2023/01/08

●「透明性 虚と実」(コーリン・ロウ、ロバート・スラツキイ)についてもう少し。画像は、昨日取り上げたブログから拝借した。

compo3t.blogspot.com

左の絵が、モホリ-ナギの作品で、「リテラルな(実の)透明性」を示す作例として出されている。これが「透明性」を示す作品だという点については、見れば分かるし、説明はいらないと思う。

右の絵がレジェの作品で、「フェノメナルな(虚の)透明性」を示す作例。この作品について、「透明性 虚と実」に書かれているのとは違うやり方で説明してみる。

この絵には、二つの異なる(相入れない)基底空間が織り込まれている。黄色と白の部分に注目することで開かれる基底空間と、赤茶色の部分に注目することで開かれる基底空間だ。この二つの空間は互いに互いの地として機能するので、二つの基底空間を「同時に見る」ことはできない(騙し絵の瓶と横顔のように)。黄色と白の基底空間は、赤茶色の基底空間によって分断され、赤茶色の基底空間は、中央にある白い四本の水平帯によって分断されている。この、二つの相入れない基底空間の、分断を孕んだ(あるいは、分断=ブランクによって媒介された)共存状態こそが、それを見る我々に、(虚の次元においての)透明性を立ち上げることを要請する。まさに、《この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである》。《透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである》。(ジョージ・ケペシュ)

ここでミソなのが、向かって右側の、人物の横顔が重ね描きされている白いフィールドだ。ここは、空間的な連続性を見ると、黄色と白による基底空間に含まれる。しかし、図像的、イメージ的な側面から見ると、左側の「機械的な物体の領域」に対して「有機的な人の顔の領域」となっており、非連続的で、対比的である。つまりここでも、「(空間的に)連続的」「(意味的に)非連続的、対比的」であるという二つの相入れない状態が重ねられている。 

もう一つのミソが「黒」の部分の機能だ。画面向かって左側にある「黒い物体」は、黄色と白の基底空間において「モノ=図」として機能するが、画面向かって右端の黒は、「黄色と白の基底空間」の地として機能している、と、とりあえずは言える。しかし、画面全体の黒の散らばり(配置)を見ようとしている時、つまり、黒の部分を「図」として見ようとしている時、不意に図と地とが反転して、向かって左の黒い物体もまた、(黄色と白の基底空間を)地として引き立たせているように見えてしまうことがある。というか実は、黒い物体は、モノ=図として機能しつつも、潜在的に地の役割をも担うことで、画面の活性化に貢献しているのだ。向かって左側にある黒い物体が(黄色と白の基底空間において)「図と地の両価性」を持つこともまた、この絵の持つ「虚の透明性」要素だろう。

(単なる図と地の両価性ではなく、空間の中のモノであるという意味ので「図」と、空間そのもの(地)を支えるという意味での、いわば「メタ地(地の地)」との両価性を持っているのだ。)

(画面上のある要素が、構造的に図と地の両価性を持つときに、画面は振動=振幅する。)

2023/01/07

田中純による磯崎新論をチェックしようと「群像」のバックナンバーを引っ張り出してきて並べたら、結構すごい感じになった(2022年1月号から、2023年2月号まで)。

●9日のトークのために改めて「透明性 虚と実」を読み返す。長島明夫さんがツイッターで、このテキストで参照されている絵画作品の画像を集めたブログへのリンクを貼ってくれていて、本に載っている粗いモノクロ図版だけでは何を言っているのかよく分からないと思うが、このブログの画像をみると、「虚の透明性」という語で何を示そうとしているのかが、かなり分かりやすくなるのではないかと思った。

下の画像は本の図版と上記リンク先のブログのスクショの比較だが、本の図版では、ほぼ同じような絵に見えてピカソとブラックの違いなど全然分からないが、ブログの画像を見れば分かりやすいのではないか(図版とスクショとで、ピカソとブラックの並びが左右逆になっている)。

ピカソの絵では、人物はキュビズム的に分解されてはいるが、人物と背景とがはっきり分離されていて、前景と後景という空間構造は伝統的な絵画と何も変わらない。一方、ブラックの絵は、人物と背景が入り混じっていて分離できず、一見、空間が平板化して見えるが、前に出てくる空間と後ろへ下がる空間とを一望で捉えることが出来ないように、前後関係が部分部分で矛盾するように組み立てられていて、それによって生まれるズレ(食い違い)や、諸部分間の細かい振幅=振動(押し合いへし合い)などによって、伝統的な(三次元空間を表象する)絵画空間とは異なる「(不透明な)深さ」が生まれている。このテキストではそれを「虚の透明性」と呼ぶ。虚の透明性は、不透明であることで生じる透明性だと言ってもいいと思う。

