(in a public context)、批評・判断を行う(critical and judgemental)観衆の前で、批評・判断を行う受け手へと手渡されたのである。形態を[そのように]吟味することは、まさしくその[吟味の]ために、形態は適切な性質をともなってのみあらわれることができるのであり、さもなければそもそもあらわれさえしない、ということを思い知らせた。(…)またそうした意味で、それらは欧米文化における「美術品(art objects)」の地位と似たようなものを、少なくとも、あるものがそもそも美術とみなされるかどうかは、形態の適切さについての議論[の問題]であるという理由から、もっている》。

《(…)芸術批評とのこうした類比が、メラネシアにおけるイメージの実践に、ある種のコミュニケーション、すなわち芸術作品を前にしてその美学的=感性的体験についての批評・判断を取り交わす「公衆(the public)」にみられるようなコミュニケーションの性質を認めるものとなっている点である。さらにストラザーンにおいて、こうした美学的=感性的にコミュニケーションは、一面において、メラネシアの人々のみならず人類学者も巻き込むものとなっている。》

●「太った赤ん坊は生まれてすぐ殺される」を経験する人類学者

《(…)『所有、実体、効果』の第3章をストラザーンは、ニューギニアのエトロ(Etoro)の人々についてのケリーの民族誌から、かつてこの人々において太った赤ん坊は生まれてすぐ母親によって殺されたという、ストラザーン自身にとって衝撃的な、「追い払うことのできないイメージ」(…)を引用することから始めている。こうした嬰児殺しの習慣を、ストラザーンはケリーの議論を受け、「生気(life-force)」を人々の間でやり取り・移動されなければならないものと考え、そうした「生気」によって構成される不可視の内的身体の状態が、可視的な外的身体---その見え方---によって他の人々に「伝達(communicate)」(…)されるというエトロの「美学的=感性的」な習慣によって説明する。すなわち、本来個人がその内的身体に溜め込むべきではないとされている「生気」を過剰に保持していると見られる太った赤ん坊は、そうした外見のゆえに生まれつきの妖術の能力の疑いをかけられて、殺害されていたというのである。》

《注目すべきはここにおいて、太った赤ん坊の身体という「イメージ」、そしてそれが社会関係(…)を「伝える」という「美学的=感性的な効果」(…)が、エトロの人々によってと同時に、人類学者(…)としてのストラザーンによってもある種決定的な仕方で経験されているという点である。この例が示唆するように、ストラザーンの方法には、問題になっているのが誰にとってのイメージであるのかということについての根本的なあいまいさが、「現地の人々/人類学者/読者」という通常の区別を逸脱し、あいまいさとして解消されないまままで組み込まれているように思われる。》

《これまで見てきたように、ストラザーンによれば、メラネシアの人々は視覚的・感性的なイメージ・形態をお互いに提示し合っており、それを見て社会関係を知ることがメラネシアにおける社会的現実の構成・実践にほかならないとされる。そうだとすれば、ちょうど美術館で、異なる人々が「同じ」作品をそれぞれ微妙に異なる仕方で見る---そしてさらに、この体験について議論を交わす---のと同じように、人類学者がそうしたイメージを、たとえ現地の人々とは違った仕方においてであれ観察し記述することは、メラネシアの人々が現に行っているイメージの実践の、多かれ少なかれ屈折した展開・延長として、あくまで可能であるはずである。》

《こうした見方においては、現地の人々がイメージを見る仕方と人類学者---さらには民族誌の読者---がイメージを見る仕方が「同じ」であるという実証主義的な保証はないにせよ、イメージ・形象をそれぞれが「見ることができる」という感性的な可能性は否定されない。》

《こうした意味において、イメージの水準に注目することそれ自体が含意する美学的=感性的な肯定性=実証性(positivity)---言い換えれば、上で述べたようなコミュニケーションの可能性---は、ストラザーンにおける人類学・民族誌の可能性の条件をなすものとして理解されるべきなのである。》

(つづく)。

2023/01/09

●HO×RN(小野弘人×西尾玲子)「遠回りの作法―ミース・オン・ザ・グラウンド」のトークイベント「絵画の透明性・建築の透明性」の第一回目。

www.sumida-bunka.jp

このイベントの内容は、どこかに発表されるかもしれないし、されないかもしれないですが、ぼくは、以下の作品について話しました。