ジョージ・ケペシュによる「(虚の)透明性」の定義。

《二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけでなく絶えず前後に揺れ動いているのである。》

2023/01/06

●最近の検索エンジンへの不満は、文字通り、そのままを検索してくれないことがある、というところにある。

Googleにしても、打ち込んだ文字をそのまま検索して欲しいのに、勝手に意味を解釈してしまう場合がある。例えば、岡﨑乾二郎の『回想のヴィトゲンシュタイン』という8ミリ映画作品に、「なぜ海岸はいつも、海の近くにあるのか」という、分析哲学的ジョークのような言葉が出てくる。この文言を検索すると、《もしかして:なぜ海外はいつも、海の近くにあるのか》なのでは?、とサジェストされ、上位には「松はなぜ海の近くに生えているのか」「なぜ砂浜海岸は日本海側に多いのでしょう」「海にはどうして波があるの、波はどうやってできるの|自然」という検索結果が並び、どこまで見ていっても、文字通り、そのままの文言を含む結果が出てこない。検索でヒットしないということは、そのように書かれたWebページが存在しないということではないか、と言われるかもしれないが、ぼく自身が、『回想のヴィトゲンシュタイン』について書いたこの日記に「なぜ海岸はいつも、海の近くにあるのか」と書き込んでいる。なのに、検索でそこにたどり着けない。

「なぜ海岸はいつも、海の近くにあるのか」という、いかにも分析哲学っぽいギャグ(言葉)は、港にぽつんと座っている、(「心」のない、かぶり物の)ヴィトゲンシュタインくん」の物悲しい表情(無表情)の映像とセットになることで、はじめて強く印象づけられる。この2つのものの間(落差)にある、みえない過剰こそが、問題とされている。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

意味を解釈してサジェストするというのは素晴らしい機能だと思うが、検索結果は、まずは文字通りのものを探して上位に示して、解釈したものはその次に出てくるようにしてくれないかなあ、と思う。言葉にとって「意味」が全てではないのだから、「一見、無意味であるように見える」とか「常識的には意味が通らない」からと言って黙殺しないで欲しい(というかそもそも、サジェストされた「なぜ海外はいつも、海の近くにあるのか」という文言も意味が通っていないではないか)。

(文字通り、そのまま律儀な検索をするよりも、徴候を読み取って鋭く意味を解釈する「直感的」な検索の方が技術的にずっと高度だということは分かっているし、それができるようになったことがどれだけ驚くべきことなのかということも、ある程度は分かっているつもりだけど、文字通りの検索の方もちゃんと残しておいてほしい、と。)

追記。この件について、「“ ”」で括って検索すると、文字通りの検索結果が出ると教えていただきました。

●左右に人がいる状態で話をしていて、右の人の声はちゃんと聞こえるのに、左側の人の話がどうしても聞き取れなくて、いつの間にこんなにも耳が遠くなってしまったのかと愕然とするという夢を見たのだが、目覚めてみると、右の耳にだけイヤホンを入れてYouTubeの動画の音を聞きながら、うとうと寝落ちしていたのだった。

2023/01/05

ゴダールの『勝手に逃げろ/人生』をDVDで。久々に観られてよかった。昨年、ゴダールが亡くなったことを知った時にも、ゴダールの作品を改めて観直そうという気持ちにはあまりならなかった。正直、近年はゴダールから関心が離れ気味だった。3D映画はすごいと思ったが、基本的に「映画史」以降のゴダールにはそんなにはのれない感じだったから。

でも、外付けのディスクドライブを買って、ちゃんと動くか試してみようという時に、ゴダールの短めの映画がちょうど良いと思って『JLG/自画像』と『フレディ・ビュアシュへの手紙』を観てみて、「ゴダールの感じ」がぐわっと生々しく蘇ってきたのだった。そして、さらに『パッション』と『勝手に逃げろ/人生』を観て、これだよ、これ、という感覚になる。ディスクドライブを買ったおかげで、それがきっかけとなって、「この感じ」にまた触れることができた。特に、『勝手に逃げろ/人生』は、(全作品を観ているわけではないが、観ている限りで)ゴダールの中で最も「しっくりくる」作品なのだったということを、改めて思い出した。80年の『勝手に逃げろ/人生』と81年の『フレディ・ビュアシュへの手紙』の、ちょうど良い粗挽き感が、ぼくにはすごくしっくりくる。

時系列で並べてみると、『勝手に逃げろ/人生』(80)→『フレディ・ビュアシュへの手紙』(81)→『パッション』(82)→『カルメンという名の女』(83)と、みるみる粗挽き感が減り、急激に洗練の度合いを高めてくる。この辺りの作品は全て大好きだが、その中でもいっそう『勝手に逃げろ/人生』に強く惹かれる。あらゆる場面、あらゆるモンタージュ、あらゆるショットを、新鮮に感じ、面白いと感じる。

おそらく、90年代に入って、『ヌーヴェルヴァーグ』(90)、『ゴダールの決別』(93)、『フォーエヴァー・モーツアルト』(96)という辺りの作品が、ゴダール的なソニマージュの洗練が最も高みにまで達したところではないかと思う。この時期の作品もまた素晴らしいのだが、ただ、これらの作品は、90年代に入って世界情勢が大きく動いたことや、ゴダール自身が年齢を重ねたということもあると思うのだが、最後に話を綺麗なところでまとめようとする傾向が感じられて(ヨーロッパ的な教養と良識のようなところへ着地しようとする感じがあって)、そこにちょっとした引っ掛かりを感じないでもない(特に『映画史』の終盤の「歌い上げる」感じなどには抵抗を感じる)。

でも、70年代終わりから80年代初め頃のゴダールは、粗挽きだし、粗野だし、(邪気も含めて)元気だし、落ち着きがなくて、あらゆる部分がきれいなところに着地することを拒むように跳ねていて、その分、隙間や空隙がたくさんあって、とても風通しがよく、身も蓋もないような「驚き」と「新鮮さ」に溢れている。『勝手に逃げろ/人生』には、ゴダール的な驚きと新鮮さとが直接的に(モロに)露呈しているように思う。

2023/01/04

●『JLG/自画像』と『フレディ・ビュアシュへの手紙』を観た勢いで、『パッション』をDVDで久々に観た。ゴダールは常に騒々しくて落ち着きがなく、ガチャガゃしている。美しい音楽は気に障る騒音でしばしばかき消される。人々は騒がしく入り乱れ、その人々の騒ぎの流れすらも、頻繁に別の流れの挿入によって断ち切られる。ゴダールは、風景を撮ると過剰に美しく撮りすぎてしまうきらいがあるが、息を呑むような美しいショットが、落ち着きのないガチャガチャ世界の中に無造作に置かれる。美しさに対する鋭敏さとそっけなさとが同居しているというか、美に対して体がすっと反応して捉えてしまうが、その「捉えたもの」に対する執着はあまりない感じ。
ここでゴダールは、スタジオにセットを組んで、クレーンを用いて長回しのカットを撮るということを、嬉々としてやっているように見える。フィクション内の映画監督は、「光だがダメだ」「物語を見つけなければ」と言って苦悩し、撮影は行き詰まっているようだし、故郷のポーランドの情勢や残してきた家族が気がかりでもあるようだが(そんなことを言いつつも「現地」で二人——あるいは三人——の女性と仲良くしていたりするが)、長回しで撮られたショットをそのもの見ると、どこまでも楽しげにやっているようにしか見えない。そして、観ていてとても楽しい。
この、スタジオで撮られる長回しのショットは、『フレディ・ビュアシュへの手紙』にあった、ローザンヌの街を捉えるゆったりと移動していく展開性のあるパンニングの延長であり、発展形であるように思われる。
リップシンクしないことの自由。工場を不当解雇された女性について抗議するための集会の場面などで、音声(言葉やハモニカの音など)と画面とが一致していないところが何度かある。これは、意図的にズラしているというより、たんに一致していないという感じなのが面白い。勿論、意図的にズラしているのだが、「ズラすこと」そのものに意味があるというのではない感じ。音と映像とがシンクロしている状態が「普通」で、それに対して何か「意味のある別のこと」をしているのではなく、「シンクロしている状態」もまた、音と映像との様々なあり得る関係のうちの一つにしか過ぎず、本来はあり得る関係の全てが等価であるはずだ、ということこそを示しているズレだと思う。
●今年初めて買った本。

 

2023/01/03

●大学での講義のために、『この世界のさらにいくつもの片隅に』をNetflixで観直していて、日付字幕について新たな発見したをした。この映画は「8年12月」という字幕から始まり、「10年8月」「13年12月」と進んでいく。そして次の「18年3月」で、戦争が始まるとともに、すずさんのところに周作とその父が求婚にやってくる。翌年の「19年2月」に結婚して周作の家に移り住み、次の月の「19年3月」に帰省するときには、もうすでにすずさんの頭に新しい生活のストレスからくるであろうハゲがあるのが発見される。わずか一ヶ月で…、というところに、一見ふわっとしてのんびりに見えるすずさんにさえ過重な気苦労がかかっていることが表現される。

このように、字幕は日付をずっと「月単位」で示している。それが、「20年3月」という字幕の後に、呉に初めての空襲があると、その次に「20年3月29日午前4時50分」という字幕が出て、時間まで示されるのは数度あるだけだが、今後「20年3月31日」という形で、日にちまで示されるようになる(4月以降は「20年」と言う年表記が取れる)。月刻みだった時間が日刻みになり、作品のモードがここから明らかに変化することが、日付字幕によっても明確に表現されていた。

ここまでは、確かに戦争による影響は至るところにみられ、日々、生活の逼迫は増してきてはいるものの(そして、周作とりんさんとの関係にモヤモヤしているものの)、大雑把に見れば、のんびり穏やかに暮らしている様が描かれている。しかしここからは、急速に、日刻みに、戦争がすずさんたちの生活から多くのものを否応なく次々と奪っていく様が示される展開になる。

ただ、日付字幕にかんして例外があり、二回だけ、字幕によって日にちが示されない日がある。「6月21日」に、行方不明だった周作の父が海軍の病院に収容されていることが分かり、父を見舞った周作の姉が(父から頼まれた時計の修理を口実に)明日、下関にある夫の実家へ行ってくると言った、その次の日、姉と、その子供のハルミ、そしてすずさんの三人で、父の病院へ出掛けていく場面には日付の字幕が出ない。この日は、不発弾を装った時限爆弾によって、ハルミが亡くなり、すずさんが右手を失った日なのだ。つまりこの日は、他の日と同じようにはカレンダーの中に並べることのできない、日付の秩序には収まらない(あるいは、歴史の外にある)、例外的な日だと言うことだろう。

例外はもう一つある。「7月28日 午前7時」、ザギを追いかけて空襲の只中に出てしまったすずさんが、彼女を庇うように覆いかぶさる周作に向かって「広島へ帰る」と宣言するのだが、次の場面で字幕は「その9日後」と出て、日付は示されない。「7月28日」の9日後とは20年の「8月6日」であり、広島に原爆が落とされた日だ。

この二つを例外にして、それ以外は、日刻みの日付字幕が敗戦の日まで続く。しかし、戦争が終わった後には、この日付字幕はいっさい出なくなる。つまりここでまた、時間のモードが変わったのだ。この作品の戦後の展開は、歴史=戦争によって奪われたものを、フィクションが少しずつ取り戻そうとしているパートだと言えると思う。

(追記。改めて確認したところ。これは間違いで、戦後も、「9月17日(台風による納屋倒壊、義父が海軍を辞める)」「10月6日(周作が海軍解体のために出張 すずが壊滅した遊郭跡を訪れる)」という日付字幕がつき、その後、「20年11月」と、月刻みの字幕に戻って終わる。)

2023/01/02

●今年最初の買い物として、ブルーレイ・ドライブを買い直した。27インチのiMacの綺麗なモニターでDVDが観たいという気持ちを抑えきれなかった。安価なものだが、Macとの相性や評判などを、ネットで少し調べてから決めた。

テストとして、ゴダールの『JLG/自画像』と『フレディ・ビュアシュへの手紙』をDVDで観た。問題なく観ることが出来た。

『JLG/自画像』は確か、公開当時には「ゴダールの美しい遺言のような映画」と言われていたと記憶しているが、95年の映画で(日本公開は2002年)、遺言どころか、ゴダールはこの後、四半世紀以上生きて、旺盛に映画を作り続けた。

この映画、前半はとても素晴らしいのだが、終盤に向かって、まさに「遺言」みたいになって、「個である私が個として普遍へ至らなければ…」みたいな調子になっていくところに、安易にそっちに傾倒するのはちょっと、という、軽い抵抗を感じてしまう。

『フレディ・ビュアシュへの手紙』は大好きな映画なのだが、ゴダールはこの後、こういう方向(風景や街や人々を、このように撮る方向)の映画を作っていなくて、それがとても惜しいと感じる。これはゴダールの性質なのだろうが、ここで、(風景---色彩と光----を捉える)ゆったりと移動していく展開性のあるパンニングや、(街の人々を捉える)過剰に密度を高めない緩さの残った----しかし的確な----速度の操作だったものが、急激に、密度をギュッと凝縮させて、(「音」の操作も含めて)決め決めに要素を詰め込んでいく流れになる。そこがすごいというところなのだが、そんな一足飛びに完成度を高めないで、緩さのなかにある可能性をもうちょっとみてみてもよかったのではないかと思ってしまう。

(『ゴダールのマリア』のギュッと詰まった密度、『ゴダールの探偵』のマニエリスム的な豪華さなど、確かにすごいのだが。)

とはいえ、『勝手に逃げろ/人生』とか『パッション』とか『カルメンという名の女』には、多少は『フレディ・ビュアシュへの手紙』的な緩さが感じられて、80年代はじめ頃のゴダールは特に好きなのだった。